面影の向こう
その日の夜。
焚き火が小さく揺れていた。
ラズは昼間に摘んだツェルトリヒを、水筒の口へ挿している。中に残っている水は僅かだったが、白い花は萎れず、焚き火の光を受けて淡く輝いていた。
シオンは少し離れた場所に座り、森の暗がりを見ている。
ラズは花を眺めながら口を開いた。
「リゼは、薬草にも詳しかったんだよね」
「……ああ」
返事があったことに、ラズは少し驚いた。
「シオンも詳しかったの?」
「俺は見分けられなかった」
「そうなの?」
「毒草と薬草を間違えたことがある」
ラズが勢いよく顔を上げる。
「食べたの?」
「食べていない。摘んだ時にリゼが気づいた」
「怒られた?」
「薬草籠で殴られた」
ラズは笑いそうになり、慌てて両手で口元を押さえた。肩だけが小刻みに震えている。
シオンは眉間へ皺を寄せた。
「何がおかしい」
「ごめん」
「笑っているだろう」
「だって……今のシオンが、薬草を間違えて籠で叩かれてるところ、想像できなくて」
「忘れろ」
「無理かも」
ラズはまだ肩を震わせている。
シオンは不機嫌そうに火へ視線を移した。その揺れる炎の中に、別の景色が浮かぶ。
◇
その日は、よく晴れていた。
今より幼かったシオンは、籠を持ったリゼの後ろを歩いている。
リゼは迷いのない足取りで、森の中へ入っていった。
「こっち」
「本当に道があるのか?」
「あるよ。たぶん」
「たぶんで森に入るな」
リゼが振り返る。
「シオン、怖いの?」
「怖くない」
即座に答えた。
その瞬間、近くの茂みが大きく揺れた。
シオンの肩が跳ねる。
リゼがその様子を見て、にやりと笑った。
「怖いんだ」
「違う」
「今、すごく分かりやすかった」
「魔物かもしれないだろ」
「ただの鳥だよ」
リゼが茂みを指差す。
小さな鳥が一羽、地を蹴って飛び立った。
シオンは気まずそうに目を逸らす。
「鳥にも、人を襲う種類はいる」
「この辺りにはいないよ」
「知らないだけかもしれないだろ」
「負け惜しみ」
リゼが悪戯っぽく笑う。
シオンは不機嫌そうに、その後ろを歩いた。
だが、森の奥へ入るにつれて、足取りは次第に鈍くなっていった。
木々が密集し、日差しが届かなくなる。枝葉が擦れ合う音が、遠くで唸る獣の声のように聞こえた。
リゼは、シオンの足取りが鈍くなったことに気づいていた。
「戻る?」
「戻らない」
「怖いなら、戻ってもいいよ」
「怖くないって言ってるだろ」
「そっか」
リゼはそれ以上からかわなかった。
ただ、少しだけ歩く速度を落とした。シオンが追いかけなくても、隣へ並べるように。
やがて二人は、小さな湿地へ辿り着いた。目的の薬草が、浅い水の周囲へ群生している。
リゼは膝をつき、慣れた手つきで薬草を摘み始めた。
シオンも見よう見まねで、近くに生えていた草を摘む。数本摘んだところで、リゼがその手首を掴んだ。
「それ、毒草」
「……同じじゃないのか」
「全然違うよ」
リゼは、シオンが摘んだ草と、薬草を並べて見せる。
「葉の形が違うでしょう?」
「ほとんど同じだ」
「違うってば」
「色も同じだろ」
「葉の裏を見て。こっちには細い線があるけど、毒草にはないの」
シオンは二枚の葉を見比べる。
しばらく眺めても、シオンにとってはほとんど同じにしか見えなかった。
「……よく分からないな」
「ちゃんと見て」
リゼが籠でシオンの頭を軽く叩く。
「痛い」
「痛くしてない」
「痛かった」
「じゃあ、次から間違えないね」
リゼは笑う。
シオンは文句を言いながらも、その手元を覗き込んだ。
怖かった。森も、魔物も、毒草も、自分が何も知らないことも。
それでも、リゼが隣にいれば、少しだけ怖くないふりができた。
◇
「ドジなところもあったんだね」
ラズの声に、シオンの意識が現在へ戻る。
シオンは目を細めた。
「誰がだ」
「昔のシオン」
「……」
「薬草を間違えて、籠で叩かれてたんでしょう?」
シオンは火を見つめる。
「……間抜けで、愚かで、怖がりで、弱い子どもだった」
その声には、過去の自分を懐かしむ響きがなかった。寧ろ、忌むべきものを語るような冷たさがある。
「何も知らず、何もできなかった」
ラズは、水筒に挿した白い花へ視線を落とした。
「それでも、リゼはそういうシオンを知ってたんだね」
シオンの拳が僅かに握られる。
「……ああ」
だからこそ、失った。だからこそ、自分が壊した。
あの時の自分が、間抜けだったから。愚かだったから。弱かったから。
火の中で、薪が爆ぜる。
ラズは、それ以上何も尋ねなかった。
白い花だけが、二人の間で静かに揺れていた。
◇
二人の旅は、奇妙な形で続いていった。
シオンは時折、ラズを突き放す。しかしラズは離れない。
冷たい言葉を投げつければ傷ついた顔をする。それでも再びシオンの後ろを歩いている。
特に、死者の幻が強く現れた後は、それに苛まれたシオンの言葉も鋭くなった。
「リゼの顔で、俺を見るな」
ラズが足を止める。
「その声で俺の名前を呼ぶな」
「でも、これはわたしの顔と声だよ」
「違う」
シオンは吐き捨てる。
「お前の顔も、声も、リゼのものだ。お前はリゼの偽物だ」
ラズは、そのたびに悲しそうに目を伏せた。
初めの頃は、何も言い返さなかった。だが、やがてラズも、黙って傷つけられるだけではなくなった。
「わたしは、リゼでも偽物でもない」
ラズはシオンを真っ直ぐに見た。
「ラズだよ」
シオンは黙り込む。
「偽物って言われるのは嫌」
「……」
「わたしは、わたしだから」
返せる言葉はなかった。
傷つけていることは分かっている。遠ざけるためだと自分へ言い聞かせたところで、ラズの傷が消えるわけではない。
ラズはリゼではない。それなのに、シオンは彼女の中へリゼの影を見てしまう。
そして。リゼではないからこそ、失ったものを突きつけられているような気がして、憎むような言葉を吐いてしまう。
矛盾していた。自分でも分かっている。
だが、ラズをどう見ればよいのか。どう扱いたいのか。シオン自身にも、まだ分からなかった。
◇
ある夜。
小さな焚き火の前で、ラズが問いかけた。
「シオンは、わたしにリゼでいてほしいの?」
ラズは膝を抱える。
「それとも、リゼじゃないって思いたいの?」
薪が崩れ、火の粉が舞った。
「……どちらも違う」
長い沈黙の末、シオンが答える。
「じゃあ、何?」
再び沈黙が落ちる。
胸の奥で、ケイオスが見世物を見るように愉快そうに笑っていた。
『答えられぬのか』
シオンは反応しなかった。問いかけを無視し、目の前の炎だけを見つめる。
やがて、ぽつりと呟いた。
「分からない」
ラズが少し驚いたように目を見開く。
沈黙で拒むことも、冷たい言葉ではぐらかすこともせず、シオンが自分の分からないことを、素直に分からないと口にするのは珍しかった。
「そっか」
ラズは静かに頷く。そして、僅かに微笑みを浮かべた。
「じゃあ、分かるまで一緒にいる」
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にする」
シオンは目を閉じた。
眠ることはできない。ただ、炎もラズも視界から消すために、瞼を下ろしただけだった。
闇の中で、リゼの声が聞こえる。
『まだ生きているの?』
聞き慣れた、冷たい声。
『デウスを殺すことも、その後に自分が死ぬことも、忘れちゃったの?』
忘れたことなどない。一秒たりとも。
ラズと行動を共にしている間も、火の前で過去を語っている時も。復讐の目的は、シオンの内側から消えてはいない。消えるわけがない。
『いつまで、そんなふうに歩いているつもり?』
シオンは答えない。
「——シオン」
別の声が聞こえた。
幻ではない。現実にいる、ラズの声だった。
シオンは目を開ける。
焚き火の向こうで、ラズがうとうとしていた。眠気に負けかけ、瞼が半分閉じている。それでも、蕩けたような目をシオンへ向けていた。
「何だ」
「まだ、そこにいる?」
「ああ」
「そっか」
それだけだった。何かを頼むわけでもない。話の続きを求めるわけでもない。ラズはただ、シオンがまだ傍にいることを確かめたかったらしい。
安心したように目を閉じる。やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。
シオンは、しばらくその寝顔を見ていた。
リゼとよく似た顔。だが、リゼとは違う少女。
自分をラズだと言い、偽物と呼ばれることを拒み、怖いと正直に言いながらも、まだシオンの傍にいる少女。
彼女はリゼではない。そして、偽物でもない。
——ならば、自分にとって何なのか。
まだ分からない。だが、今ここにいるラズが死ぬ姿は、想像したくない。そのことだけは、確かだった。
シオンは森の闇へ視線を戻す。
ひどく長い夜が明けるまで、眠るラズの傍から離れず、黙って座り続けた。




