後日談─止まった村
オラケルへ続く古い道は、地図に残された形をほとんど失っていた。
石畳は苔と土に覆われ、道の両側から伸びた木々の枝が頭上で重なっている。
かつては荷車や村人が行き交っていたはずだが、今では人間の足跡より魔物のものの方が多く、長く使われていないことが一目で分かった。
途中で何度か魔物に襲われたものの、シオンはほとんど足を止めなかった。飛びかかってきた異形を一撃で地面へ叩き伏せ、もう一体の頭部を拳で砕く。
デウスと戦ったときほど異様な巨体ではなくなっているとはいえ、人の肉を喰らう以前より明らかに大きくなった身体から放たれる一撃は凄まじく、戦いと呼べるほどの時間すらかからなかった。
それでも力を使うたび、皮膚の奥では薄い赤黒い光が滲んだ。
『近づいているな』
胸の奥からケイオスの声が響く。
『貴様が生まれ、貴様自身が壊した場所へ』
シオンは無視して歩き続けた。
『楽しみではないか』
「黙れ」
先を歩いていたラズが振り返る。
「何か言った?」
「お前にじゃない」
それだけで察したらしく、ラズは何も聞かなかった。
二日目の午後、深かった森が不意に途切れた。
シオンの足も、同時に止まった。
木々の向こうに、村があった。
正確には、かつて村だった場所が残っていた。
入口に立っていた木製の標識は朽ちて地面へ倒れ、かつて刻まれていたはずのオラケルという文字も、雨と泥に削られてほとんど読めなくなっている。
その奥には石造りの土台だけを残した家々が並び、黒ずんだ梁や折れた柵が、伸び放題になった草の間から覗いていた。
蔦に覆われた井戸がある。割れた水瓶がある。赤錆の浮いた農具がある。片方だけになった小さな靴が、崩れた壁際に半ば埋もれていた。
人間が暮らしていた痕跡だけが至るところにあり、その生活を営んでいた者は誰一人残っていない。
ラズは言葉を失った。
ロイエが語った記録でも村については知った。シオンの精神世界では惨劇の断片を実際に見ている。
けれど、目の前にある現実はどちらとも違った。
炎はない。血の匂いも、悲鳴もない。
ただ四年以上の時間が流れ、風と雨と植物が少しずつ、人間の暮らした場所を呑み込みつつある。
隣を見ると、シオンは村の入口で動かなくなっていた。
「シオン」
呼んでも返事はない。
彼の目には、今の廃墟とは別の景色が重なっていた。
朝、父が家の前で薪を割っている。母が洗った布を干している。近所の老人が腰を曲げて畑へ向かい、子供たちが道を走り抜けていく。
誰かに寝坊したのかと笑われたこともあった。薬草の籠を抱えたリゼが、呆れたような顔をしてこちらを見ていたことも覚えている。
それらはすぐに、別の記憶へ塗り替わった。
静まり返った家。倒れた父。母がいた場所。血に濡れた自分の手。リゼが一瞬で失われた夜。
シオンの呼吸が浅くなる。
『懐かしいな』
ケイオスが囁いた。
『ここで貴様は——』
「黙れ」
今度は先ほどより強い声だった。
ラズが反射的に腕へ手を伸ばしかける。
「触るな」
掠れた声に制され、彼女はすぐに手を下ろした。
「……うん」
シオンはしばらく村を見ていたが、やがて一人で足を踏み入れた。
ラズは少し後ろからついていった。
今だけは隣へ並ぶより、それくらいの距離がいいように思えた。
シオンは村の地理を覚えていた。
「あそこは鍛冶屋だった」
突然聞こえた声に、ラズが顔を上げる。
シオンは崩れた石壁の向こうを見ている。
「その先に畑があった。あの家には……よく菓子をくれる婆さんが住んでた」
懐かしむような声ではなかった。寧ろ、自分自身へ確認するような話し方だった。
名前が出てこない。顔も、はっきりとは思い出せなかった。
それに気づいた瞬間、シオンの口が閉じる。
自分が殺した人間なのに、名前さえ忘れている。四年という時間の中で、その顔の輪郭まで薄れている者がいる。
忘れることまで罪であるような感覚に襲われ、拳が自然に握られた。
「シオン」
ラズが後ろから呼ぶ。
「……何だ」
「覚えてないこともある?」
図星だった。
シオンはすぐには答えなかった。
「……ああ」
やがて、苦しそうに顔を歪ませながらそれだけを認める。
ラズは「仕方ない」とは言わなかった。ただ、その少し後ろを歩き続けた。
村の中央へ進むと、蔦に覆われた井戸が見えてきた。石組みの一部は崩れ、底には長年積もった枯れ葉が溜まっている。
シオンが立ち止まった。
「ここに落ちたことがある」
「この井戸に?」
「ああ。子供の頃に」
ラズは少し目を丸くした。
「どうなったの?」
「父さんに引き上げられた」
シオンは井戸の暗い底を見ながら答える。
「散々怒鳴られた」
「怒るだろうね」
「母さんには泣かれた」
「それも分かる」
「リゼには笑われた」
そこまで言ったところで、シオンの口元がほんの僅かに動いた。
笑ったわけではない。ただ、そのときのリゼの顔を思い出し、自分もかつて同じように笑っていたのだという感覚が、一瞬だけ戻ってきたようだった。
しかし、表情はすぐに硬くなった。
「……俺は、この場所で全部壊した」
ラズは何も言わなかった。
操られていたのだから仕方がなかった。そんな言葉で今のシオンを慰めても、彼には届かないと知っている。彼は責任を手放せない人だ。
だから、ただ聞いた。
シオンは井戸から離れ、村の奥へ進んだ。
やがて、一軒の家の前で足が止まった。
壁の半分ほどしか残っていない。屋根は完全に崩れ、暖炉の石組みと炭化した机の一部だけが、そこに家があったことを伝えている。
シオンの家だった。
入口だった場所へ立った途端、足が動かなくなった。
父の声を思い出す。
——力があるなら、誰かを守るために使え。
母の声も蘇る。
——おかえり、シオン。
以前のように「死ね」と責める幻ではない。それらは、実際に生きていた頃に聞いた記憶だった。
その違いが、却って胸へ深く刺さった。
シオンは家の跡へ足を踏み入れた。瓦礫を避けながら進み、崩れた床の隅で何かを見つける。
泥を被った小さな木片だった。拾い上げて指で汚れを払うと、不格好な鳥の形が現れた。左右の羽根の大きさは揃わず、片方の目だけ妙に大きい。
幼い頃、父に刃物の扱いを教わりながら作ったものだった。
「それ、何?」
ラズが尋ねる。
「……昔のものだ」
シオンは木彫りを見つめた。
捨ててもよかった。寧ろ、ここに残すべきだと思った。
それでも指は開かず、しばらくしてから木彫りを衣服の内側へしまった。
ラズは何も言わなかった。
次に二人が向かったのは、村外れにある小さな家だった。
荒れた庭には雑草が伸び、薬草を育てていたらしい区画の跡だけが辛うじて残っている。室内へ入れば、床には割れた薬瓶が散らばり、朽ちた棚から乾ききった草の束が垂れ下がっていた。
誰の家なのか、ラズは尋ねなかった。
シオンが棚の前で立ち尽くす顔を見れば分かった。
リゼが暮らしていた家だった。
しばらく室内を見ていたシオンが、崩れた棚の下へ手を伸ばした。
引き出したのは、小さな布袋だった。中には乾いた種が入っている。
「花?」
ラズが近づく。
布の表面には、薄くなりながらも文字が残っていた。
「ツェルトリヒ……」
「ああ」
シオンは種から目を離さない。
「リゼが好きだった」
小さな白い花。寒さに強く、荒れた場所でも根を張る。
かつて教えられた言葉まで、ほとんどそのまま思い出せた。
「持っていこう」
ラズが言った。
「何のために」
「まだ育つかもしれないから」
「四年も放置されてた種だぞ」
「それでも、いくつかは無事そうだよ」
「枯れるかもしれない」
そう口にしたとき、シオンの声音が弱くなった。
「枯れたらまた失うだけだ」
ラズは一瞬黙り、それから布袋を見る。
「うん。枯れるかもしれないね。でも、植えなかったら絶対に咲かないよ」
シオンは返事をせず、布袋を握った。
捨てることも、元の場所へ戻すこともしなかった。そのまま懐へしまい、家を出る。
さらに村の奥へ進んだところで家並みが途切れ、その先に小さな丘が見えた。
シオンの足が止まった。
丘の上には、大きな岩が一つ立っていた。
自然に転がってきたものではない。人の手によって運ばれ、表面へ無数の文字を刻まれた岩だった。
ラズは、その意味を悟って息を呑んだ。
二人は黙ったまま、丘へ向かって歩き始めた。




