白い花の記憶
旅の途中、シオンはたびたび過去の記憶を見る。
それは眠りの中で見る夢ではない。眠ることのできないシオンにとって、記憶は白昼夢のように、何の前触れもなく現れる。
ラズの声。何気なく首を傾げる仕草。森に自生する白い花。風に乗って漂う薬草の匂い。そんな些細なものが、彼が閉ざしたはずの記憶の扉を勝手に開く。
忘れたことなど、一度もない。それでも、記憶の方から鮮明な形を伴って現れるたび、シオンは過去へ連れ戻された。
◇
その日、ラズが足を挫いた。
「あっ」
短い声と共に、ラズの身体が傾く。
森の斜面から突き出していた木の根へ足を取られたらしい。倒れる前に近くの幹へ手をついたものの、右足を地面へ下ろした瞬間、痛みに顔を歪めた。
少し先を歩いていたシオンが足を止める。
「何をしている」
「転びそうになった」
「見れば分かる」
シオンは引き返してくると、ラズの足元へ視線を落とした。
「歩けるか」
「たぶん」
ラズが一歩踏み出そうとする。だが、足首へ体重をかけた途端、顔をしかめてよろめいた。
シオンは、近くに倒れていた太い木の幹を指す。
「座れ」
「でも、治癒術で治せると思う」
「座ってからやれ」
ラズは少し不満そうな顔をしたものの、言われた通り倒木へ腰を下ろした。靴を脱ぎ、腫れ始めた足首へ両手を翳す。
指先から淡い光が生まれた。しかし、集中しようと力を入れた瞬間、傷めた足が疼いたのか、ラズは小さく息を詰める。
その表情を見た瞬間、目の前の景色が揺らいだ。
幼い頃。シオンは、村外れの斜面で膝を擦りむいていた。
自分よりも年下の子どもが足を滑らせたのを見て、咄嗟に手を伸ばしたのだ。
子どもは無事だった。代わりに、シオンが斜面を転がり落ちた。
そんなシオンに、すり潰した薬草を持って駆けつけてきては手当をした少女がいた。——リゼだ。
「シオン?」
呼びかけられ、追憶に耽っていた意識が現在へ戻る。
目の前に、ラズの顔があった。治癒術を止め、心配そうにシオンを覗き込んでいる。
「どうしたの?」
ラズが手を伸ばす。
その仕草が、眉を下げた表情が。あまりにも、記憶の中のリゼに似ていた。
シオンは反射的に、その手を払った。
「触るな」
乾いた音が鳴る。
ラズは驚いたように目を見開き、手を引いた。
「……ごめん」
シオンは何も答えなかった。
謝るべきなのは自分だと分かっている。ラズはただ、様子がおかしいシオンを心配しただけだ。
それでも、謝罪の言葉は喉の奥に引っかかり、出てこなかった。
ラズは払われた手を、もう片方の手で抱える。
「今、誰かを見てた?」
シオンは答えない。
「わたしじゃない人を」
シオンの表情が僅かに硬くなった。
ラズはそれに気づいたのか、それ以上は何も尋ねなかった。
再び足首へ手を翳し、治癒術を使う。淡い光が腫れた箇所を包み、徐々に痛みを和らげていく。
「もう歩けると思う」
しばらくして、ラズが立ち上がった。
足首を確かめるように、何度か地面を踏む。
「そうか」
シオンはそれだけ言って、再び歩き始めた。
いつもより僅かに歩く速度を落としていることを、ラズは指摘しなかった。
◇
別の日。
二人は、森の中にある小さな草原を通りかかった。木々に囲まれた開けた土地に、白い花が一面に咲いている。
細い茎。丸みを帯びた、小さな花弁。季節や土地を選ばず、痩せた地面にも根を張る、ありふれた花だった。
どこにでも咲いている。珍しいものでも、価値のあるものでもない。だが、シオンにとっては違った。
リゼが好きだった花だ。
白い花が風に揺れる。
その向こうに、遠い日の光景が重なった。
声が聞こえる。いつもの幻ではない、記憶の中の声が。
——シオンがまた無茶をしそうになった時、これを見て思い出して。
——絶対、ここに帰ってくるって。
「綺麗だね」
ラズの声で、現実へ引き戻される。
彼女は白い花の前へ膝をつき、花弁へ指を伸ばしていた。
「それに触るな」
低い声が飛ぶ。
ラズの手が止まった。
「駄目なの?」
シオンは咲き誇る花を見ていた。
二色の瞳は、目の前の草原ではなく、もっと遠い場所を見ている。
「……いや」
短く答える。
なぜ止めたのかは、自分でも分からなかった。
ラズが花へ触れたところで、何かが損なわれるわけではない。この花はリゼだけのものでもない。
それでも、彼女と同じ顔をしたラズが、リゼの好きだった花へ触れようとした瞬間、制止する言葉が口から転がり出ていた。
ラズは特に気分を害した様子もなく、素直に手を引く。
「この花、何ていうの?」
しばらく返事はなかった。
やがて、シオンが小さく答える。
「……ツェルトリヒだ」
「ツェルトリヒ」
ラズが、その名を繰り返す。
「シオンは、花に詳しいの?」
「違う。リゼが話していたのを聞いただけだ」
その名が口にされた瞬間、二人の間の空気が僅かに変わった。
ラズは改めて花を見つめる。
「もしかして、リゼが好きだった花?」
シオンは答えなかった。だが、否定もしない。
「リゼは、しっかりした人だったの?」
ラズがシオンの横顔を見上げる。
「薬草に詳しくて、花も好きで。きっと、何でもちゃんとできる人だったのかなって」
そこで、思い出したように付け加える。
「あ。でも、料理は下手だったんだっけ」
「……違う。あいつは、何でもちゃんとできるような奴じゃなかった」
シオンが僅かに眉を寄せる。
「違うの?」
「あいつは、花が好きなくせによく水をやり忘れた」
ラズが瞬きをする。
「そうなの?」
「家の裏に小さな花壇を作っていた」
「自分で?」
「ああ。だが、作ったことで満足したのか、三日も経てば水をやることを忘れた」
「それで、枯れちゃった?」
「俺が水をやっていた」
ラズの口元が緩む。
「シオンが?」
「放っておけば、枯れた後であいつが騒ぐ」
「そうだったんだ」
花壇へ水を運ぶシオンの姿は、今の彼からは想像しにくい。その意外さが可笑しくて、ラズはくすりと笑った。
「優しいね」
その瞬間、シオンの表情が強ばった。
優しいという言葉を、シオンは拒むのだとラズはすぐに気づき、言葉を継ぐ。
「ごめん。勝手に決めた」
シオンは白い花を見下ろした。
「……リゼは、何でもできる奴じゃなかった」
風が吹く。ツェルトリヒの花が大きく揺れ、数枚の花弁が二人の足元を滑っていく。
「よく怒った。よく忘れた。料理は下手だった。花を育てるのも下手だった」
シオンは静かに言う。
「でも、好きだったんだね」
ラズは少し迷った後、尋ねた。
誰が、何をとは明言しなかった。花のことか、リゼのことか、その両方なのか。
シオンは答えず、歩き始めた。
「行くぞ」
ラズも立ち上がる。だが、すぐには後を追わなかった。
「一輪だけ、持っていってもいい?」
シオンの足が止まる。振り返らないまま、長く沈黙した。
「……好きにしろ」
許可というよりも、拒む理由を見つけられなかったような声だった。
ラズはできるだけ茎を傷つけないよう、そっと一輪だけ花を摘む。
摘んだツェルトリヒの花を胸元へ持ち、眺めながら微笑んだ。
「なんとなく、リゼに似合いそうな花だね」
シオンは答えない。
「でも、わたしも少し好きかも」
シオンは振り返らなかった。
それでも、ラズが追いつくまで、歩く速度を僅かに落としていた。




