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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
10/79

白い花の記憶

 旅の途中、シオンはたびたび過去の記憶を見る。

 それは眠りの中で見る夢ではない。眠ることのできないシオンにとって、記憶は白昼夢のように、何の前触れもなく現れる。


 ラズの声。何気なく首を傾げる仕草。森に自生する白い花。風に乗って漂う薬草の匂い。そんな些細なものが、彼が閉ざしたはずの記憶の扉を勝手に開く。

 忘れたことなど、一度もない。それでも、記憶の方から鮮明な形を伴って現れるたび、シオンは過去へ連れ戻された。


◇


 その日、ラズが足を挫いた。


「あっ」


 短い声と共に、ラズの身体が傾く。

 森の斜面から突き出していた木の根へ足を取られたらしい。倒れる前に近くの幹へ手をついたものの、右足を地面へ下ろした瞬間、痛みに顔を歪めた。


 少し先を歩いていたシオンが足を止める。


「何をしている」


「転びそうになった」


「見れば分かる」


 シオンは引き返してくると、ラズの足元へ視線を落とした。


「歩けるか」


「たぶん」


 ラズが一歩踏み出そうとする。だが、足首へ体重をかけた途端、顔をしかめてよろめいた。

 シオンは、近くに倒れていた太い木の幹を指す。


「座れ」


「でも、治癒術で治せると思う」


「座ってからやれ」


 ラズは少し不満そうな顔をしたものの、言われた通り倒木へ腰を下ろした。靴を脱ぎ、腫れ始めた足首へ両手を翳す。

 指先から淡い光が生まれた。しかし、集中しようと力を入れた瞬間、傷めた足が疼いたのか、ラズは小さく息を詰める。

 その表情を見た瞬間、目の前の景色が揺らいだ。


 幼い頃。シオンは、村外れの斜面で膝を擦りむいていた。

 自分よりも年下の子どもが足を滑らせたのを見て、咄嗟に手を伸ばしたのだ。

 子どもは無事だった。代わりに、シオンが斜面を転がり落ちた。

 そんなシオンに、すり潰した薬草を持って駆けつけてきては手当をした少女がいた。——リゼだ。


「シオン?」


 呼びかけられ、追憶に耽っていた意識が現在へ戻る。

 目の前に、ラズの顔があった。治癒術を止め、心配そうにシオンを覗き込んでいる。


「どうしたの?」


 ラズが手を伸ばす。

 その仕草が、眉を下げた表情が。あまりにも、記憶の中のリゼに似ていた。

 シオンは反射的に、その手を払った。


「触るな」


 乾いた音が鳴る。

 ラズは驚いたように目を見開き、手を引いた。


「……ごめん」


 シオンは何も答えなかった。

 謝るべきなのは自分だと分かっている。ラズはただ、様子がおかしいシオンを心配しただけだ。

 それでも、謝罪の言葉は喉の奥に引っかかり、出てこなかった。


 ラズは払われた手を、もう片方の手で抱える。


「今、誰かを見てた?」


 シオンは答えない。


「わたしじゃない人を」


 シオンの表情が僅かに硬くなった。

 ラズはそれに気づいたのか、それ以上は何も尋ねなかった。


 再び足首へ手を翳し、治癒術を使う。淡い光が腫れた箇所を包み、徐々に痛みを和らげていく。


「もう歩けると思う」


 しばらくして、ラズが立ち上がった。

 足首を確かめるように、何度か地面を踏む。


「そうか」


 シオンはそれだけ言って、再び歩き始めた。

 いつもより僅かに歩く速度を落としていることを、ラズは指摘しなかった。


◇


 別の日。

 二人は、森の中にある小さな草原を通りかかった。木々に囲まれた開けた土地に、白い花が一面に咲いている。


 細い茎。丸みを帯びた、小さな花弁。季節や土地を選ばず、痩せた地面にも根を張る、ありふれた花だった。

 どこにでも咲いている。珍しいものでも、価値のあるものでもない。だが、シオンにとっては違った。

 リゼが好きだった花だ。


 白い花が風に揺れる。

 その向こうに、遠い日の光景が重なった。

 声が聞こえる。いつもの幻ではない、記憶の中の声が。


 ——シオンがまた無茶をしそうになった時、これを見て思い出して。

 ——絶対、ここに帰ってくるって。


「綺麗だね」


 ラズの声で、現実へ引き戻される。

 彼女は白い花の前へ膝をつき、花弁へ指を伸ばしていた。


「それに触るな」


 低い声が飛ぶ。

 ラズの手が止まった。


「駄目なの?」


 シオンは咲き誇る花を見ていた。

 二色の瞳は、目の前の草原ではなく、もっと遠い場所を見ている。


「……いや」


 短く答える。

 なぜ止めたのかは、自分でも分からなかった。

 ラズが花へ触れたところで、何かが損なわれるわけではない。この花はリゼだけのものでもない。

 それでも、彼女と同じ顔をしたラズが、リゼの好きだった花へ触れようとした瞬間、制止する言葉が口から転がり出ていた。


 ラズは特に気分を害した様子もなく、素直に手を引く。


「この花、何ていうの?」


 しばらく返事はなかった。

 やがて、シオンが小さく答える。


「……ツェルトリヒだ」


「ツェルトリヒ」


 ラズが、その名を繰り返す。


「シオンは、花に詳しいの?」


「違う。リゼが話していたのを聞いただけだ」


 その名が口にされた瞬間、二人の間の空気が僅かに変わった。

 ラズは改めて花を見つめる。


「もしかして、リゼが好きだった花?」


 シオンは答えなかった。だが、否定もしない。


「リゼは、しっかりした人だったの?」


 ラズがシオンの横顔を見上げる。


「薬草に詳しくて、花も好きで。きっと、何でもちゃんとできる人だったのかなって」


 そこで、思い出したように付け加える。


「あ。でも、料理は下手だったんだっけ」


「……違う。あいつは、何でもちゃんとできるような奴じゃなかった」


 シオンが僅かに眉を寄せる。


「違うの?」


「あいつは、花が好きなくせによく水をやり忘れた」


 ラズが瞬きをする。


「そうなの?」


「家の裏に小さな花壇を作っていた」


「自分で?」


「ああ。だが、作ったことで満足したのか、三日も経てば水をやることを忘れた」


「それで、枯れちゃった?」


「俺が水をやっていた」


 ラズの口元が緩む。


「シオンが?」


「放っておけば、枯れた後であいつが騒ぐ」


「そうだったんだ」


 花壇へ水を運ぶシオンの姿は、今の彼からは想像しにくい。その意外さが可笑しくて、ラズはくすりと笑った。


「優しいね」


 その瞬間、シオンの表情が強ばった。

 優しいという言葉を、シオンは拒むのだとラズはすぐに気づき、言葉を継ぐ。


「ごめん。勝手に決めた」


 シオンは白い花を見下ろした。


「……リゼは、何でもできる奴じゃなかった」


 風が吹く。ツェルトリヒの花が大きく揺れ、数枚の花弁が二人の足元を滑っていく。


「よく怒った。よく忘れた。料理は下手だった。花を育てるのも下手だった」


 シオンは静かに言う。


「でも、好きだったんだね」


 ラズは少し迷った後、尋ねた。

 誰が、何をとは明言しなかった。花のことか、リゼのことか、その両方なのか。


 シオンは答えず、歩き始めた。


「行くぞ」


 ラズも立ち上がる。だが、すぐには後を追わなかった。


「一輪だけ、持っていってもいい?」


 シオンの足が止まる。振り返らないまま、長く沈黙した。


「……好きにしろ」


 許可というよりも、拒む理由を見つけられなかったような声だった。


 ラズはできるだけ茎を傷つけないよう、そっと一輪だけ花を摘む。

 摘んだツェルトリヒの花を胸元へ持ち、眺めながら微笑んだ。


「なんとなく、リゼに似合いそうな花だね」


 シオンは答えない。


「でも、わたしも少し好きかも」


 シオンは振り返らなかった。

 それでも、ラズが追いつくまで、歩く速度を僅かに落としていた。

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