後日談─白い花を残して
丘の上に立つ巨大な岩には、無数の名前が刻まれていた。
文字の深さも形も揃っていない。比較的真っ直ぐ刻まれた名もあれば、途中で手元が狂ったように歪んでいるものもあり、時間と風雨によって読めなくなりかけた文字もあった。その間には、名前の代わりに短い線だけが刻まれた場所もある。
ラズは墓石の前まで歩き、しばらく文字を見つめた。
「シオンが作ったの?」
返事はなかった。それでも肯定なのだと分かった。
「いつ?」
「……村を壊した後だ」
絞り出すような低い声が返る。
「残ってるものを集めて、埋められるものは埋めた。それから、覚えてた名前を刻んだ」
シオンは墓石から目を逸らさない。
あの夜、彼の拳をまともに受けた者は身体の形さえ残らなかった。誰のものか分からなくなった肉片がほとんどで、土へ返せるものすら十分にはなかった。
それでも、名前だけは残そうとした。
父と母。リゼ。近所の住人。幼い頃に遊んだ者。
顔は浮かんでも名を思い出せなかった者には、名前の代わりに印を刻んだ。
ラズは墓石へ並ぶ文字の中から、リゼの名を見つけた。
他より少しだけ丁寧に書かれているように見える。しかし、それを指摘することはしなかった。
「シオンの名前はないね」
隣から発せられる空気が冷えた。
「当たり前だ」
「自分も死ぬつもりだったのに?」
左の赤い瞳が鋭くなる。
「俺の名前を、あいつらと並べるな」
はっきりとした怒りだった。
ラズはすぐには返さず、もう一度石碑を見た。
「……そうだね。少なくとも今は、ここに書く名前じゃない」
シオンは何も答えなかった。
ラズは墓石の前へ膝をついた。
「何をしてる」
「少し話したいから」
「誰とだ」
「ここに名前がある人たちと」
「何を話す」
ラズは一度息を吸い、墓石へ向き直った。
「わたしは、ラズです」
丘を吹き抜けた風が桃色の髪を揺らす。
「リゼさんとよく似ていると思います。でも、リゼさんではありません」
後ろに立つシオンの身体が僅かに強張った。
「わたしの中にはリゼさんから来たものが少しだけ残っています。デウスに、シオンを制御するための存在として作られました」
その出生を口にしても、以前ほど自分自身が揺らぐことはなくなっていた。
「でも、今ここで話しているのは、リゼさんの代わりじゃありません。わたしはラズとして、シオンと一緒に旅をしています」
ラズは墓石へ刻まれた名前を見つめる。
「シオンがここで何をしたのか、知っています。全部を見たわけじゃないけど、どうしてそうなったのかも知っています」
背後でシオンが拳を握った。
次に何を言うのか分かったのだろう。或いは、分かったつもりになったのかもしれない。
しかし、ラズが口にしたのは、彼が恐れていた言葉ではなかった。
「シオンを赦してほしいとは言いません」
シオンが顔を上げる。
「わたしがお願いすることじゃないから。シオンがしたことを軽くするつもりもありません」
ラズは少しだけ声を震わせながら、それでも言葉を続けた。
「でも、わたしはシオンに死んでほしくありません」
シオンの瞳が揺れた。
「シオンの身体をケイオスに渡したくない。だから、わたしはこの人とまだ一緒に歩きます」
「ラズ」
名前を呼ばれて振り返ると、シオンは苦しげな顔でこちらを見ていた。
「勝手なことを言うな」
「勝手に言ってるよ」
「死者の前で言うことじゃない」
「死者の前だから言ってるの」
ラズは立ち上がった。
「みんながシオンに死んでほしかったのかは、わたしには分からない。赦してるのかも、恨んでるのかも分からない。だから、どっちだとも言わない」
その言葉に、シオンは何も返せなかった。
「でも、分からないからって、シオンが代わりに答えを作って死ぬ必要もないと思ってる」
以前なら、その言葉だけでシオンは激しく怒っただろう。今も顔は苦しげに歪んだ。それでも赤黒い力が噴き出すことはなく、彼は一度強く目を閉じただけだった。
「……もう分かってる」
掠れた声が漏れる。
「死者が俺に死ねと言ってるんじゃない。俺が自分に言ってたんだ」
「うん」
「それでも、俺が自分を赦せないことは変わらない」
「それも分かってる」
ラズは頷いた。
「だから、赦してなんて言わないよ」
それ以上、ラズは何も言葉を足さなかった。
シオンはしばらく墓石を見つめた後、自分から数歩近づいた。
その根元に、紙のようなものが挟まっているのが見えた。
雨を吸って乾くことを何度も繰り返し、ほとんど崩れかけている。中に残る花も色を失い、白かったはずの花弁は茶色く褪せていた。
シオンには、それが何なのか分かった。
村を離れる前、この場所へ置いた押し花だった。
リゼからもらったもの。約束を守れなかったと告げて、ここへ返した花だった。
「それ、知ってる?」
「ああ」
「持っていく?」
「……持っていかない」
ラズはシオンを見る。
「どうして?」
「俺がここに置いたものだ」
「うん」
「なら、ここにあるべきだ」
ラズには、それが本心のすべてではないことが分かった。
持っていきたくないのではない。自分が再びそれへ手を伸ばすことを許せないのだろう。
けれど、今回は何も言わなかった。
「分かった」
そう答えて、少し離れる。
シオンは一人で墓石の前へ立った。
何度か口を開きかけ、また閉じる。長い沈黙のあと、ようやく声が出た。
「……謝らない」
ラズは振り返らずに聞いていた。
「俺が謝っても、何も戻らない。赦してくれとも言わないし、赦されるとも思ってない」
左右で色の違う瞳が、碑へ刻まれた名前を追う。
「俺が殺した」
言葉は短かったが、その先を誤魔化さなかった。
「俺の身体で、俺の手で殺した」
精神を操られていたことを、あえてここで言い訳にすることはしなかった。
しかし、それが自分の意思で望んだ虐殺だったとも考えてはいない。
その二つを、以前のように無理やり一つへ潰そうとせず、シオンはただ、自分の身体によって彼らの命が奪われたという事実を口にした。
「言葉を残す時間も与えられなかった。何を思って死んだのかも、俺には分からない。身体すらまともに残せなかった」
手袋の中で拳が握られる。
「デウスは殺した。でも、何も戻らなかった」
当然のことだった。復讐を始めたときから理解していた。
それでも実際に終わってみれば、空白だけが以前より鮮明になった。
「俺は、ここを出るときにお前たちに誓った。デウスを殺して、関係した連中も殺して、最後に自分も死ぬと」
シオンは左胸へ手を当てた。
そこには止まってしまった心臓の代わりに赤黒い石が深く根を張り、そのさらに奥からケイオスの気配が絶えず滲んでいる。
『死に損なったな』
声が聞こえた。
シオンは無視した。
「死ぬことが償いだと思っていた。俺が消えれば、それでいいと思っていた。この星がその後どうなっても、知ったことじゃないと」
実際、一度はその通りにした。身体を手放し、ケイオスに奪われても抗わなかった。
「でも、今はできない」
ラズが僅かに息を呑む。
シオンも、その言葉を自分で口にしたことに苦しげな顔をした。
「生きたいからじゃない。まだ、そんなふうには思えない」
墓石に向かって、苦しそうにしながらもはっきりと言葉を続ける。
「俺が死んで身体を渡せば、ケイオスが使う。俺の手で、また誰かを殺す」
一度目はデウスに奪われた身体で家族を殺した。二度目は、自分から手放した身体でラズを殺しかけた。
同じことをもう一度許せば、そのときは誰のせいにもできない。
「ラズも殺される」
シオンは一度だけ、少し離れた場所にいるラズを見た。
「だから、今は死ぬわけにはいかない」
墓石は何も答えない。父も、母も、リゼも、村の人々も、何も言わない。
それで良かった。
シオンは返事を求めなかった。
しばらくして、懐から小さな布袋を取り出した。
リゼの家で見つけたツェルトリヒの種だった。
「植えるの?」
ラズが近づく。
「全部じゃない」
「咲くかな」
「知らない。枯れるかもしれない」
「うん」
シオンは布袋を見つめる。
「それでも植える?」
ラズが尋ねた。
シオンは答えなかったが、墓石の少し脇へ膝をついた。
硬くなった土へ指を差し込み、慎重に崩していく。以前より大きくなった手なら、僅かに力を誤っただけでも土ごと深く抉ってしまう。それでもシオンは時間をかけ、小さな穴を作り、そこへ数粒だけ種を落とした。
ラズも隣へ膝をつき、水筒から僅かに水を注いだ。
「前に図鑑で見たんだけど、ツェルトリヒって、寒くても荒れた土地でも咲くんでしょう?」
「……ああ」
「じゃあ、ここでも咲くかもしれないね」
咲かないかもしれない。それでも、咲くかもしれない。今はそれだけで良かった。
シオンは土を見つめた。
視界の端には、リゼの幻が立っていた。
以前のように死ねとは言わない。それはリゼが赦したからでも、見守っているからでもなかった。
自分が彼女の姿を使って、自分自身へ罰を言い渡すことをやめただけだ。
リゼが本当は何を思っているのかなど分からない。だから、その幻の表情にも意味を求めなかった。
シオンはただ、一度だけ彼女の姿を見た後、植えた土へ視線を戻した。
「……行くぞ」
やがて立ち上がる。
「もういいの?」
「見るだけだと言っただろう」
「うん」
「もう見た」
ラズも立ち上がった。
「また来てもいい?」
シオンは少しだけ黙った。
「好きにしろ」
「一緒に?」
返事はなかった。
けれど、今度は「行かない」とも言わなかった。
村を出る前、シオンは一度だけ振り返った。
崩れた家。蔦に覆われた井戸。父と母が暮らしていた家の跡。リゼの薬草屋。丘の上の墓石。
その足元へ残した古い押し花と、土の下にある新しい種。
何も元には戻っていない。
村は廃墟のままだ。父も母もリゼも死んでいる。罪も消えない。
それでも、シオンの中にあるオラケルは、もうあの夜の惨劇だけではなかった。
父に井戸から引き上げられたことも、母に泣かれたことも、リゼに笑われたことも、父と木を削ったことも、あの場所で確かに生きていた十四年間も、同じ故郷の記憶だった。
そのすべてを見たうえで、シオンは村へ背を向けた。
逃げるためではない。もう戻れない場所であることを、自分の目で確かめたからだった。
村の外で、ラズが隣へ並ぶ。
「次はどこへ行こうか」
「さあな」
「北の施設跡。生存者がいるかもしれないって記録があったでしょう?」
「なら行けばいい」
「一緒に来る?」
シオンが横目で彼女を見る。
「お前を一人で行かせたら死ぬ」
「心配してくれてる?」
「違う」
「じゃあ何?」
シオンは少し黙った。
「……面倒が増える」
「そういうことにしておくね」
ラズは小さく笑った。
二人はまた歩き始めた。
背後には、オラケルと呼ばれていた廃村が残っている。シオンの人生が始まり、その人生が一度終わった場所だった。
前には、傷ついた星が広がっている。
残された実験施設も、星脈へ入り込んだケイオスの残滓も、外から近づく神々も、この先どうすればいいのか分からないことばかりだった。
シオン自身も、生きたいと思えるようになったわけではない。
ただ今は、自分から死ぬことも、身体をケイオスへ渡すことも選ばない。
その隣をラズが歩いている。
遠くには、時折死者の面影が見えた。シオンはもう、その姿から言葉を求めなかった。
赦されたとも思わない。恨まれているとも決めつけない。
ただ自分が殺したことを忘れず、その記憶を連れて歩いていく。
振り返れば、墓石の下にはまだ何も咲いていない。あの種が芽吹くのかも分からない。
それでも、種は確かに土の中へ残された。
神殺しの葬列は、傷ついた星の上を再び進み始めた。
これで本当に第一部完結となります。
ここまでご覧いただいた方々、本当にありがとうございました!
シオンとラズの旅路はまだもう少し続きます。第二部連載開始までは少しお時間を頂く予定ですが、現在執筆中なので今しばらくお待ちください。
よろしければ、旅路の続きを待つ間にでも評価やブクマ、感想、リアクションなど入れてお待ちいただけましたら幸いです。
それでは、近いうちにまたお会いしましょう。




