後日談─帰れない故郷
神を殺してからしばらく経っても、星は傷ついたまま生き続けていた。
空には昼夜を問わず赤黒い亀裂が残り、大地の裂け目からは時折ケイオスの力の残滓が滲み出している。そうした土地では星脈の流れが乱れ、魔物が異様な姿へ変質することもあった。
デウスが維持していた結界を失った影響も消えず、空の向こうから何かが干渉してくることも以前より増えている。
シオンとラズは、その傷跡を辿るように星を旅していた。
人々を救う英雄になるためではない。少なくとも、二人にそんなつもりはなかった。
荒れた土地で暴れる魔物を倒すこともあれば、壊れた神殿の地下から置き去りにされた実験体を見つけることもある。異星から入り込んだものらしき異形と戦ったこともあったが、シオンは自分が星を守っているのだとは考えなかった。
放置してケイオスの残滓が広がれば面倒になる。異星の神々に星そのものを壊されれば、そこにいるラズも巻き込まれる。その程度の理由で拳を振るっていた。
それでも、助けられた側から見れば事情は違う。
ある村では感謝された。別の土地では銀白の長い髪と左右で異なる瞳から正体を悟られ、誰も近づかなくなった。石を投げられたこともあれば、反対に地面へ膝をつき、デウスに代わって自分たちを守ってくれと懇願されたこともある。
罵声を浴びせられてもシオンはほとんど反応しなかったが、拝まれたときだけは違った。
「俺を拝むな」
跪いた人間を見下ろしながら、シオンは低い声ではっきりと言った。
「俺は神じゃない」
その言葉には怒りというより、もっと根深い嫌悪があった。
デウスの代わりなどになるつもりはない。自分の力を理由に誰かの上へ立つつもりもなければ、人々の祈りを背負うつもりもなかった。
少し離れたところからその様子を見ていたラズは、何も言わなかった。
神でも、英雄でもない。かといって、神に人生を壊された哀れな犠牲者という言葉だけで説明できる人間でもない。被害を受けたことも、自分で罪を選んだことも、胸の奥にケイオスを抱えていることも、そのすべてを含めてシオンなのだということを、ラズは今ではよく知っていた。
◇
そんな旅の途中、二人は小さな宿場町の外れにある廃屋で夜を明かすことになった。
屋根は半分ほど崩れていたものの、残った壁が風を遮ってくれるだけでも十分だった。ラズは床へ古い地図を広げ、神殿の記録庫や放棄された施設から集めた情報と照らし合わせながら、次に向かう場所を探していた。
星の崩壊によって地形は大きく変わっている。以前は存在した橋がなくなり、川の流れが変わり、地図にはない谷まで生まれていた。そのため古い街道をそのまま辿ることはできず、ラズは何本かの線を書き足しては消していた。
やがて、その指が止まった。
「……シオン」
壁へ背を預けていたシオンが、閉じていた目を開く。
「何だ」
「この先に村がある」
「村ならいくらでもあるだろう」
「そうじゃなくて」
ラズは地図から顔を上げた。一瞬だけ迷ったあと、小さく息を吸う。
「オラケル」
その名前を口にした途端、廃屋の中から音が消えたように感じられた。
もちろん、実際には外で風が吹いている。崩れた窓枠は時折軋み、遠くでは魔物の鳴き声も聞こえていた。それでも二人の間だけが、別の場所から切り離されたように静かになった。
シオンの視線が、ゆっくりと地図へ落ちる。
左の虹彩は赤く、右は以前の紫へ戻りきらないまま、赤みを含んだ紫になっている。そのどちらにも、いつもより硬い色が浮かんでいた。
「……その名前を、どこで見つけた」
「神殿に残ってた古い地図。今の街道からはかなり外れてるけど、ここからなら二日くらいだと思う」
シオンはしばらく地図を見ていたが、やがて視線を逸らした。
「行かない」
「シオン」
「行く理由がない」
即答だった。
シオンは立ち上がり、そこで話を終わらせるように外へ向かおうとした。
「ずっと避けてたでしょう」
背中へ投げられた言葉に、足が止まる。
「避けていない」
「じゃあ、どうして行かないの?」
シオンは振り返らなかった。
「行って何をする」
何かを押し殺しているような低い声だけが返る。
「墓参りでもしろと言うのか」
ラズはすぐには答えられなかった。
「俺にそんなことができると思うのか。あそこで何を言えばいい。悪かったと謝って、赦してくれとでも言うのか」
「そんなことを言ってほしいんじゃないよ」
「なら何をしに行く」
答えを求められ、ラズは黙った。
謝罪をさせたいわけではない。ましてや、死者から赦しをもらわせたいわけでもなかった。そのようなことを自分が望む資格はないと、ラズ自身が分かっている。
それでも、行く意味がないとは思えなかった。
「……見るため」
シオンの横顔が僅かに動いた。
「あなたが壊した場所を、自分の目で見るため」
「見たところで何も変わらない」
「うん」
「死んだ人間も戻らない」
「分かってる」
「なら——」
「でも、シオンの中にあるオラケルは、ずっとあの夜のままでしょう?」
シオンが黙った。
ラズは地図を畳みながら続ける。
「わたしが精神世界で見たのもほとんどそうだった。血があって、壊れた家があって、死んだ人がいて、その中に十四歳のシオンがいる」
それはシオン自身にも否定できなかった。
故郷を思い出せば、最後には必ずあの夜へ辿り着く。父も母もリゼも、生きていた頃の姿より、殺した瞬間の方が鮮明に蘇ることさえあった。
「でも、本当はそれだけの場所じゃなかったんでしょう? そこで十四年、生きてたんだから」
シオンの表情が強張る。
「勝手なことを言うな」
「うん。勝手に言ってる。それでも、わたしは行く」
「一人で行け」
「あなたが来ないなら、そのつもり」
シオンが初めて振り返った。
「何をしに行く」
「見に行くんだよ」
「何をだ」
「リゼさんが生きてた場所を」
その名に、シオンの瞳が僅かに揺れた。
「わたしはリゼさんじゃない。それはもう分かってるし、代わりになるつもりもない」
ラズは自分の胸元へ手を添えた。
「でも、わたしの中には、まだリゼさんから来たものが少し残ってる。それだけが理由じゃないけど……シオンが何を失ったのか、わたし自身が見てみたい」
シオンは長い間、何も言わなかった。やがて目を逸らし、苛立ちを押し込めるように吐き捨てる。
「……好きにしろ」
「わたし一人で?」
返事はなかった。
ラズは少し困ったように笑ったものの、それ以上は聞かなかった。
翌朝、二人は揃って廃屋を出た。
シオンは最後まで、オラケルへ行くとは言わなかった。ただ、ラズが古い街道へ向かって歩き始めると、その隣を黙ってついてきた。




