死者の声
『ほら。もう終わりにしよう』
リゼの姿をした幻が差し出した手を見ながら、シオンの身体は再び赤黒い海の底へ沈み始めていた。
その声が本物ではないことは、もう分かっている。
死者に求められたから死ぬのではない。自分が自分を赦せないから死ぬ。その結論を自分のものとして引き受けた上で、シオンはもう一度目を閉じようとしていた。
復讐は終わった。デウスは死んだ。人を喰ったことも、神を苦しませたことも、最後の一撃で星を崩壊寸前まで傷つけたことも取り消せない。ならば、当初から決めていた通り、自分もここで終わればいい。
それが一番簡単だった。
生き残ったあとに何をすればいいのか考える必要もない。これほどのことをした自分が、それでも生きることをどう受け止めればいいのか悩む必要もない。
ただ、終わる。それだけで良かった。
現実では、その諦めに呼応するように、ケイオスがシオンの身体を使ってラズの首をさらに強く締め上げていた。
「……っ、ぁ……」
ラズの喉から掠れた音が漏れる。
両足は地面から離れ、異様なほど大きくなったシオンの手が細い首をほとんど覆い隠している。防護のために集めていた神力は圧力に耐えきれず、何度張り直しても表面から潰されていった。
目の前にはシオンの顔がある。
けれど、赤い虹彩を囲んでいた結膜は漆黒へ染まり、その表情にはシオンなら決して浮かべない愉悦があった。
「もう少しだったのだがな」
ケイオスは、苦しむラズを眺めながら愉快そうに目を細めた。
「せっかく捨てた命を、貴様が余計なことを言うから拾い直しかけたではないか」
指へさらに力が入る。
「ならば、今度こそ諦めてもらおう。貴様が死ねば、あの死に損ないも少しは静かになるだろう」
首の奥で嫌な音がした。視界が暗くなる。それでもラズは、シオンの手から自分の手を離さなかった。
「シ……オン……」
声と呼ぶにはあまりにも弱い音だったが、それでも精神の奥へ届くように、ラズは何度も名前を呼んだ。
赤黒い海へ沈みかけていたシオンの瞼が、僅かに揺れた。
「聞いて……」
幻のリゼが差し出している手は、まだそこにある。シオンはそちらを見たまま動かない。
「わたし……あなたが、その声を本物だと思ってないことは……分かってる……」
シオンの瞼が少しだけ開いた。
「リゼさんたちが、あなたに死ねって言ってるから……死のうとしてるんじゃないことも……」
『……だったら、何だ』
弱い声が返った。
『俺自身がそう思ってる。それだけだ』
「うん……」
ラズは否定しなかった。
「だから……死者の人たちを理由にしなくなったことは、分かってる」
言葉を発するたびに喉へ鋭い痛みが走り、息が途中で途切れる。それでもラズは、必死に言葉を繋いだ。
「でも……それでも、その人たちの顔で……ずっと自分を責め続けるの?」
シオンの眉が僅かに動いた。
『……何が言いたい』
「その声がシオン自身のものなら……リゼさんの顔じゃなくても、いいはずでしょう……?」
赤黒い海が、僅かに波打った。
シオンは何も答えなかった。
ラズは続ける。
「なのに、ずっとリゼさんたちの姿をしてる。あなたが自分を責めるたびに……あの人たちは、あなたを憎んで、苦しめて、死ねって言う人にされてる」
『……』
「それって……本当に、あの人たちなの?」
シオンの視線が、目の前に立つリゼの幻へ向いた。
もちろん違う。そんなことは分かっている。これは自分だ。自分が作った声だ。
けれど、ラズが問うているのは、それよりも先のことだった。
なぜ自分は、その声へリゼの顔を与え続けているのか。なぜ父や母の姿で、自分へ罰を言い渡し続けているのか。
死者の願いではないと理解した後でさえ、なぜ彼らを自分自身の処刑人として使い続けているのか。
「わたしは……本当のリゼさんを知らない」
ラズの目から涙が滲んだ。
「でも、シオンは知ってるんでしょう?」
その言葉が、胸の奥へ沈んだ。
「死ねって言うためだけの人だったの? シオンが苦しんでるのを見て……もっと苦しめって笑うような人だったの?」
幻のリゼは何も答えない。ただ、シオンが与えた責めるための表情を浮かべて、こちらへ手を伸ばしている。
その姿を見た瞬間、シオンの中にひどく小さな違和感が生まれた。それは今までにも感じていたはずだった。けれど、自分を罰することだけを考えている間は、見ようとしなかった。
自分が作り上げてきたリゼは、生前のリゼとはあまりにも違う。それを知っていた。知っていて、ずっと無視していた。
「シオン……わたしを置いていかないで……」
その言葉が精神の奥へ触れた瞬間、ラズ自身の中で、微かな何かが震えた。
最初は、消えかけた神力が揺らいだだけのように思えた。しかし違った。
それはラズ自身の感情でも、彼女がこれまで生きてきた中で得た記憶でもない。もっと古く、彼女という存在が形作られる以前からその奥へ組み込まれ、これまで幾度もケイオスの干渉を受けて削られながら、それでも完全には失われなかった小さな欠片だった。
——リゼの魂の残滓。
ラズの願いが、その欠片を揺らした。
置いていかないで。自分の身体で、わたしを殺さないで。
その想いが細い糸のようにシオンの内側へ届き、目の前に立つリゼの幻へ触れた。
変化はごく僅かだった。幻の輪郭が一瞬だけ揺れ、責めるために細められていた目から冷たさが抜ける。
シオンが息を止めた。
『……?』
顔は同じだった。声も、記憶の中のリゼをなぞっている。それなのに、その瞬間だけは自分が作ってきた幻とは違うものに見えた。
完全なリゼが現れたわけではない。残っていた魂が蘇ったわけでもない。
ラズの内側に残されていた欠片が、シオンの記憶から作られた幻へほんの僅かに混ざっただけだった。
けれど、その口から出た言葉を、シオン自身が作ることはできなかった。
『シオン』
その声には責める響きがない。それだけでシオンの胸が詰まった。
リゼの姿をしたものは、現実で首を締められているラズの方へ僅かに視線を向け、それからシオンを見た。
『ラズを、見捨てていいの?』
シオンは何も言えなかった。
死ねとは言わなかった。赦さないとも、地獄へ落ちろとも、復讐を果たせとも言わない。ただ、目の前で殺されかけている一人を、本当にそのまま見捨てるのかと問いかけている。
それはシオンがこれまで作ってきたリゼの幻とは、根本から違っていた。
自分の幻は、いつも自分しか見ていなかった。
自分がどれほど罪深いか。どれほど罰されるべきか。どう苦しみ、どう死ぬべきか。そこに他人の未来など存在しなかった。なぜなら、それを作っていたのは自分自身だからだ。
自分の罪悪感だけを材料にして、死者の姿へ自分を裁く役割しか与えてこなかった。
そのことに気づいた瞬間、シオンの胸へ別の痛みが走った。
母が、自分が怪我をしたときに心配そうな顔をしていたことを思い出す。転んでも泣かずに立とうとする幼い自分を抱き起こし、痛いなら我慢するなと言っていた。
父はいつも豪快によく笑うのに、無茶をすれば言葉少なに眉を寄せ、不器用に頭へ手を置いてくれた。
リゼもそうだった。
傷を隠せば怒った。自分一人で何でも抱え込もうとすれば呆れた顔をしながら隣に残り、痛いなら痛いと言えばいいのだと、何度も言っていた。
彼らが最後に自分をどう思ったのかは、今も分からない。それは変わらない。
自分を恨んだかもしれない。恐れたかもしれない。何も考える暇さえなかったのかもしれない。だから、彼らならきっと自分を赦すなどと考えることもできない。
けれど、生きていた彼らがどんな人間だったのかまで分からないわけではなかった。
——自分は、それすら塗り潰していた。
『俺は……』
シオンは、目の前のリゼを見つめた。
幻は静かに彼を見る。
父も母もリゼも、自分を責めるために、その顔を借り続けた。
彼らの生きていた頃の優しさも、不器用さも、怒りも、笑顔も脇へ追いやり、自分を処刑するための存在へ作り変えていた。
『俺は、あいつらを……俺を罰するためだけの人間にしてた』
言葉にすると、胸がひどく痛んだ。
自分が殺した上に、残された記憶の中でさえ彼らを自分のために利用していた。
『死んだ後まで……勝手に俺の罪のために使っていた』
だからといって、罪が増えたとか減ったとかいう話ではない。
ただ、もうそれを続けたくなかった。自分が自分を赦せないのなら、それは自分自身の問題として抱えるべきだった。
死者の顔を借りずに。彼らを、自分の罰を言い渡すためだけの存在へ変えずに。
リゼの姿をしたものは、それ以上何も言わなかった。
赦しもない。大丈夫だという言葉もない。ただ、先ほどと同じようにラズへ一度だけ目を向けたあと、輪郭を淡く揺らした。
『……リゼ』
シオンが名前を呼ぶ。返事はなかった。
光は急速に薄れ、リゼの姿は赤黒い海へ溶けるように消えていった。
残ったものが本当にリゼの意思だったのか、魂の欠片に記憶がどこまで残っていたのか、シオンには分からない。
分からないままでいい。今度こそ、勝手に決めない。
あの一言だけは、自分が作ってきた幻とは違った。それだけで十分だった。
シオンは現実へ意識を向けた。
自分の手がラズの首を締めている。顔から血の気は失われ、瞳から涙が零れ、それでも彼女は自分の腕へしがみついたまま離れようとしていない。
世界を救おうとは思えなかった。罪を背負って生きる覚悟が生まれたわけでもない。今も、自分自身を赦せない。生きたいのかと問われても、答えることはできない。
それでも一つだけ。
自分の身体でラズを殺すことは、受け入れられなかった。
彼女はリゼではない。リゼの代わりでもない。ラズとして自分の隣に立ち続けた一人の人間だった。
そのラズを、自分の手でもう一度失う。それだけは嫌だった。




