葬列を往く
翌朝、夜の名残を残した空が白み始める頃、ラズはこれからのことを口にした。
「まず、デウスの実験で犠牲になった人たちを探したい」
昨夜まで膝の上に置いていた記録媒体を鞄へしまいながら、ラズは消えた焚き火の向こうに座るシオンを見た。
記録網から流れ出した情報によって、神殿が各地に複数の実験施設を持っていたことは分かっている。既に放棄された場所も多いだろうが、すべてが確認されたわけではなく、記録の上では処分されたことになっていても、本当に死亡したのか分からない者もいた。
「まだどこかに取り残されている人がいるかもしれないし、名前しか残っていない人についても調べたい。全部は無理だと思うけど、できるところからやる」
シオンは焚き火の残りを見つめたまま、何も言わなかった。
「それから、異星の神々についても調べる。デウスがいなくなって、空を覆っていた結界もなくなった。神殿の記録を見る限り、今までより危険になると思う」
「俺に星を守れと言うのか」
返ってきた声は低く、わずかな苛立ちを含んでいた。
ラズはすぐに首を振った。
「言わないよ」
シオンが視線を上げる。
「デウスがあなたを作り変えた理由と同じことを、今度はわたしが言いたいわけじゃない。星を守るために戦えとか、あなたにはその力があるんだから使えとか、そんなことを言うつもりはないよ」
「なら、なぜ調べる」
「わたしが死にたくないから」
あまりにもあっさりと返され、シオンが黙った。
ラズは少しだけ笑う。
「異星の神々が本当に攻めてきたら、わたしも巻き込まれるでしょう。それに、この先何をするのかはまだ分からなくても、何が起きているのかくらいは知っておきたい」
そこで言葉を切り、ラズは少しだけ真面目な表情になった。
「それに、シオンは世界全部を守りたいとは思えなくても、わたしが死ぬのは嫌なんでしょう?」
シオンの眉間に皺が寄った。
「……それを利用する気か」
「ちょっとだけ」
「性格が悪くなったな」
「誰のせいだろうね」
ラズが悪戯っぽく微笑みながら返すと、シオンは露骨に顔をしかめたが、否定はしなかった。
「それと、もう一つある」
ラズは声を落とした。
「今まで起きたことを、ちゃんと見に行こうと思う」
シオンの表情が僅かに硬くなった。
「アルミナも、残っている実験施設も、犠牲になった人たちの名前も。神殿が隠していたものを、わたしは知りたい」
「俺に付き合わせる気か」
「嫌なら一人で行くよ」
そう答えてから、ラズは少し迷い、続けた。
「でも、シオンにも見てほしいとは思ってる」
シオンは目を伏せた。
「俺が見たところで、何も戻らない」
「うん。戻らないよ。亡くなった人が帰ってくるわけでもないし、見たから償えるわけでもない。でも、何も見ないまま自分だけ死んで終わろうとするのは、やっぱり違うと思う」
シオンの指が、膝の上で僅かに動いた。
その言葉は痛かったはずだが、ラズはもう引っ込めなかった。彼を責めるためではなく、自分がそう思っているから言った。
「あと、ケイオスのことも調べたい」
今度はシオンが顔を上げた。
「あなたの中から完全に消せるのか、それとも封じ直す方法があるのか、わたしには分からない。でも、一度身体を全部奪われたままでいいとは思えないから」
「そんな方法があると思うのか」
「分からない。でも、分からないなら探すしかないでしょう」
シオンはしばらくラズを見ていた。やがて、小さく息を吐く。
「……勝手だな」
「うん」
「全部、お前の都合だ」
「そうだよ」
ラズは微笑んでみせる。
「わたしの都合で、一緒に行く」
「俺は行くと言ってない」
「じゃあ、ここに残る?」
シオンは周囲を見た。
崩れた街道。傷ついた空。昨夜まで二人が囲んでいた焚き火。ここに留まる理由など、どこにもない。
「……好きにしろ」
「うん。好きにする」
結局、それが二人の旅立ちを決める言葉になった。
◇
荷物を纏めた後、二人はすぐに次の街へ向かうのではなく、一度だけ聖地の跡へ戻った。
神との戦場となったこの地は、もはや聖地と呼べる姿を留めていない。山頂はデウスとの戦いで抉り取られ、切り立っていた峰の大部分が崩れ落ち、朝日に照らされた岩肌には巨大な亀裂が幾筋も走っている。その奥では傷ついた星脈の光が薄く明滅し、空を見上げれば白い帯が失われた跡に赤黒い傷が残っていた。
数日前、この場所でシオンが振るった拳が刻んだものだった。
デウスを殺すために、自分自身も終わらせるために、必要な威力を遥かに越える力を叩き込んだ。その結果、神だけでなく星核まで砕ける寸前へ追い込み、大地も海も空も巻き込んだ。
シオンは崩れた山の縁に立ち、しばらく何も言わずその景色を見ていた。
復讐は終わった。
何年も追い続けたデウスは、もういない。自分を実験台にし、家族もリゼも故郷も奪い、復讐そのものさえ兵器を完成させるための過程として利用しようとした神を、自分の拳で殺した。
それでも、失ったものは一つも戻らなかった。
当然だった。復讐の前から分かっていたはずのことなのに、すべてが終わってみれば、その空白だけが以前よりはっきりと残っている。
シオンは自分の右手へ視線を落とした。
ケイオスの完全顕現が解けたあと、異形と呼ぶほど膨れ上がっていた身体はある程度まで縮んだものの、人を喰らう以前より明らかに大きな体格が残っている。掌も指も以前より厚く、拳を握れば前より遥かに大きい。
この手でデウスを殺した。この手でロイエを殺した。この手で、自ら命を奪った実験体の肉を口へ運んだ。そして、十四歳のあの日には、同じ手で父と母とリゼと村の人々を殺した。
理由も状況も同じではない。
自分の意思を奪われていたときと、自分自身の意思で選んだことまで同じではないと、ラズは言った。それでも、シオンの手に残る感覚まで消えるわけではなかった。
視界の端に、人影が見えた。
父と母がいる。
少し離れたところにはリゼが立ち、そのさらに後ろには村の人間たちや、これまで自分が殺してきた者たちの影が曖昧に続いている。
以前なら、彼らは口々にシオンを責めていた。
殺せ。苦しめ。復讐を果たせ。そして、お前も死ねと。
しかし、彼らは今は何も言わなかった。
シオン自身が、もう彼らへその言葉を言わせようとしていないからだった。
死者の本心が分かったわけではない。赦されたとも、恨まれていないとも思っていない。最後に何を感じたのかは永遠に分からず、シオン自身がそれを決めることもできない。
ただ、生前の彼らまで自分を裁くためだけの存在へ塗り替え、記憶の中で何度も同じ言葉を言わせ続けることだけは、もうやめようと思った。
それでも幻が消えないことに、シオンは奇妙な納得を覚えていた。
自分が殺したという事実まで消えたわけではないのだから、姿だけが残るのは当然なのかもしれない。
「……終わった」
シオンは小さく呟いた。
風が砕けた岩山を抜け、その言葉を遠くへ運んでいく。
『終わったと思うか』
今度は死者ではなく、頭蓋の奥から声がした。
ケイオスだった。
人を喰い、一度完全に肉体を奪われたことで、その声は以前より近くなっている。胸の奥から聞こえるというより、自分の思考へ直接重なるような感覚があり、意識して区別しなければ、自分自身の考えと混ざってしまいそうになることさえあった。
『神を一柱殺しただけだ。貴様の怒りも憎悪も、まだ腐るほど残っているではないか』
シオンは答えなかった。
『何より、疲れただろう』
止まった心臓の代わりに、左胸の赤黒い石が脈打つ。
『もう身体を渡せ。復讐は終わった。生きる目的もない。罪を抱えて歩く理由もない。貴様が眠れば、あとは俺が使ってやる』
シオンは目を閉じた。
一度は、実際にそうした。
デウスを殺したあと、何もかもを終えたつもりで意識を手放し、身体がケイオスに奪われることさえ受け入れた。
何も考えずに済む。死者についても、自分の罪についても、生き残った後の世界についても、全部から消えることができる。
今でも、その誘惑が完全になくなったわけではない。
しかし、同時に別の光景が蘇った。
自分の巨大な手に首を掴まれ、呼吸を奪われていたラズ。桃色の髪と、その中で揺れる青い星。苦痛に歪んだ顔。それでも、自分へ手を伸ばしていた姿。
シオンは目を開けた。
「断る」
『何故だ』
「この身体は渡さない」
『生きたいとでも言う気か?』
「違う。まだ、生きたいとは思えない」
自分を赦すつもりもない。星を守る使命を背負う気もない。世界のために生きるなどと、今の自分には到底言えなかった。
けれど、死にたいからといって、自分の身体をケイオスへ渡していいことにはならない。
「お前に渡せば、また同じことをする」
シオンは少し離れた場所に立つラズを見た。
彼女は、崩れた山の向こうに広がる傷ついた星を眺めている。首に残っていた痕はかなり薄くなったが、よく見ればまだ消えていなかった。
「……俺の身体で、あいつを殺させるつもりはない」
しばらく沈黙したあと、ケイオスが笑った。
『それも立派な執着だぞ』
「知るか」
『あれを失うことを恐れるほど、貴様は怒る。その怒りは俺の餌になる』
「それでもだ」
シオンは拳を握った。
「俺の怒りは、俺のものだ。誰を憎むかも、何を守るかも、お前には決めさせない。この身体も同じだ」
内側から返事はなかった。
それでも、ケイオスが消えたわけではないことをシオンは知っている。これからも怒り、憎むたびに力は増し、また身体を奪われる危険もあるのだろう。
だからこそ、もう自分から手放すことだけはしない。それが今のシオンに出せる、精一杯の答えだった。
「終わった?」
いつの間にか、ラズが隣まで戻ってきていた。
「何がだ」
「一人で考える時間」
「知らん」
「じゃあ、もうちょっと待つ?」
「要らない」
ラズは小さく笑った。
「どこへ行こうか?」
シオンは赤黒い亀裂の残る空を見上げた。
「……さあな」
素っ気ない返事だったが、ラズは急かさなかった。
風が吹き抜け、銀白の髪と桃色の髪を同じ方向へ揺らした。
やがて、シオンが口を開く。
「デウスは死んだ」
「うん」
「俺も死ぬはずだった」
ラズは黙って聞いていた。
「でも、死ねなかった」
その事実を口にしたシオンの顔には、喜びも安堵もない。
「生きたいと思ったから戻ったわけじゃない。今でも、あのまま終わった方が良かったと思うことはある」
ラズの表情が僅かに曇ったが、遮ることはしなかった。
「だが、ケイオスに身体を渡して終わるのは違う」
シオンは自分の左胸へ触れた。
「それをやれば、俺が死んだ後も俺の身体が人を殺す。お前も間違いなく殺されるだろう」
「うん」
「だから、渡さない」
そこまで言ってから、シオンは少し言葉を探した。
赤黒い亀裂が走る空を見る。
「だったら……生きている間は、俺がやったことを見るしかないんだろうな」
ラズが静かに彼を見る。
それは「罪を背負って生きる」という決意と呼ぶには、まだ弱かった。
何年でも生きようと決めたわけでもない。償えると信じたわけでもない。
ただ、死ぬことで全部を終わらせようとしていた人間が、初めて自分の死より少し先へ視線を向けた。ただそれだけだった。
「……たぶんね。でも、一人でやる必要はないよ」
「お前には関係ない」
「わたしの罪じゃないって話なら、昨日聞いたよ」
シオンが口を閉ざす。
「シオンの罪は背負えない。代わりに償うこともできない。でも、隣を歩くことはできるって言ったでしょう?」
ラズは一歩だけ前へ出て、シオンと肩を並べた。
「だから、わたしは一緒に行く」
シオンは横目で彼女を見る。
「……好きにしろ」
「うん。好きにする」
いつもの会話と共に、二人は歩き出した。
崩れた山を下り、壊れた街道へ向かう。これまでとは反対に、ラズが少しだけ先へ出て、シオンがその横へ並ぶ形になった。
しばらく歩いたところで、シオンの視線がラズの髪へ向いた。
桃色の髪に留められた青い星の髪飾りが、朝日を受けて淡く光っている。激しい戦闘に巻き込まれた硝子の表面には細かな傷が増えているが、それでも砕けずに桃色の髪の中で瞬いている。
「……まだ付けているのか」
ラズが目を瞬かせる。
一瞬、何を言われたのか分からなかったらしく、少ししてから髪飾りへ触れた。
「これ?」
「ああ」
「付けてるよ。シオンが付け直してくれたし」
「それは関係ないだろう」
「あるよ」
ラズは指先で青い星を軽く撫でた。
「わたしの大切なものだから」
シオンは少しだけ目を逸らした。
「……お前のものだ。好きにしろ」
ラズは笑った。
「うん。好きにする」
それからしばらく、二人の間に言葉はなかった。
以前なら、その沈黙には互いを測るような緊張があった。ラズはシオンを恐れながら隣を歩き、シオンもまた、いつ彼女を突き放すべきかを考えていた。
今もすべてが解決したわけではない。ラズの中からロイエを惨殺したシオンへの恐怖が消えたわけではなく、シオンも誰かと生きることに慣れたわけではない。
それでも、今の沈黙には以前ほどの息苦しさがなかった。
ただ同じ方向へ歩いている。それだけだった。
街道の先には崩れた家屋があり、その向こうには大地を裂く亀裂が続いていた。世界は傷ついたままで、空にも消えない赤黒い亀裂が残っている。
視界の端には、時折、死者の幻が現れた。
父や母。村の人間たち。そしてリゼ。何を考えているのかよく分からない表情で、静かに佇んでいる。
彼らはもう、以前のようにシオンへ死を命じることはなかった。
それは彼らがシオンを赦したからではない。死者の気持ちは、今も分からない。
ただシオン自身が、彼らの口を使って自分へ罰を言い渡すことをやめただけだった。
遠くに立つリゼの幻と目が合った。
彼女は何も言わない。責めることも、赦すことも、生きろと励ますこともない。
シオンはしばらくその姿を見た後、目を逸らさずに歩き続けた。
分からないなら、分からないままでいい。死者の本心を、自分の都合で決める必要はない。
自分が何をしたのかだけは、変わらないのだから。
復讐は終わった。それでも、罪まで終わったわけではない。
シオンは救われていない。自分を赦してもいないし、生きることを望めるようになったわけでもない。星を守る使命を受け入れたわけでもなければ、これから先に希望を見つけたわけでもなかった。
ただ、死ぬことで何もかもから消えることも、身体をケイオスへ明け渡して自分だけ終わることも、今は選ばなかった。
自分が殺した者たちのことを忘れず、自分が選んだ罪を他者へ押しつけず、星へ刻んだ傷からも目を逸らさずにいる。それをどこまで続けられるのか、シオン自身にもまだ分からない。
それでも足は前へ出た。そして、その隣にはラズがいた。
神に作られた目的ではなく、自分で選んだ名前を持ち、自分の意思でそこを歩いている少女だった。
シオンの背後には、死者の面影が続いている。
故郷で失われた者たち。神殿の実験で壊された者たち。自分自身の意思で殺した者たち。神殺しの一撃に巻き込まれた者たち。
そのすべてを一つの意味へまとめることなどできず、赦しを求めることも、勝手に赦されたと思うこともできない。
だから、連れて歩くしかなかった。
忘れないために。自分が何をしたのかを、死者の代わりに語らせるのではなく、自分自身が覚えているために。
終わった復讐の先へ、神を殺した青年は歩いていく。
死者と罪を背後に連ね、胸の奥には未だ飢え続けるものを抱えたまま、その横を自分の意思で少女が歩いている。
それは、終わりの見えない葬列だった。
神殺しは、葬列を往く。
赦されたからではない。救われたからでもない。
まだ生きたいと願えないまま、それでも今日だけは自分の足で歩くことを選んで、シオンはラズとともに傷ついた星の先へ進んでいった。
ここまでご覧いただきありがとうございました。これにて第一部が一旦終了となります。
明日から三日間にわたって、一日一話ずつ後日談を投稿予定です。実は、こちらが真のエピローグのような形になると思います(?)
よろしければ、後もう少しだけ二人の旅路にお付き合いください。




