祈りの終わり
デウスが死んでから、四日が経っていた。
その朝、ラズが目を覚ますと、少し離れた場所でシオンが火の残りを見つめていた。
眠る必要のない彼は、おそらく一晩中そこにいたのだろう。膝を立てて座り、黒衣の上から毛皮の外套を羽織っている。
ケイオスが退いたことで異形と呼ぶほど膨れ上がっていた身体はある程度まで戻ったものの、それでも以前より肩幅は広く、替えたばかりの黒衣の布を軋ませている。左目は赤いまま、右目も元の紫には戻りきらず、赤を溶かしたような濁った紫へ変わっていた。
ラズが身体を起こすと、喉へ鈍い痛みが走った。
「……っ」
小さく顔をしかめたのを、シオンは見逃さなかった。
視線が一瞬だけラズの首へ落ちる。
そこにはまだ、指の形に沿うような青黒い痕が残っていた。自分の手がつけた痕だった。
正確には、ケイオスに奪われていた自分の身体がつけたものだったが、シオンはそう切り分けるつもりなどないらしい。何も言わずに目を逸らし、消えかけた火へ薪を一本押し込んだ。
「もう、そんなに痛くないよ」
ラズが言うと、シオンの手が僅かに止まった。
「聞いていない」
「顔に書いてあったから」
「書いていない」
それだけ返して、シオンは立ち上がった。
ラズは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。
二人が野営していたのは、戦場となった聖地からかなり離れた街道脇だった。しかし、四日歩いても、神を殺した一撃の爪痕から逃れることはできなかった。
道はところどころ裂け、大きな亀裂を避けるために何度も迂回しなければならない。遠くの山では斜面が大きく崩れ、森の一部が土砂の下へ消えていた。
空を見上げれば、かつて星を横断するように輝いていた白い帯は姿を眩ませ、その跡に赤黒い亀裂が走っている。
昼になっても消えないその傷を、ラズは何度も見上げた。
「まだ広がってる気がする」
隣を歩いていたシオンも、空へ視線を向ける。
「星脈の暴走が止まっていない」
「分かるの?」
「……何となくな」
左胸へ、無意識に手が触れる。その奥には、以前よりも深くシオンと結びついているケイオスがいる。
◇
街道を半日ほど進んだところで、小さな町が見えてきた。
町の入口近くにあった石造りの門は半分崩れ、街路には倒壊した家屋から運び出された木材や瓦礫が積み上げられていた。怪我人も多いらしく、広場には簡易の天幕が並び、人々が水や薬を運んでいる。
シオンは町へ入る前に足を止めた。
「別の道を行く」
「食料も水も減ってるよ」
「魔物を狩ればいい」
「わたしは魔物の肉を食べたら死ぬんだけど」
シオンが黙り込む。
「それに、情報も欲しい」
ラズがそう言うと、彼は露骨に嫌そうな顔をしたものの、結局何も言わず町へ足を向けた。
広場へ入った瞬間、異様な騒がしさが耳へ届いた。
「だから、何度やっても点かないんだ!」
男が、壊れた灯りの魔導具を店先へ叩きつける。
「昨日までは別の核を入れれば動いたんだぞ!」
「こっちに言われても知らん! 魔導具師だって原因が分からないんだ!」
別の場所では、水汲み用の魔導具を囲んで数人が言い争っていた。
「井戸の水が黒いのは、これのせいなのか?」
「違う。星脈?ってやつがおかしくなってるって神官が……」
「神官? 神殿の連中なんか、三日前に逃げただろう!」
声を荒らげた男の言葉に、周囲の空気が重くなった。
ラズが視線を向けると、広場の奥に小さめの神殿があった。
正面の柱には亀裂が入り、鐘楼の上半分は崩れている。何より目についたのは、入口の両脇に置かれている神灯だった。火はどちらも消えていた。
神殿の前には、数十人ほどの人間が集まっている。
「……行ってみよう」
ラズが言う。
シオンは少し眉を寄せた。
「面倒事だぞ」
「今さら?」
返す言葉がなかったのか、シオンは黙って後ろについてきた。
人垣へ近づくと、中から若い男の声が聞こえてきた。
「本当に、何をしても点かないんです」
簡素な神官服を着た青年が、祭壇の前に立っていた。纏っている法衣には高位神官のような装飾はなく、おそらくこの地方の小神殿へ勤めていた下級神官なのだろう。
男は震える手を人々へ見せた。手の甲には、割れた白い紋様が残っている。
「これは、デウス様から授かった加護印です。四日前、突然砕けました。その瞬間から神力を引き出せなくなった」
「だからって、神が死んだなんてどうして分かる!」
群衆の中から声が飛ぶ。
「何百年もこの星を守ってきた神だぞ!」
「俺にも分かりません!」
若い神官が叫び返した。声が震えている。
「でも、どの神殿でも同じことが起きてるんです! 神灯が消えて、加護印が割れて、祈っても何も返ってこない! 主神殿とも、もう繋がらない!」
人々がざわめいた。
「主神殿が……?」
「消えたって話は本当なのか?」
「聖地そのものが吹き飛んだって……」
「誰がそんなことを……」
ラズは隣を見た。
隣に立つシオンは無言で群衆の向こうを見ている。その表情からは何も読み取れなかった。
ただ、右手だけが僅かに握られていた。
そのときだった。
神殿の奥から、甲高い音が響いた。
「……何?」
若い神官が振り返る。
祭壇の背後。白い水晶で作られた記録神具が、勝手に光を放ち始めていた。
「触るな!」
別の神官が慌てて奥から走ってくる。
「それは主神殿の記録に繋がっている! 今は何が起こるか——」
言い終わる前に、水晶から声が流れた。
『第七実験群、経過報告』
その声を聞いた瞬間、神官たちの顔色が変わった。
ラズにも分かった。
——デウスの声だった。
群衆が静まり返る。
『被験体への定着率は低い。現段階において、ケイオスの力を安定して保持できた例は一件のみ』
「止めろ!」
年嵩の神官が叫び、水晶へ走った。しかし、若い神官がその腕を掴んだ。
「待ってください!」
「離せ! 異星の神の干渉だ!」
「でも、この声は……!」
『適合個体、シオン』
ラズの呼吸が止まった。
シオンも僅かに目を見開いた。
『怒り及び憎悪による出力増加を確認。現状の最大の問題は、器となる肉体側の耐久性にある』
群衆の間から、戸惑う声が漏れた。
「シオン……?」
「誰だ?」
「実験って、何の……」
ふと、ラズは自分の鞄へ手を伸ばした。中で何かが熱を帯びている。
「……まさか」
取り出したのは、ロイエの礼拝堂から持ち出した記録媒体だった。
表面に刻まれた術式が、白く明滅している。
「ラズ?」
「これ……」
ラズは媒体と、祭壇の記録神具を交互に見る。明滅の間隔が同じだった。
「たぶん、神殿の記録網に繋がってる」
シオンが眉を寄せる。
「止められるか」
「……分からない」
ラズは急いで術式を確認した。
以前にも何度も内容を調べたはずだった。けれど、今まで反応しなかった術式が浮かび上がっている。
これは恐らく、神力による封印が失われたことを条件に起動する仕掛けだ。
「違う……」
ラズの顔から血の気が引いた。
「これ、記録を見るためだけのものじゃない」
「どういう意味だ」
「主神殿の封印がなくなったら、他の記録神具と共鳴するようになってる」
シオンが水晶へ目を向ける。
そこでは、まだデウスの声が流れていた。
『感情負荷の増加には、対象にとって重要度の高い人間を利用することが有効と推測される』
「止めろ!」
今度こそ年嵩の神官が若い男を振り払い、水晶を床へ叩き落とした。甲高い音と共に水晶が砕ける。人々から悲鳴が上がった。
しかし、声は消えなかった。
神殿の奥にある別の記録具が光り始めた。さらに、外。隣の建物に保管されていた小型の神具からも。
『対象の故郷を利用する』
声が重なる。
「嘘だ!」
年嵩の神官が叫んだ。
「これは神を貶めるための偽りだ! 異星の神が記録網へ干渉している!」
「でも……」
若い神官が呟く。その顔は青ざめていた。
「この記録番号……知っています」
年嵩の男が睨みつける。
「黙れ」
「僕らには閲覧権限がなかった。でも、主神殿から届く封印記録の一覧に、この番号があった」
「黙れと言っている!」
「じゃあ、何なんですか!」
青年の声が裏返った。
「どうして神殿は、こんな記録を隠してたんですか!」
群衆のざわめきが大きくなる。
ラズは記録媒体を握ったまま立ち尽くしていた。
ロイエ。真実を知りながら逃げた男。シオンによって惨殺された男。最後まで自分の罪から完全には逃げきれなかった男。
その彼が遺したものが、神の死後になって今さら世界へ口を開いている。遅すぎる神への反逆だった。
「ロイエ……」
ラズが呟く。
シオンは何も言わない。
「たぶん、最初からこうするつもりだったんだと思う」
「死んだ後にか」
「うん」
ラズは媒体へ視線を落とした。
「生きてる間にはできなかったから」
シオンの顔に冷たいものが浮かぶ。
「随分、都合がいいな」
「……うん」
「遅すぎる」
「それも、うん」
シオンが一瞬だけラズを見る。
責めたつもりはなかったのだろう。ラズも分かっていた。
ロイエが記録を残したからといって、彼がしたことまで消えるわけではない。
けれど、残ったものが今になって意味を持ち始めている。
神殿の記録は、その日だけで終わらなかった。
二人が町へ滞在している間にも、別の地域から同じような話が次々と届いた。
「北の小神殿でも記録が流れたらしい」
広場で負傷者へ水を配っていた男が言う。
「地下施設の場所まで出たって」
「西では、人間の名前が並んだ名簿が見つかったそうだ」
「生贄か?」
「分からん。ただ、戻ってきてない名前ばかりだって……」
噂は一日のうちに増えていった。神殿が否定するより早く、別の場所から証拠が現れる。
閉鎖された施設。封印された命令書。失踪者の名。実験記録。
そして、その中にはデウス自身の声もあった。
『私は、自らが罪を犯したことも理解している』
町の広場に置かれた記録神具から、その言葉が再生されたとき、誰も声を発しなかった。
『それでも、同じ状況になれば、私はもう一度同じ選択をする』
誰かが、力なく首を振った。
『この星を守るために必要ならば、私は再び同じ罪を犯す』
沈黙が広がる。
泣き出す者がいた。怒鳴る者もいた。
「嘘だ……」
年老いた女が、震えながら呟いた。
「そんな……デウス様が……」
「でも、本人が言ってるじゃないか」
「だから偽物だって!」
「じゃあ、なんで全部の神殿から同じ記録が出るんだ!」
人々の声がぶつかる。
ラズはその輪の外にいた。
隣にはシオンがいる。
「……行くぞ」
突然、シオンが言った。
「え?」
「ここにいる理由はない」
ラズは人々を見る。
まだ誰も二人が何者なのか気づいていない。けれど、それも時間の問題だった。
神殿が持つ記録には、きっと二人の名前がある。姿も恐らく、全部ではないにせよ神殿が残していたものがあるはずだ。
「シオン」
「何だ」
「もし……もし、あなたのことまで全部出たら」
シオンはしばらく黙った。
「出るだろうな」
「……怖くないの?」
「何がだ」
「世界中の人に知られること」
シオンの表情は変わらなかった。ただ、ほんの少しだけ視線が下がる。
「どうでもいい」
以前なら、ラズはその言葉をそのまま受け取っていたかもしれない。けれど今は違った。
「本当に?」
シオンが眉を寄せた。
「しつこい」
「だって、シオンってそういう時、大体どうでもいいって言うから」
「どうでもいいから言ってる」
「じゃあいいけど」
「なら聞くな」
ラズは少しだけ笑った。
それから、手の中の記録媒体を見る。
「わたしのことも、出ると思う」
シオンの目が動いた。
「楔として作られたことも。リゼさんの残滓を使われてることも」
「……そうか」
「それだけ?」
「何を言えばいい」
ラズは少し考える。
「例えば、気にするなとか」
「お前が気にしないわけないだろう」
思いがけない返答にラズが目を瞬く。
シオンは気まずそうに目を逸らした。
「……俺も人のことは言えない」
ラズは何も言わなかった。
あの夜、ラズの手を振り払わなかったときと同じだった。
大きな言葉はない。救いも、約束もない。けれど、完全に一人へ戻ったわけでもない。それが二人の関係だった。
◇
その日の夕方。
二人が町を出ようとしたとき、背後の神殿から再び記録神具の声が響いた。
『制御補助個体について報告』
ラズの足が止まった。
『死亡したリゼの魂より採取された残滓、実験対象シオンの記憶情報、及び神力を核として構築』
ゆっくりと振り返る。
『目的は、ケイオスを宿すシオンの精神安定化及び制御』
人々がざわめいている。
『個体名は設定せず、実験対象本人による命名を想定する』
ラズの指が震えた。
記録の中にあるのは、自分が生まれた理由だ。自分が道具として作られた記録だ。
シオンがその震えを見た。そして何も言わず、ただ彼女と神殿の間へ割り込むように、半歩だけ身体をずらした。
声も、記録も、真実も、そんなことで隠せるようなものではない。
それでも、その動きだけでラズは少しだけ息を吐くことができた。
だが、記録は続いた。
『適合個体についての情報を共有する。名はシオン。現在の年齢は十八。銀白色の長髪。右眼は紫、左眼は赤——』
そこで記録は古い情報のまま一度途切れ、別の映像記録へ切り替わった。
崩壊した主神殿。白い翼。赤黒い力。そして、デウスへ拳を振り下ろす男。
人々の視線が、一斉に広場の外へ立つシオンへ向いた。
左の赤い瞳。赤みを帯びた紫の右目。銀白の長い髪。記録の中と同じ特徴を持った青年が、そこに立っている。
沈黙の中で、誰かが小さく呟いた。
「……神殺し」
シオンは何も答えなかった。
ラズの手の中では、ロイエが遺した記録媒体がまだ弱く光り続けていた。
神が死んだことで、長い間封じられていた真実がついに二人のところまで追いついたのだった。




