揺らぎ
赤黒い海が、視界の果てまで広がっていた。
空も地面もなく、粘ついた血のようなものが重く波打っている。その表面には人とも魔物とも判別できない肉片めいた影が浮かび、遠くからは骨の砕ける音や何かが引き裂かれる音、途切れた悲鳴が絶え間なく響いていた。
先ほど触れたときには、その場所に満ちる破壊と捕食の愉悦だけで精神を引き裂かれかけたが、今度はケイオス自身によって、その中心まで強引に引きずり込まれている。
ラズは、足元へ絡みつく赤黒い液体を振り払いながら周囲を見渡し、やがて血の海へ半ば沈むように横たわっている人影を見つけた。
「シオン……!」
思わず駆け寄ろうとした足が止まった。
そこにいたのは確かにシオンだった。銀白の長い髪は赤黒い液体に濡れ、身体の輪郭はところどころ崩れ、半ば閉じられた左右色違いの瞳にはほとんど光が残っていない。現実では人の肉を喰らい、ケイオスの力を受け止めるために肉体そのものが異様なほど肥大していたはずなのに、この精神世界で横たわる彼は、それよりも遥かに小さく見えた。
だが、彼は助けを呼ぶ気配も、起き上がろうとする意思もない。肉体を奪われていることへの焦りさえ見えず、自分という存在がこの赤黒い海の中へ溶けて消えていくことを、そのまま受け入れているようだった。
その傍らで闇が蠢き、人に似た輪郭を作った。闇はやがて鮮明な姿となり、現実世界におけるシオンの身体を使っているケイオスの姿となった。闇に浮ぶ赤い月のような瞳が、血の海の向こうからラズを見据えている。
「見ろ。此奴は俺に負けたわけではない。俺が力ずくで奪ったわけでもない。最後にすべてを手放したのは、此奴自身だ」
ラズは否定しようとして、言葉を失った。
デウスを殺した後、シオンは確かに抗わなかった。身体が崩れ、自我が沈み、ケイオスが肉体を奪おうとしていることさえ理解しながら、それでも戻ろうとはしなかった。長い復讐を終え、自分自身も死ぬという、最初から決めていた結末を受け入れ、その先で何が起こるのかを考えることまで放棄した。
「貴様が救いたがっている男は、救われることを望んでいない」
ケイオスの声音はどこか甘さを帯びている。だからこそ、その言葉は残酷なほどラズの胸へ食い込んだ。
「本人が終わりたがっているというのに、貴様は自分の都合で引き戻すつもりか。此奴の意思を無視するなど、随分と酷なことをするではないか。なあ?」
「……違う」
反射的に答えたものの、声には僅かな迷いが滲んだ。
ラズは何度も、シオンの意思を尊重しなかったデウスを酷いと思った。シオンの身体も心も、誰かが勝手に利用していいものではないと思った。それならば、死ぬことを自分の意思で選んだシオンを、今度は自分の願いで無理やり生へ引き戻そうとしていることに、どれほどの違いがあるのか。
もちろん、ラズはシオンに死んでほしくない。それでも、その願いはラズ自身のものだ。シオンは望んでいない。
その事実が、一瞬だけラズの足を止めた。
ケイオスは、その僅かな迷いさえ見逃さなかった。
「ならば、試してみるか」
「え……?」
赤黒い海が大きく波打った直後、ラズの意識は精神世界から強引に引き剥がされた。
現実へ戻った瞬間、目の前に巨大な影があった。
「——っ!」
異様なまでに膨れ上がったシオンの腕が伸び、その手がラズの首を掴む。人間だった頃の骨格を明らかに越えるほど太くなった腕には赤黒い紋様が脈打ち、手のひらも以前より遥かに大きくなっていた。
逃げる暇もなく、ラズの身体は片腕だけで宙へ持ち上げられた。指が喉へ深く食い込み、一瞬で呼吸が塞がれる。
「っ……ぐ……!」
ラズは反射的に両手でその腕を掴んだ。
形は変わっている。それでも、触れれば分かった。傷ついた皮膚の感触も、拳を振るい続けて硬くなった手のひらも、その奥に僅かに残る体温も、元を辿ればシオンのものだった。
なのに今、その手は自分を殺そうとしている。
「ほら。また貴様は守れない」
シオンの喉を使って、ケイオスが愉快そうに言った。
指へ力が込められ、首の骨が軋んだ。
ラズは自分の首元へ神力を集中させ、治癒術と防護膜を同時に展開した。圧力を少しでも分散し、潰されかけた気道を守ろうとするが、ケイオスの力はそのすべてを上から押し潰していく。力の差が大きすぎる。
それでも、ラズは諦めなかった。
ケイオスそのものへ触れれば、自分の精神の方が壊される。ならば、そのさらに奥へ手を伸ばせばいい。今自分の首を締めている身体の内側で、何もせず血の海へ沈んでいる一人へ。
「シ……オン……」
潰れかけた喉から、どうにか名前を押し出した。
精神の奥で、血の海へ沈んでいたシオンの瞼が僅かに動いた。
ラズには、それが分かった。
「戻って……きて……」
長い沈黙のあと、弱い意識が返ってくる。
『……戻って、どうする』
ひどく静かな声だった。
怒りも憎しみもなく、それらをすべて使い切った後の、灰のような響きだけが残っている。
『デウスは殺した。俺がやることは、もう終わった』
「終わって……ない」
『終わった』
シオンは血の海へ沈んだまま、起き上がろうとしなかった。
『俺は死ぬために最後の力を使った。それで終わるはずだった』
「でも……ケイオスが……」
『分かっている』
その返事に、ラズの胸が痛んだ。
知らなかったのではない。身体をケイオスに奪われる可能性を理解しながら、それでもシオンは意識を手放した。
『俺が死んだ後、こいつが何をするかまで考えるつもりはなかった。俺はもう終わったんだ』
自分は死んだ。だから、その後に起こることへ口を出す資格も責任もない。
シオンは本気でそう思って、自分自身を世界から切り離している。
「この星が……壊れても?」
『……俺が言えたことじゃない』
「たくさんの人が……死んでも?」
少し間があった。
『俺は人を喰った。信仰されていたデウスを苦しませて殺して、星まで壊した。今さら俺が誰かを守る側に戻れると思うか』
以前のシオンなら、「どうでもいい」と吐き捨てていただろう。けれど、今は違う。
世界を本当に何の価値もないものとして切り捨てているのではない。自分自身を、もうそこへ関わってはいけない存在だと決めつけている。
ラズは、その違いを感じ取った。
ケイオスの指がさらに喉へ食い込む。視界の端が暗くなり、首元へ集めていた神力も維持できなくなり始め、瞳には涙が滲む。
それでも、ラズは問いかけた。
「じゃあ……わたしが死んでも……同じなの?」
血の海の中で、シオンの指が僅かに動いた。
ラズは続ける。
「あなたの身体に……わたしが殺されても?」
シオンの瞳が、ゆっくりと開いた。その視界へ、現実の光景が流れ込んでくる。
自分の身体。異様に肥大し、赤黒い紋様に覆われた腕。その手がラズの細い首を掴んでいる。桃色の髪は乱れ、顔は苦痛に歪み、その中で青い星の髪飾りだけが小さく揺れていた。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
『……』
「本当に……それも、どうでもいいの?」
答えが出ない。
星が壊れていくことに、自分は今さら口を出せないと思えた。自分の一撃に巻き込まれて誰かが死ぬことさえ、自分も同じ場所で終わることで責任を取るしかないと思っていた。
けれど、ラズが自分の手で殺される。
その光景だけは、ほかのすべてと同じ場所へ押し込むことができなかった。
ラズはリゼではない。
そのことを、シオン自身が認めた。リゼの代わりでも、偽物でも、デウスが作った楔というだけの存在でもない。今ここにいる一人の人間として、ラズだと呼んだ。
ケイオスに精神世界で囚われていた彼女へ、自分の意思で手を伸ばした。デウスに楔として利用されたときには鎖を壊し、道具にするなと怒った。主神殿へ入る前には、巻き込まれて死ぬ必要などないと、何度も引き返すよう告げた。
今さら、そのすべてをなかったことにはできない。
「あなたは……わたしを、ラズだって言ってくれた」
ラズは途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら言った。
「リゼさんじゃないって……リゼさんの偽物でもないって。今ここにいるのは、ラズだって……」
シオンの瞳が揺れる。
「わたしが道具として使われたときも怒ってくれた。ケイオスに囚われたときも助けてくれた。それなのに……最後だけ、勝手に全部終わったことにしないでよ……」
シオンの表情が、ほんの僅かに歪んだ。
「世界のためじゃなくていい。星のためじゃなくてもいいし、自分を赦せなくてもいい。今すぐ生きたいって思えなくてもいい」
ラズは首を締める大きな手へ、自分の指を重ねた。
「でも……あなたの身体で、わたしを殺すことまで、本当に許せるの?」
その瞬間、血の海が大きく揺れた。
シオンの目が完全に開く。
『……許せる、わけ』
掠れた声が漏れる。
『ないだろ』
現実で、ラズの首を掴んでいる指がほんの僅かに緩んだ。
微かな隙間から空気が入り、ラズは激しく咳き込む。それでも、視線だけは目の前の赤と黒の瞳から逸らさなかった。
ケイオスの表情から、初めて愉悦が消えた。
「……煩わしい」
低い声が響く。
首を掴む指に再び力が入りかけるが、その動きは先ほどより僅かに鈍かった。
「まだ残っているのか、死に損ないが」
精神世界では、赤黒い海が荒れ始めていた。
ラズの言葉で沈んでいたシオンの意識がほんの少しだけ浮かび上がり、それまでケイオスに明け渡されていた領域へ、シオン自身の意思が再び細い亀裂のように入り込んでいる。
ケイオスの赤い眼が、不快そうに細められた。
「ならば、もう一度沈めてやろう」
血の海がシオンの身体へまとわりつく。
「貴様が、自分から死ぬことを選び直すようにな」
シオンは起き上がろうとしたが、身体へ力が入らない。辛うじて血の海へ片肘をついたところで、赤黒い波が肩まで押し寄せ、再び深く沈めようとする。
そのとき、ケイオスがシオンへ向けていた意識の奥で、何かを探るように闇が蠢いた。
記憶。惨劇よりもさらに前、十四歳になるより遥か以前から積み重ねてきたもの。故郷。白い花。穏やかな声。長い間、自分の隣にいた少女。
ケイオスは、それらをシオンの中から引きずり出した。
赤黒い海の上に、白い花が一輪だけ現れる。
続いて輪郭が生まれた。少女の足。細い身体。長い桃色の髪。見慣れた顔。——リゼ。
シオンの呼吸が止まった。
ラズも、精神の奥でその姿を見て息を呑む。
だが、シオンにはもう分かっていた。
これは本物ではない。死者が戻ってきたのでもない。ケイオスが自分の記憶から引きずり出し、形にしたものだ。そして、その口からこれから出てくる言葉も、シオンが何年も自分自身へ向け続けてきたものと同じなのだろう。
それでも、姿を見ただけで、胸が痛んだ。
理解と感情は別だった。
偽物だと分かっていても、リゼの顔をしているだけで、自分の拳が彼女を消し去ったあの日の感覚が蘇る。
血の海に立つリゼの幻は、静かにシオンを見下ろした。
『復讐は終わったね』
声まで、記憶の中のリゼと同じだった。
シオンは目を逸らさない。
『デウスは死んだ』
幻は責めるような冷たい瞳で、血の海へ沈むシオンを見つめている。
『じゃあ、もういいでしょう? 後はあなたが死ぬだけ』
ラズの胸が締めつけられる。
けれど、シオンは以前のように、その言葉をリゼ本人の願いとして受け取ることはなかった。
『……分かってる』
掠れた声が返る。
『お前はリゼじゃない。俺が自分を責めるために作ってたものと、同じだ』
第二の門で突きつけられ、デウスを痛めつける中でようやく受け入れたことだった。
父が何を思って死んだのかは分からない。母も、リゼも、誰一人として最後の言葉を残せなかった。だから、彼らが自分を憎み、復讐を望み、自分にも死ねと言っていると決めつけることは、もうしない。
それでも、幻の声は消えなかった。
『偽物だから、何?』
リゼの顔をしたものが静かに問いかける。
『本物のわたしが言ってないなら、あなたがやったことは消えるの?』
シオンの呼吸が止まる。
罪も、何も消えない。当然だった。
『お父さんやお母さんがあなたに死ねって言ってなかったら、あなたは赦されるの?』
違う。そんなことはない。
シオン自身が一番よく分かっている。
『村のみんなが、あなたを恨んでいなかったかもしれないなら、あなたが殺したこともなかったことになる?』
『……ならない』
シオンの声が震えた。
『なるわけないだろ』
幻が微笑む。ひどく冷たい笑顔だった。
『だったら、何も変わらないね』
その一言が、シオンの胸へ深く刺さった。
死者の願いが分からないと認めても、幻が自分自身の声だと理解しても、罪は何一つ消えない。
寧ろ、もう死者に言われたからではなく、自分自身が自分を赦さないとはっきり分かってしまった。
『復讐は終わった。あなた自身も、それで終わりにするつもりだったんでしょう?』
シオンは、否定する言葉を持ち合わせていなかった。
幻の視線が、僅かにラズの方へ向く。
『それなのに、今さら戻るの?』
シオンの身体が強張った。
『あなただけ生きるの?』
その声を聞きながら、シオンは血の海へ再び沈みかけた。
ラズの呼びかけによって浮かび上がった意識を、ケイオスが作り出したリゼの幻が、自分自身の罪悪感を使ってもう一度深い場所へ引き戻そうとしている。
幻が偽物であることは分かっている。言葉の出所も理解している。それでもその言葉が痛いのは、全部自分自身が今もそう思っているからだった。
現実では、ケイオスの指が再びラズの首へ深く食い込み始めていた。
ラズは苦しげに息を漏らしながら、それでもシオンの意識から手を離さなかった。
「……シオン……」
血の海の中で、シオンの瞳が揺れる。
「その声が誰のものか……あなたは、もう分かってるでしょう……」
『……分かっている』
「だったら……」
ラズは、そこから先の言葉を飲み込んだ。
分かっているだけでは足りない。シオンは既に理解している。それでも、自分を死なせたいという思いだけがまだ強すぎるのだ。
血の海に立つリゼの幻が、シオンへ向けて静かに手を伸ばした。
『ほら』
シオンは、その手を見る。
『もう終わりにしよう』
その言葉に、シオンの意識が再び深く沈み始めた。




