小さな未練
シオンは赤黒い海へ両手をついた。
力はほとんど残っていない。それでも腕へ力を込め、沈み続けていた身体を少しずつ持ち上げる。
海がまとわりつき、肩から下を再び底へ引き戻そうとする。それでもシオンは膝を立てた。
『戻りたいわけじゃない』
誰に言うでもなく、胸の内で呟く。
『今も、生きたいとは思えない。それでも、あいつを殺させるために身体を渡したわけじゃない』
現実で、ケイオスの表情が僅かに歪んだ。
「……何だ」
ラズの首を締めていた手に、ごく小さな震えが走る。
ケイオスが眉を寄せた。
「まだ動くか」
シオンは精神の底から、自分の肉体へ意識を伸ばした。
腕。手。指。ほんの僅かでいい。主導権をすべて取り戻す必要はない。今は、この手だけ。
「……俺の」
現実で、ケイオスが使っていた喉から掠れた声が漏れた。
ラズの目が大きく見開かれる。
「シオン……?」
ケイオスの顔が明確な不快感に歪んだ。
「黙っていろ」
その声へ重なるように、もう一つの声が無理やり喉から押し出された。
「俺の身体で……」
首を掴んでいた指が、僅かに開く。
「そいつに……触るな」
喉へ一筋の空気が入り、ラズは激しく咳き込んだ。
けれど、シオンの意識が戻ったのだと理解した瞬間、彼女はその隙を逃さなかった。首を掴む腕へ両手を添え、自分の内側に残っていた神力を一気に解放する。
白い光がラズの身体を包んだ。それは、シオンを制御するためにデウスによって組み込まれた、楔の力だった。
かつては、シオンを支配するために作られたという事実ごと嫌悪した。けれど、今は違う。何のために使うかは、自分で決める。
シオンを従わせるためではない。ケイオスそのものを封じるためでもない。ただ、奪われた身体へシオン自身の意思が戻るための隙間を作る。
「シオンの身体を……返して!」
白い神力がシオンの腕へ流れ込んだ。
ケイオスの赤黒い力が反発する。
「ぐ……っ!」
ラズの身体へ凄まじい衝撃が走り、腕から肩、首、頬へと亀裂のような魔力の傷が浮かび上がった。身体の内側から引き裂かれるような痛みが襲い、意識まで削り取られそうになる。
それでもラズは手を離さなかった。
シオンも同じだった。
精神の底から意識を押し上げ、自分の肉体へ食い込もうとする。完全に取り戻せるほどの力などない。それでも、自分の腕を、自分の目を、自分の喉を少しずつ奪い返していく。
「……煩わしい」
ケイオスの声音から、先ほどまでの余裕が消えた。
「たかが器の分際で」
全身から赤黒い力が噴き上がる。
ラズの白い神力が押し潰されるが、同時にシオン自身の抵抗が内側から支配を乱す。外と内から生じた二つの揺らぎによって、完全に噛み合っていたはずのケイオスと肉体の接続が僅かずつずれていった。
最初に変化したのは瞳だった。漆黒に染まっていた結膜の端へ、白が戻り始める。
「……!」
ラズが息を呑む。
黒は急速に薄れ、やがて両目の結膜は完全に白へ戻った。それと同時に、両方とも赤一色だった虹彩にも変化が現れる。
左目はそのまま赤く残った。
一方、右目の赤はゆっくりと薄れ始めたが、かつての紫へ完全に戻ることはなかった。紫の奥へ赤い色が溶け込んだような、以前にはなかった赤紫の瞳へ変わっていく。
身体にも変化が現れた。
ケイオスの力を受け止めるため異常なまでに肥大していた筋肉が、赤黒い力が内側へ引いていくにつれて少しずつ縮んでいく。岩塊のように盛り上がっていた肩や背中の隆起が落ち着き、丸太のようだった腕も幾分細くなった。
それでも、元には戻らない。
人を喰らう以前、あの日川の中で見たシオンと比べれば明らかに大きく、厚い胸板や肩、腕には人間離れした筋肉が残っていた。黒衣も裂けたままで、その隙間から覗く身体には赤黒い紋様が薄く残り、ケイオスがここまで深く入り込んだ痕跡を隠すことはできなかった。
「……まだだ」
ケイオスが低く吐き捨てた。
シオンの身体から溢れていた赤黒い力が急速に内側へ巻き戻っていく。空を走る亀裂も、大地を割った傷も、崩壊寸前の星核もそのままだったが、破滅の中心で膨れ上がっていたケイオスの存在感だけが少しずつ薄れていった。
「勘違いするな、シオン」
声はまだ現実の喉から響いていたが、次第に深い場所へ遠ざかっていく。
「俺を追い出したわけではない。貴様が俺をここまで招き入れた事実も、人を喰らったことも消えはしない」
シオンは答えなかった。
「怒り、憎み、また力を求めれば、今度こそもっと深くまで俺の元に来る」
赤黒い紋様が肌の下へ沈み、その色だけを薄く残していく。
「それまで、せいぜい足掻け」
最後に低い笑い声が残り、その気配は完全に身体の奥へ沈んだ。消えたわけではない。
シオンには分かっていた。以前より深いところにいる。人を喰らう以前よりも、遥かに肉体へ馴染んでいる。
それでも今、少なくとも身体を動かしている意思だけは自分のものだった。
そのことを確認する余裕すらないまま、シオンの膝から力が抜けた。
身体が地面へ崩れ落ち、ラズもほとんど同時にその場へ膝をつく。首には濃い指の痕が残り、呼吸をするだけで鋭い痛みが走った。全身に刻まれた魔力の傷も消えず、視界は何度も暗くなる。
それでもラズは、地面へ手をつきながらシオンの方へ近づいた。
「シオン……」
伏せられていた瞼が、ゆっくりと開く。
左目は赤い。右目は、以前の紫へは戻らず、赤を含んだ濁りのある紫へ変わっている。それでも、その瞳の奥にはケイオスの愉悦がなかった。
だからといって、戻れたことを喜んでいるような顔でもない。ひどく疲れ、自分がまだ生きていることさえ受け止めきれていないような表情で、シオンはしばらくラズを見つめていた。
「……俺は、戻りたかったわけじゃない」
声はひどく掠れていた。
ラズは黙って頷いた。
「世界を守ろうと思ったわけでもない」
「うん」
「俺は……まだ、生きたいと思えない」
「……うん」
最後の言葉にラズは僅かに目を伏せるものの、どの言葉も否定しなかった。
シオンは救われていない。自分を赦せたわけでもないし、死にたいという願いが消えたわけでもない。
ただ、死者の顔を使って自分を責め続けることと、自分自身が自分を赦せないことを、ようやく別々のものとして見始めた。
そして、自分の身体でラズを殺させることだけは受け入れられなかった。
それだけで、今は十分だった。
ラズは震える手を伸ばし、シオンの手へ触れた。
その手も、以前より少し大きい。指も掌も厚く、人を喰らう前の体格には戻っていなかった。
デウスを殺した手。星を壊した手。つい先ほどまで、自分の首を締めていた手。
それでもラズは、両手でその大きな手を包んだ。
「それでもいいよ」
涙が頬を伝った。
「今は、それでもいいから」
シオンは何も答えなかった。
空には今も赤黒い亀裂が残り、大地の奥では傷ついた星脈が不規則に鳴動している。星核は今にも砕けそうなほど傷つき、守護神だったデウスはもういない。
殺した人々も戻らず、復讐が終わったからといって、シオンが背負うものまで消えることはない。
これから何をするのか。生きるのか。生きるとして、何のために歩くのか。シオンには、まだ何一つ分からなかった。
それでも、ラズに握られた手をしばらく見下ろした後、彼はその手だけは振り払わなかった。
デウス戦・ケイオス戦終了です。
次回からは第一部エピローグとなります。神が死んだ後の星、そして復讐を終えた神殺しはこれからどうなるのか。後もう少しだけ、お付き合いください。




