それでも隣に
それから数日もしないうちに、二人の名前は想像以上の速さで広がっていった。
町を離れても、旅人の会話の中でシオンの名を耳にした。崩れた宿場の壁には、「神殺しを捕らえろ」と乱雑な文字で書かれた紙が貼られていることもあれば、その隣に「神殿の罪を隠すな」と別の誰かが書き足していることもあった。
小さな集落では、二人が入った途端に家の扉を閉められた。
別の村では、年老いた女がシオンへ頭を下げた。
「……神殿に連れていかれた息子の名前が、記録にありました」
シオンは何も言えなかった。
「ずっと、魔物に襲われて死んだって聞かされてたんです。でも……違ったんですね」
女は泣いていた。
「ありがとうとは言えません。あなたがしたことも、私は怖いです」
それでも彼女は、もう一度だけ頭を下げた。
「でも、何があったのか知れたことだけは……良かった」
シオンは長い沈黙のあと、苦しそうに顔を歪ませながら小さく答えた。
「……俺に礼を言うな」
女は顔を上げた。
「俺は、そのためにデウスを殺したんじゃない」
「ええ。そうでしょうね」
女は静かに頷いた。それだけだった。
シオンも、それ以上何も言わなかった。
また別の日には、石を投げられた。
「神殺し!」
まだ若い男だった。
投げられた石はシオンの肩に当たった瞬間爆ぜた。破片が地面の上へと落ちる。
「お前のせいで母さんが死んだ!」
ラズは反射的に前へ出ようとしたが、大きな手がラズの身体の前に差し出され、遮られた。
「いい」
「良くないよ」
「何がだ」
「石投げられてるんだけど」
「見れば分かる」
こんなときなのに、ラズは少し腹が立った。
「じゃあ止めてよ」
「何を言う」
「せめて全部黙って受けるのはやめて」
シオンは地面へ落ちた石の破片へと視線を落とす。
「こいつの言っていることは間違っていない」
「またそれ?」
ラズの語気が少し強くなる。
「星を壊したことは事実だよ。でも、それでシオンに何を言っても、何をしてもいいってことにはならないでしょう」
石を投げた若い男が、二人のやり取りを戸惑ったように見ている。
シオンはしばらく黙っていたが、結局何も返さず歩き出した。ラズも後を追う。
「納得してない顔してる」
「してない」
「やっぱり」
「お前が勝手に喋ってるだけだ」
「そうだけど」
ラズは一度振り返った。
男はもう石を投げなかった。
それだけで良かった。
◇
二人への視線は、日を追うごとに複雑になっていった。
シオンを英雄と呼ぶ者もいる。罪人と呼ぶ者もいる。怪物だと恐れる者もいれば、神に人生を奪われた哀れな少年だと同情する者もいた。
英雄視するものや哀れむものに関しては、シオン本人には居心地が悪そうだった。しかし、罪人や怪物といった蔑称は当然の事のように受け入れている様子だった。
ラズには、それが僅かに不快に感じられた。
一方で、ラズについての噂も広がっていた。
神殿の記録は、彼女がリゼの魂の残滓とデウスの神力を利用して作られた存在であり、シオンを制御する楔として設計されたことまで明らかにしている。
そのため、ラズを見る目も人によって違った。
ある者は彼女を人間として扱った。ある者は神具の一種だと思った。中には、デウスの力を宿しているのなら次の神になれるのではないかと、勝手な期待を向ける者さえいた。
「……冗談じゃない」
その話を聞いたラズは、珍しく露骨に嫌そうな顔をした。
「神になる気はないのか」
「シオンまで何言ってるの?」
「聞いただけだ」
「絶対嫌」
「そうか」
「そこはちょっとくらい笑うところじゃない?」
「面白くない」
「ほんとに愛想ないよね」
ラズは頬を膨らませた。
そんなふうに話せるときは、まだよかった。けれど、すべてを笑って流せるわけではない。
道端で二人のことを話している旅人の声が聞こえたことがあった。
「結局、あの娘は死んだ女を材料に作ったんだろ?」
「じゃあ、本物じゃないってことか?」
「人間なのか、それ」
ラズは聞こえないふりをして歩いた。胸の奥が冷たくなる。
自分はラズだ。そのことを、自分自身で選んだ。シオンもそう認めた。
それでも他人にとっては、記録に書かれた材料と目的の方が分かりやすいのだろう。
しばらく歩いてから、シオンが前を向いたまま言った。
「気にする必要はない」
ラズは驚いて彼を見る。
「……シオンがそれ言う?」
「何だ」
「世界中に何言われても『事実だ』って全部受けようとしてる人が?」
「俺とお前は違う」
「どこが?」
シオンは答えない。
ラズは少しだけ答えを待った。
「シオン?」
「……お前はラズだろう」
あまりにも当然のことを言うような声色だった。
ラズは目を瞬いた。
シオンは振り返らない。
「それ以外に何がある」
胸の奥へ溜まっていた重いものが、少しだけ解けた気がした。
「……そっか」
「何だ」
「別に」
「なら黙って歩け」
「はいはい」
ラズは少し笑った。それ以上の慰めは必要なかった。
復讐を終えたシオンには、新しい目的がなかった。
デウスを殺し、そのあと自分も死ぬ。そのために何年も生きてきたのだから、死に損なった後の人生など考えたこともなかった。
この星は今、守護神を失っている。
星核は崩壊寸前まで傷つき、星脈にはケイオスの力が残り、空を覆っていた守護の結界も失われた。神殿の記録には異星からの脅威についての報告もあり、各地ではその存在を恐れる声が日に日に増している。
それでも、シオンは自分が世界を救うべきだとは思えなかった。
資格がないから、というだけではない。もっと単純に、世界を救いたいという願いが今の彼にはなかった。
家族はいない。リゼもいない。故郷も自分が壊した。
残された世界全体を、自分の命より大切なものとして見られるほど、シオンはまだ何も取り戻してはいなかった。
ただし、以前とまったく同じでもなかった。
世界そのものに執着できなくても、その中にいるラズだけは、もう「どうでもいいもの」の中へ押し戻すことができない。たったそれだけだった。
◇
ある夜、二人は崩れた街道から少し離れた場所で火を焚いた。
空には今も赤黒い亀裂が残り、その周囲で星明かりが歪んで見える。遠くからは地鳴りが聞こえ、ときおり傷ついた星脈の揺らぎに合わせるように地面が僅かに震えた。
シオンは炎の前へ座っていた。
ラズは少し離れたところで、ロイエの記録媒体を膝の上に置いていた。
外へ流れた記録は多い。けれど、すべてではない。
犠牲者の名前。施設の詳細。公表すれば遺族が長年探していた答えへ辿り着けるかもしれない情報もあれば、誰かの傷をさらに抉るだけかもしれない記録も残っている。
「シオン」
炎を見ていた二色の瞳が僅かに動く。
「これから、どうするの?」
すぐには答えが返らなかった。
ラズも急かさず、火が小さく爆ぜる音を聞いて待った。
やがて、シオンはぽつりと言葉を落とす。
「……分からない」
その言葉を聞いて、ラズはほんの少しだけ目を細めた。
以前なら、「知るか」と切り捨てていたかもしれない。けれど、それを指摘することはしなかった。
「わたしも分からない」
シオンが彼女を見る。
「何がだ」
「これ」
ラズは膝の上の記録媒体を指先で撫でた。
「何をどこまで公開するのが正しいのか。全部出せばいいのか、出さない方がいいものもあるのか」
「好きにすればいい」
「それが分からないって言ってるの」
「俺に聞くな」
「だから、答えを聞きたいんじゃなくて」
ラズは苦笑した。
「分からないって、一回言ってみたかっただけ」
「意味が分からない」
「シオンもさっき言ったでしょう?」
シオンは黙り込む。
ラズは記録媒体へ視線を戻した。
「罪があるから、もう何もしなくていいってことにはならないと思う」
シオンの表情が僅かに硬くなる。
「説教か」
「違うよ」
「なら何だ」
「確認かな」
ラズは少し考えた。
「シオンの罪は、シオンのものだよ」
責める声音ではなかった。赦すための言葉でもない。
「わたしが代わりに背負うことはできないし、全部仕方なかったとも言えない。でもだからって、自分ごとケイオスに渡して終わらせるのも違うと思う」
シオンは火へ視線を戻した。
「……俺に何をしろと」
「今すぐ何かしろって言ってない」
ラズは首を振った。
「世界のためじゃなくていい。神のためじゃなくていいし、自分を赦すためじゃなくてもいい」
それは、死の底へ沈みかけていたシオンへ告げた言葉とよく似ていた。
「でも、シオンの身体はシオンのものだよ」
その言葉に反応するように、シオンの左胸の奥で赤黒いものが微かに脈打った。
『聞こえのいい話だな』
ケイオスの声が、身体の奥から響いた。その声は以前より近い。人を喰らい、一度完全に肉体を奪われたことで、境界がさらに薄くなったのだとシオン自身にも分かっている。
『だが、貴様は知っているはずだ。怒るたび、憎むたび、何かを失うたび、貴様は俺を必要とする』
シオンは奥歯を噛んだ。
『今度もそうだったではないか』
ラズにはその声は聞こえない。
それでも、シオンの目つきが僅かに変わったことで何かを察したのだろう。
「それに……シオンの罪も、過去も、怒ることも、憎むことも、全部シオンのものだから。ケイオスのものじゃない」
シオンが顔を上げる。
『くだらん』
内側で笑い声がした。
ラズは自分の胸へ手を置いた。
「わたしがリゼじゃなくて、わたしであるように。シオンはケイオスじゃなくて、シオンなんだよ」
左の赤い瞳と、赤みを帯びた紫の右目が僅かに揺れた。
「だから、もう自分から身体を明け渡さないで」
火が小さく爆ぜた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがてシオンが目を伏せる。
「……お前に背負えるものじゃない」
「うん」
ラズはすぐに頷いた。
「シオンの罪はわたしのものじゃない。代わりに背負えるなんて言わないよ」
シオンが彼女を見る。
ラズも正面からその視線を受け止めた。
「でも、隣を歩くことはできる」
それ以上は言わなかった。
生きてほしいと押しつけることもしない。世界を救えとも、罪を償えとも、前を向けとも言わない。
今のシオンにとって、どれもまだ簡単に選べるものではない。
シオンも答えなかった。
彼はまだ、生きることを選んだとは言えない。世界を守る覚悟もない。自分の罪を背負って生きていくのだと、胸を張れるようになったわけでもない。
ただ、自分の身体でラズを殺させたくなかった。それだけを理由に、一度手放した身体を取り戻した。
今のところ、この世界へ彼を繋いでいるものは、その小さな未練だけだった。
それでもラズは、今すぐそれ以上を求めようとはしなかった。
しばらくして、シオンは傍らへ置かれていた薪を一本取り、火へ放り込んだ。乾いた木が音を立て、消えかけていた炎が少しだけ大きくなる。
ラズは何も言わなかった。シオンも何も言わない。
ただ二人は、傷ついた星の夜の下で、もう少しだけ同じ火の前に座り続けた。




