怪物の晩餐
森で野営をしていた夜。
ラズは、ふと目を覚ました。
焚き火は、ほとんど消えかけていた。赤く残った熾火が、時折ぱちりと音を立てる。その微かな光が届かない場所は、深い闇に沈んでいる。
木々の間を、冷たい風が吹き抜けた。
ラズは身体を起こし、眠気の残る目で辺りを見回す。
「……シオン?」
いつもなら、少し離れた場所にシオンがいる。
眠ることなく座り、森の暗がりを見つめている。声をかけても返事をしないことは多いが、そこにいることだけは分かった。
だが、今夜は姿がない。
「シオン?」
もう一度名前を呼ぶが、返事はなかった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
——置いていかれた。
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
シオンと出会ってから、まだそれほど長い時間は経っていない。
彼は何度も、ついてくるなと言った。関わるな。離れろ。自分の傍にいれば死ぬ、と。
それでもラズが勝手についていっただけで、シオンが本当に同行を認めたわけではない。目を覚ました時には一人だったとしても、何ら不思議ではなかった。
ラズにとって、シオンは数少ない手掛かりだった。
自分を見て、リゼという名を呼んだ。自分と同じ顔と声を持つ少女を知っている。本人は何も知らないと言い続けているが、今のラズには、他に頼れる者も行く場所もない。
何より、理由も分からないまま、一人にされることが怖かった。
ラズは焚き火へ近づき、まだ先端に炎の残っている枝を一本取った。頼りない灯りを掲げて立ち上がる。
湿った地面には、足跡が残っていた。ラズのものより遥かに大きいその足跡は、森の奥へ向かって続いている。
追わない方が良いのかもしれない。シオンは追ってくるなと言うだろう。彼が、ラズへ見せたくない何かを隠すために離れた可能性もある。
それでも、一人で待っていることはできなかった。
ラズは炎の揺れる枝を握り、足跡を辿り始めた。
◇
一人で歩く夜の森は、昼間とはまるで違う場所に思えた。
湿った土と苔の匂い。風に擦れ合う葉の音。遠くから聞こえる、獣とも魔物とも判別できない鳴き声。
掲げた炎の外側では、何かが動いているように見える。振り返るたび、木の影が揺れているだけだと分かるが、それでも胸の鼓動は速くなった。
ラズは何度も足を止めそうになった。
自分がどこから来たのかも分からない。どこへ行けばよいのかも分からない。そんな彼女にとって、果ての見えない夜の森は、自分の記憶と同じように思えた。どれほど進んでも、何が待っているのか分からない。
やがて、前方から異様な音が聞こえた。
——何かを引き裂く、湿った音。
ラズの足が止まる。
続いて、硬いものが折れる音がした。
ゴキリ、バキリと、獣が骨を噛み砕いているような音だった。
枝を持つ指へ、無意識に力が入る。
炎が大きく揺れた。
ラズは息を殺し、さらに数歩進む。
木々の間が開けた。
その中心に、シオンがいた。巨大な魔物の傍らへ、片膝をついている。
狼に似た体躯を持つ魔物だった。額から歪な角が伸び、裂けた口には不揃いの牙が並んでいる。黒ずんだ爪は人の腕ほども長い。腹部は大きく裂かれていた。赤黒い血が、湿った土へ染み込んでいる。
胸の近くには、さらに深い穴が開いていた。魔物の核のような部位を取り出した後らしく、その傍らには血に濡れた石のようなものが置かれている。
シオンは、その魔物の肉を手で裂いていた。
刃物は使っていない。黒い革手袋を傷口へ差し込み、皮膚を剥がす。筋を引き千切り、硬い骨ごと肉を割る。
手袋は血に濡れていた。口元にも、同じ色の血がついている。
ラズは声を失った。
シオンが、掴んだ肉を口へ運ぶ。噛む。飲み込む。
それが食事なのだと理解するまで、少し時間がかかった。
人間の食事を口にできないことは知っていた。雨宿りをした狩人小屋で、シオン自身が話したからだ。人間が食べるものは身体が受けつけない、と。
だが、何を食べて生きているのかまでは聞けなかった。尋ねた時、左右で色の違う瞳が、これ以上聞くなと警告していたから。
その答えが、今、目の前にある。
血の滴る、生の魔物の肉。
戦うシオンの姿なら、何度も見ていた。
魔物の頭を拳で砕き、崩れた巨大な岩盤を受け止め、人間には有り得ない力を使う姿。それも恐ろしかった。
だが、今の光景は、それとは違う生々しさを持っていた。
殺した命を引き裂き、自分の身体の中へ入れている。魔物を倒すためではない。生きるために、シオンは喰っていた。
ラズは息をすることさえ忘れた。
手にした火が揺れる。
その僅かな明かりへ気づいたのか、シオンが振り返った。
左右で色の異なる瞳が、森の闇の中でラズを捉える。
驚いた様子はなかった。ただ、見つかったことを不快に思うように、その目が鋭く細められた。
「見るな」
低く、鋭い声だった。
ラズは動けなかった。
「戻れ」
「それを……食べてるの?」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
シオンは手の甲で口元の血を拭う。だが、拭った手にも血が付いているせいか、口元にはまだ血が残っている。
「見れば分かる」
「どうして……」
「これしか受けつけない」
短く、淡々とした答えだった。
「人間の食事は食べられないって、聞いたけど……」
「ああ」
「じゃあ、ずっと魔物を?」
「そうだ」
シオンは目を逸らさない。
言い訳をする様子も、隠そうとする様子もない。
ただ、知られてしまった事実を突きつけるように答えている。
ラズは魔物の死骸を見た。
核を抜き取られ、腹を裂かれた巨体。
その傍らへ膝をつき、肉を喰らっていたシオン。
怖い。そう思った。どうしようもなく。
人間の姿をしている。人間の言葉を話す。母親の料理の匂いを覚えている。リゼの料理が下手だったことも覚えている。
だが、今のシオンは魔物の死骸へ手を差し入れ、その肉を喰って生きている。
ラズの顔に浮かんだ恐怖へ、シオンも気づいたのだろう。
彼の瞳から、僅かに温度が消えた。
「分かっただろう」
突き放すように告げる。
「俺は人間じゃない」
ラズは、すぐには否定できなかった。否定したかったが、言葉が出てこない。
人間の食事を摂れない。眠ることもできない。魔物の牙も爪も、容易にはその身体を傷つけない。そして、魔物の肉を喰って動いている。それを人間と呼べるのか、ラズには分からなかった。
怖いと思ったことだけは、紛れもない事実だった。
その沈黙を、シオンは肯定だと受け取ったらしい。手にしていた肉を、死骸の上へ放り捨てる。
「戻れ」
「でも」
「戻れと言った」
「シオン」
「それとも——」
シオンの声が、さらに冷たくなる。
「俺が何を喰っているのか、もっと詳しく知りたいのか」
まだ、何かあるというのか。魔物の肉を食べる以上の何かが。
ラズは言葉に詰まらせた。
シオンは立ち上がらない。魔物の死骸の傍らから、ラズを見上げている。
「この身体は、普通の食事を受けつけない」
血に濡れた指が、魔物の肉へ触れる。
「魔物の肉なら、まだ馴染む。身体を動かすための足しにはなる」
「足し……?」
「ああ」
シオンは魔物へ視線を落とした。
「これだけで、すべてが満たされるわけではない」
左胸の奥で、何かが脈打つ。
『教えてやれ。何を喰えば、より強くなれるのかを』
声がした。
シオンの眉間へ皺が寄る。
「黙れ」
ラズの肩が小さく動いた。
「……ケイオス?」
「ああ」
シオンは左胸へ手を当てた。
黒い服と外套の下。心臓へ埋め込まれているという、赤黒い石。そこに、ケイオスと呼ばれる存在がいる。
「こいつは、魔物では足りないと言い続けている」
「足りないって……」
「もっと力になるものを喰え、と」
シオンの声は平坦だった。
だが、ラズには、わざと感情を殺しているように聞こえた。
「もっと力になるもの……って?」
尋ねた声が震える。
シオンは一度、ラズを見た。
答えを聞けば、今度こそ逃げる。そう確かめるような目だった。
「——人間だ」
ラズの呼吸が止まった。
脳が理解を拒む。言葉の意味を理解できないのではない。理解したくなかった。
「……人間?」
「ああ」
「人の肉を……?」
「人間を喰えば、魔物より大きな力になるらしい」
「らしいって、誰から聞いたの?」
「こいつだ」
シオンの指が、左胸の服を掴む。
『その通りだ』
ケイオスが笑う。
『人の血を、肉を、その中に刻まれた恐怖も憎悪も、すべて俺へ寄越せ』
「黙れ」
「今も、何か言ってるの?」
「人間を喰え、と」
ラズの指が、火のついた枝を強く握る。
「何度も?」
「ああ」
「シオンは……」
言葉が喉へ引っかかった。
聞くのが怖い。だが、聞かずに戻ることもできなかった。
「人を食べたことがあるの?」
「——ない」
即答だった。
ラズは僅かに息を吐く。だが、安堵は長く続かなかった。
シオンの答えには、続きがあるように思えた。
「まだ一度も?」
「ああ」
「これからも?」
その問いにだけ、シオンはすぐに答えず、しばらくの間沈黙が流れた。




