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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
11/79

面影の向こう

 その日の夜。

 焚き火が小さく揺れていた。

 ラズは昼間に摘んだツェルトリヒを、水筒の口へ挿している。中に残っている水は僅かだったが、白い花は萎れず、焚き火の光を受けて淡く輝いていた。


 シオンは少し離れた場所に座り、森の暗がりを見ている。


 ラズは花を眺めながら口を開いた。


「リゼは、薬草にも詳しかったんだよね」


「……ああ」


 返事があったことに、ラズは少し驚いた。


「シオンも詳しかったの?」


「俺は見分けられなかった」


「そうなの?」


「毒草と薬草を間違えたことがある」


 ラズが勢いよく顔を上げる。


「食べたの?」


「食べていない。摘んだ時にリゼが気づいた」


「怒られた?」


「薬草籠で殴られた」


 ラズは笑いそうになり、慌てて両手で口元を押さえた。肩だけが小刻みに震えている。

 シオンは眉間へ皺を寄せた。


「何がおかしい」


「ごめん」


「笑っているだろう」


「だって……今のシオンが、薬草を間違えて籠で叩かれてるところ、想像できなくて」


「忘れろ」


「無理かも」


 ラズはまだ肩を震わせている。

 シオンは不機嫌そうに火へ視線を移した。その揺れる炎の中に、別の景色が浮かぶ。



 その日は、よく晴れていた。

 今より幼かったシオンは、籠を持ったリゼの後ろを歩いている。

 リゼは迷いのない足取りで、森の中へ入っていった。


「こっち」


「本当に道があるのか?」


「あるよ。たぶん」


「たぶんで森に入るな」


 リゼが振り返る。


「シオン、怖いの?」


「怖くない」


 即座に答えた。


 その瞬間、近くの茂みが大きく揺れた。

 シオンの肩が跳ねる。

 リゼがその様子を見て、にやりと笑った。


「怖いんだ」


「違う」


「今、すごく分かりやすかった」


「魔物かもしれないだろ」


「ただの鳥だよ」


 リゼが茂みを指差す。

 小さな鳥が一羽、地を蹴って飛び立った。

 シオンは気まずそうに目を逸らす。


「鳥にも、人を襲う種類はいる」


「この辺りにはいないよ」


「知らないだけかもしれないだろ」


「負け惜しみ」


 リゼが悪戯っぽく笑う。

 シオンは不機嫌そうに、その後ろを歩いた。


 だが、森の奥へ入るにつれて、足取りは次第に鈍くなっていった。

 木々が密集し、日差しが届かなくなる。枝葉が擦れ合う音が、遠くで唸る獣の声のように聞こえた。

 リゼは、シオンの足取りが鈍くなったことに気づいていた。


「戻る?」


「戻らない」


「怖いなら、戻ってもいいよ」


「怖くないって言ってるだろ」


「そっか」


 リゼはそれ以上からかわなかった。

 ただ、少しだけ歩く速度を落とした。シオンが追いかけなくても、隣へ並べるように。


 やがて二人は、小さな湿地へ辿り着いた。目的の薬草が、浅い水の周囲へ群生している。

 リゼは膝をつき、慣れた手つきで薬草を摘み始めた。

 シオンも見よう見まねで、近くに生えていた草を摘む。数本摘んだところで、リゼがその手首を掴んだ。


「それ、毒草」


「……同じじゃないのか」


「全然違うよ」


 リゼは、シオンが摘んだ草と、薬草を並べて見せる。


「葉の形が違うでしょう?」


「ほとんど同じだ」


「違うってば」


「色も同じだろ」


「葉の裏を見て。こっちには細い線があるけど、毒草にはないの」


 シオンは二枚の葉を見比べる。

 しばらく眺めても、シオンにとってはほとんど同じにしか見えなかった。


「……よく分からないな」


「ちゃんと見て」


 リゼが籠でシオンの頭を軽く叩く。


「痛い」


「痛くしてない」


「痛かった」


「じゃあ、次から間違えないね」


 リゼは笑う。

 シオンは文句を言いながらも、その手元を覗き込んだ。


 怖かった。森も、魔物も、毒草も、自分が何も知らないことも。

 それでも、リゼが隣にいれば、少しだけ怖くないふりができた。



「ドジなところもあったんだね」


 ラズの声に、シオンの意識が現在へ戻る。

 シオンは目を細めた。


「誰がだ」


「昔のシオン」


「……」


「薬草を間違えて、籠で叩かれてたんでしょう?」


 シオンは火を見つめる。


「……間抜けで、愚かで、怖がりで、弱い子どもだった」


 その声には、過去の自分を懐かしむ響きがなかった。寧ろ、忌むべきものを語るような冷たさがある。


「何も知らず、何もできなかった」


 ラズは、水筒に挿した白い花へ視線を落とした。


「それでも、リゼはそういうシオンを知ってたんだね」


 シオンの拳が僅かに握られる。


「……ああ」


 だからこそ、失った。だからこそ、自分が壊した。

 あの時の自分が、間抜けだったから。愚かだったから。弱かったから。


 火の中で、薪が爆ぜる。

 ラズは、それ以上何も尋ねなかった。


 白い花だけが、二人の間で静かに揺れていた。



 二人の旅は、奇妙な形で続いていった。


 シオンは時折、ラズを突き放す。しかしラズは離れない。

 冷たい言葉を投げつければ傷ついた顔をする。それでも再びシオンの後ろを歩いている。

 特に、死者の幻が強く現れた後は、それに苛まれたシオンの言葉も鋭くなった。


「リゼの顔で、俺を見るな」


 ラズが足を止める。


「その声で俺の名前を呼ぶな」


「でも、これはわたしの顔と声だよ」


「違う」


 シオンは吐き捨てる。


「お前の顔も、声も、リゼのものだ。お前はリゼの偽物だ」


 ラズは、そのたびに悲しそうに目を伏せた。


 初めの頃は、何も言い返さなかった。だが、やがてラズも、黙って傷つけられるだけではなくなった。


「わたしは、リゼでも偽物でもない」


 ラズはシオンを真っ直ぐに見た。


「ラズだよ」


 シオンは黙り込む。


「偽物って言われるのは嫌」


「……」


「わたしは、わたしだから」


 返せる言葉はなかった。


 傷つけていることは分かっている。遠ざけるためだと自分へ言い聞かせたところで、ラズの傷が消えるわけではない。


 ラズはリゼではない。それなのに、シオンは彼女の中へリゼの影を見てしまう。

 そして。リゼではないからこそ、失ったものを突きつけられているような気がして、憎むような言葉を吐いてしまう。


 矛盾していた。自分でも分かっている。

 だが、ラズをどう見ればよいのか。どう扱いたいのか。シオン自身にも、まだ分からなかった。



 ある夜。

 小さな焚き火の前で、ラズが問いかけた。


「シオンは、わたしにリゼでいてほしいの?」


 ラズは膝を抱える。


「それとも、リゼじゃないって思いたいの?」


 薪が崩れ、火の粉が舞った。


「……どちらも違う」


 長い沈黙の末、シオンが答える。


「じゃあ、何?」


 再び沈黙が落ちる。

 胸の奥で、ケイオスが見世物を見るように愉快そうに笑っていた。


『答えられぬのか』


 シオンは反応しなかった。問いかけを無視し、目の前の炎だけを見つめる。

 やがて、ぽつりと呟いた。


「分からない」


 ラズが少し驚いたように目を見開く。


 沈黙で拒むことも、冷たい言葉ではぐらかすこともせず、シオンが自分の分からないことを、素直に分からないと口にするのは珍しかった。


「そっか」


 ラズは静かに頷く。そして、僅かに微笑みを浮かべた。


「じゃあ、分かるまで一緒にいる」


「……勝手にしろ」


「うん。勝手にする」


 シオンは目を閉じた。

 眠ることはできない。ただ、炎もラズも視界から消すために、瞼を下ろしただけだった。


 闇の中で、リゼの声が聞こえる。


『まだ生きているの?』


 聞き慣れた、冷たい声。


『デウスを殺すことも、その後に自分が死ぬことも、忘れちゃったの?』


 忘れたことなどない。一秒たりとも。

 ラズと行動を共にしている間も、火の前で過去を語っている時も。復讐の目的は、シオンの内側から消えてはいない。消えるわけがない。


『いつまで、そんなふうに歩いているつもり?』


 シオンは答えない。


「——シオン」


 別の声が聞こえた。

 幻ではない。現実にいる、ラズの声だった。


 シオンは目を開ける。

 焚き火の向こうで、ラズがうとうとしていた。眠気に負けかけ、瞼が半分閉じている。それでも、蕩けたような目をシオンへ向けていた。


「何だ」


「まだ、そこにいる?」


「ああ」


「そっか」


 それだけだった。何かを頼むわけでもない。話の続きを求めるわけでもない。ラズはただ、シオンがまだ傍にいることを確かめたかったらしい。

 安心したように目を閉じる。やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。


 シオンは、しばらくその寝顔を見ていた。

 リゼとよく似た顔。だが、リゼとは違う少女。

 自分をラズだと言い、偽物と呼ばれることを拒み、怖いと正直に言いながらも、まだシオンの傍にいる少女。

 彼女はリゼではない。そして、偽物でもない。


 ——ならば、自分にとって何なのか。

 まだ分からない。だが、今ここにいるラズが死ぬ姿は、想像したくない。そのことだけは、確かだった。


 シオンは森の闇へ視線を戻す。

 ひどく長い夜が明けるまで、眠るラズの傍から離れず、黙って座り続けた。

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