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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
8/79

怪物の晩餐

 森で野営をしていた夜。

 ラズは、ふと目を覚ました。

 焚き火は、ほとんど消えかけていた。赤く残った熾火が、時折ぱちりと音を立てる。その微かな光が届かない場所は、深い闇に沈んでいる。

 木々の間を、冷たい風が吹き抜けた。

 ラズは身体を起こし、眠気の残る目で辺りを見回す。


「……シオン?」


 いつもなら、少し離れた場所にシオンがいる。

 眠ることなく座り、森の暗がりを見つめている。声をかけても返事をしないことは多いが、そこにいることだけは分かった。

 だが、今夜は姿がない。


「シオン?」


 もう一度名前を呼ぶが、返事はなかった。

 胸の奥が、ひやりと冷える。


 ——置いていかれた。

 一瞬、そんな考えが浮かんだ。


 シオンと出会ってから、まだそれほど長い時間は経っていない。

 彼は何度も、ついてくるなと言った。関わるな。離れろ。自分の傍にいれば死ぬ、と。

 それでもラズが勝手についていっただけで、シオンが本当に同行を認めたわけではない。目を覚ました時には一人だったとしても、何ら不思議ではなかった。


 ラズにとって、シオンは数少ない手掛かりだった。

 自分を見て、リゼという名を呼んだ。自分と同じ顔と声を持つ少女を知っている。本人は何も知らないと言い続けているが、今のラズには、他に頼れる者も行く場所もない。

 何より、理由も分からないまま、一人にされることが怖かった。


 ラズは焚き火へ近づき、まだ先端に炎の残っている枝を一本取った。頼りない灯りを掲げて立ち上がる。

 湿った地面には、足跡が残っていた。ラズのものより遥かに大きいその足跡は、森の奥へ向かって続いている。


 追わない方が良いのかもしれない。シオンは追ってくるなと言うだろう。彼が、ラズへ見せたくない何かを隠すために離れた可能性もある。

 それでも、一人で待っていることはできなかった。

 ラズは炎の揺れる枝を握り、足跡を辿り始めた。


◇


 一人で歩く夜の森は、昼間とはまるで違う場所に思えた。


 湿った土と苔の匂い。風に擦れ合う葉の音。遠くから聞こえる、獣とも魔物とも判別できない鳴き声。

 掲げた炎の外側では、何かが動いているように見える。振り返るたび、木の影が揺れているだけだと分かるが、それでも胸の鼓動は速くなった。


 ラズは何度も足を止めそうになった。

 自分がどこから来たのかも分からない。どこへ行けばよいのかも分からない。そんな彼女にとって、果ての見えない夜の森は、自分の記憶と同じように思えた。どれほど進んでも、何が待っているのか分からない。


 やがて、前方から異様な音が聞こえた。

 ——何かを引き裂く、湿った音。


 ラズの足が止まる。


 続いて、硬いものが折れる音がした。

 ゴキリ、バキリと、獣が骨を噛み砕いているような音だった。


 枝を持つ指へ、無意識に力が入る。

 炎が大きく揺れた。


 ラズは息を殺し、さらに数歩進む。


 木々の間が開けた。

 その中心に、シオンがいた。巨大な魔物の傍らへ、片膝をついている。


 狼に似た体躯を持つ魔物だった。額から歪な角が伸び、裂けた口には不揃いの牙が並んでいる。黒ずんだ爪は人の腕ほども長い。腹部は大きく裂かれていた。赤黒い血が、湿った土へ染み込んでいる。

 胸の近くには、さらに深い穴が開いていた。魔物の核のような部位を取り出した後らしく、その傍らには血に濡れた石のようなものが置かれている。


 シオンは、その魔物の肉を手で裂いていた。

 刃物は使っていない。黒い革手袋を傷口へ差し込み、皮膚を剥がす。筋を引き千切り、硬い骨ごと肉を割る。

 手袋は血に濡れていた。口元にも、同じ色の血がついている。


 ラズは声を失った。


 シオンが、掴んだ肉を口へ運ぶ。噛む。飲み込む。


 それが食事なのだと理解するまで、少し時間がかかった。

 人間の食事を口にできないことは知っていた。雨宿りをした狩人小屋で、シオン自身が話したからだ。人間が食べるものは身体が受けつけない、と。

 だが、何を食べて生きているのかまでは聞けなかった。尋ねた時、左右で色の違う瞳が、これ以上聞くなと警告していたから。

 その答えが、今、目の前にある。


 血の滴る、生の魔物の肉。

 戦うシオンの姿なら、何度も見ていた。

 魔物の頭を拳で砕き、崩れた巨大な岩盤を受け止め、人間には有り得ない力を使う姿。それも恐ろしかった。


 だが、今の光景は、それとは違う生々しさを持っていた。

 殺した命を引き裂き、自分の身体の中へ入れている。魔物を倒すためではない。生きるために、シオンは喰っていた。


 ラズは息をすることさえ忘れた。


 手にした火が揺れる。

 その僅かな明かりへ気づいたのか、シオンが振り返った。


 左右で色の異なる瞳が、森の闇の中でラズを捉える。

 驚いた様子はなかった。ただ、見つかったことを不快に思うように、その目が鋭く細められた。


「見るな」


 低く、鋭い声だった。

 ラズは動けなかった。


「戻れ」


「それを……食べてるの?」


 自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。

 シオンは手の甲で口元の血を拭う。だが、拭った手にも血が付いているせいか、口元にはまだ血が残っている。


「見れば分かる」


「どうして……」


「これしか受けつけない」


 短く、淡々とした答えだった。


「人間の食事は食べられないって、聞いたけど……」


「ああ」


「じゃあ、ずっと魔物を?」


「そうだ」


 シオンは目を逸らさない。

 言い訳をする様子も、隠そうとする様子もない。

 ただ、知られてしまった事実を突きつけるように答えている。


 ラズは魔物の死骸を見た。

 核を抜き取られ、腹を裂かれた巨体。

 その傍らへ膝をつき、肉を喰らっていたシオン。


 怖い。そう思った。どうしようもなく。


 人間の姿をしている。人間の言葉を話す。母親の料理の匂いを覚えている。リゼの料理が下手だったことも覚えている。

 だが、今のシオンは魔物の死骸へ手を差し入れ、その肉を喰って生きている。


 ラズの顔に浮かんだ恐怖へ、シオンも気づいたのだろう。

 彼の瞳から、僅かに温度が消えた。


「分かっただろう」


 突き放すように告げる。


「俺は人間じゃない」


 ラズは、すぐには否定できなかった。否定したかったが、言葉が出てこない。


 人間の食事を摂れない。眠ることもできない。魔物の牙も爪も、容易にはその身体を傷つけない。そして、魔物の肉を喰って動いている。それを人間と呼べるのか、ラズには分からなかった。

 怖いと思ったことだけは、紛れもない事実だった。


 その沈黙を、シオンは肯定だと受け取ったらしい。手にしていた肉を、死骸の上へ放り捨てる。


「戻れ」


「でも」


「戻れと言った」


「シオン」


「それとも——」


 シオンの声が、さらに冷たくなる。


「俺が何を喰っているのか、もっと詳しく知りたいのか」


 まだ、何かあるというのか。魔物の肉を食べる以上の何かが。

 ラズは言葉に詰まらせた。


 シオンは立ち上がらない。魔物の死骸の傍らから、ラズを見上げている。


「この身体は、普通の食事を受けつけない」


 血に濡れた指が、魔物の肉へ触れる。


「魔物の肉なら、まだ馴染む。身体を動かすための足しにはなる」


「足し……?」


「ああ」


 シオンは魔物へ視線を落とした。


「これだけで、すべてが満たされるわけではない」


 左胸の奥で、何かが脈打つ。


『教えてやれ。何を喰えば、より強くなれるのかを』


 声がした。

 シオンの眉間へ皺が寄る。


「黙れ」


 ラズの肩が小さく動いた。


「……ケイオス?」


「ああ」


 シオンは左胸へ手を当てた。

 黒い服と外套の下。心臓へ埋め込まれているという、赤黒い石。そこに、ケイオスと呼ばれる存在がいる。


「こいつは、魔物では足りないと言い続けている」


「足りないって……」


「もっと力になるものを喰え、と」


 シオンの声は平坦だった。

 だが、ラズには、わざと感情を殺しているように聞こえた。


「もっと力になるもの……って?」


 尋ねた声が震える。


 シオンは一度、ラズを見た。

 答えを聞けば、今度こそ逃げる。そう確かめるような目だった。


「——人間だ」


 ラズの呼吸が止まった。

 脳が理解を拒む。言葉の意味を理解できないのではない。理解したくなかった。


「……人間?」


「ああ」


「人の肉を……?」


「人間を喰えば、魔物より大きな力になるらしい」


「らしいって、誰から聞いたの?」


「こいつだ」


 シオンの指が、左胸の服を掴む。


『その通りだ』


 ケイオスが笑う。


『人の血を、肉を、その中に刻まれた恐怖も憎悪も、すべて俺へ寄越せ』


「黙れ」


「今も、何か言ってるの?」


「人間を喰え、と」


 ラズの指が、火のついた枝を強く握る。


「何度も?」


「ああ」


「シオンは……」


 言葉が喉へ引っかかった。

 聞くのが怖い。だが、聞かずに戻ることもできなかった。


「人を食べたことがあるの?」


「——ない」


 即答だった。


 ラズは僅かに息を吐く。だが、安堵は長く続かなかった。

 シオンの答えには、続きがあるように思えた。


「まだ一度も?」


「ああ」


「これからも?」


 その問いにだけ、シオンはすぐに答えず、しばらくの間沈黙が流れた。

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