災厄の目覚め
赤と黒に反転した瞳が、ゆっくりとラズへ向けられた。
それは間違いなくシオンの顔だった。崩壊する世界の風に靡く銀白の長い髪も、幾度となく傷つき、今では赤黒い紋様に覆われた身体も、ラズの方へ伸びかけた指先も、すべて彼のものだった。
ただし、人の肉を喰ってから際限なく膨れ続けた筋肉は、もはや以前のシオンを知る者でなければ同一人物だと信じられないほど異様な輪郭を作っていた。肩と背中は岩塊のように隆起し、腕は黒衣の残骸を押し退けるほど太く、全身を這う赤黒い紋様がその巨大な肉体の上で生き物のように脈打っている。
それでも、顔立ちだけを見ればシオンだった。
だからこそ、ラズは恐ろしかった。
その身体のどこを見ても彼の痕跡が残っているのに、赤い虹彩と漆黒へ染まった結膜の奥には、ラズが知るシオンの苦しみも、怒りも、迷いも何一つ見つけることができなかった。
「シオ、ン……?」
震える声で名前を呼ぶと、伸びかけていた大きな手が僅かに止まった。
ラズは息を詰めた。
だが、その一瞬の意味を確かめるより早く、シオンの喉から低い声が漏れた。
「シオン、か」
声そのものはシオンと同じだった。けれど、響きが違う。
普段の彼に染みついていた疲労も、他人を遠ざけようとする刺々しさもなく、代わりに奇妙なほどゆったりとした響きがあった。周囲は血と瓦礫に覆われ、今も星全体が壊れ続けているというのに、穏やかな庭でも眺めているような声音だった。
「その名で呼ぶには、もう遅いな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ冷たいものを押し込まれたような感覚がした。
ケイオスはラズから視線を外し、周囲をゆっくりと見渡した。
そこには、デウスとの戦いが始まる前にあった景色など何一つ残っていなかった。神域と重なっていた主神殿は跡形もなく崩れ、かつて神へ最も近い場所として崇められていた山頂も、ほとんどが抉り取られている。岩盤を断ち割った巨大な裂け目の底では、傷ついた星脈が剥き出しになり、白い神力とケイオスの赤黒い力が混ざり合った異様な光を噴き上げていた。
空もまた、以前の空ではなかった。星を覆っていた白い帯は跡形もなく消滅し、その代わりと言わんばかりに伸びた赤黒い亀裂が、天そのものを割るように遠くまで広がっている。地平の彼方では山々が崩れ、さらに遠くからは大地の鳴動と重なるような低い海鳴りが響いていた。
デウスは死に、星核は今にも砕けそうなほど深く傷ついている。その影響は、星脈を伝って世界の隅々まで及び、星全体が自分の形を維持できなくなったように軋んでいた。
その光景を前にして、ケイオスは満足気に笑った。
「良い景色になったではないか」
ラズの背筋に悪寒が走った。
ケイオスは自分のものになった巨大な腕を持ち上げ、指の動作を確かめるように一度だけ開閉した。シオンがデウスを殺すために血まみれになるまで握り続けた拳であり、父や母やリゼを奪った神へ届かせるためだけに強くなった身体だった。それを今は、別のものが当たり前のように動かしている。
「さて。どれから壊すか、どれから喰らうか……待ち遠しいな」
赤い瞳が遠くの地平へ向く。
「一度に纏めて消してしまうのも悪くないが、それでは少々味気ない。せっかく外へ出られたのだ。壊れていく様を見ながら、一つずつ楽しむ方が良いか」
その声音には怒りなどなかった。ラズは、そのことに気づいてしまった。
デウスも残酷だった。星を守るという目的のためなら、人間を材料として扱い、シオンから家族も恋人も故郷も奪い、ラズ自身さえ楔という道具として作った。どれほど罪深い行為であっても、星全体を守るために必要ならば繰り返すとまで言った。
けれど、少なくともデウスには守ろうとするものがあった。赦されるわけではない。ただ、その残酷さの向こうには、彼なりの目的が存在していた。
目の前にいるものには、それがない。
何かを守るためでも、奪われたものを取り返すためでもない。シオンのように誰かを憎み、復讐を遂げるために拳を振るうのでもない。ただ、壊すことそのものを楽しんでいる。
その違いが、ラズには何より恐ろしかった。
崩壊は今も星中へ広がっていた。寧ろ、ケイオスという異物が顕現したことにより、さらに混乱を極めている。
遠くの都市では地面の揺れが収まらず、建物の壁へ走った亀裂が広がるたび、人々は家族の手を引いて街路へ逃げ出している。各地の神殿では誰も触れていない鐘が鳴り続け、デウスの名を呼びながら祈る者もいたが、その声が届く相手は既に存在しない。
魔導具は狂った。灯りの魔導具は突如として爆発し、水を汲む魔導具は水を泥のように汚染し、治癒の魔導具は使用者の生命力を吸い取った。
山や森では、人間より早く異変を察した獣たちが巣を捨てて逃げていた。普段なら人間を襲う魔物さえ、縄張りを争うことも忘れ、崩れる斜面を駆け下りていく。何から逃げているのか理解しているわけではない。ただ、星全体へ広がったケイオスという異様な気配から少しでも遠ざかろうと、本能だけに従って走っていた。
聖地に近い場所で辛うじて生き延びた者たちも、ケイオスの気配を浴びてまともに立ってはいられなかった。揺れる大地と崩れた空を前に泣き叫び、何が起こったのかも分からないまま互いを傷つけ合う者もいれば、ただ呆然と座り込んで空を見上げながらうわ言を漏らす者もいる。
デウスとは比較にならないほどの、圧倒的な存在感。それを浴びた者には、肌を刺すような圧迫感が遅い、人間も魔物も、この場所にいてはいけないと本能的に悟っていた。存在するだけで星が壊れていく。
星は既に滅びへ向かっていた。その中心で、ケイオスはシオンの身体を使って立っている。
ラズは一歩退きかけ、どうにか足を止めた。
怖かった。デウスと対峙したときにも恐怖はあった。ロイエを惨殺したシオンを見たときにも、ケイオスの精神世界へ引き込まれたときにも怖いと思った。
けれど、今感じているものは、それらとはまるで違った。
目の前にいる存在はデウスさえ殺した力をそのまま手に入れ、ただ立っているだけで周囲の星脈を侵している。ラズが真正面から戦ってどうにかできる相手ではないことくらい、考えるまでもなかった。それでも逃げることだけはできなかった。
「……シオン」
もう一度、名前を呼ぶ。今度は返事がなかった。ケイオスがただ、愉快そうにこちらを見るだけだった。
ラズは震える手を胸元へ当て、乱れた呼吸を整えようとした。
あの身体はシオンのものだ。ケイオス自身も、先ほど「器」と呼んだ。それだけなら、希望と呼ぶにはあまりにも弱い。それでもラズは、最初に名前を呼んだ瞬間、こちらへ伸びていた指がほんの僅かに止まったことを忘れられなかった。
気のせいかもしれない。ただ、ケイオスの気まぐれかもしれない。
けれど、もしほんの僅かでもシオンが残っているのなら。それを確かめる前に諦めることだけはできない。
ラズは目を閉じ、自分の内側に残された神力へ意識を集中させた。
これまでにも何度か、シオンの精神へ触れたことがある。アルミナでは、血に濡れた過去を見た。楔としての正体を知った後は、ケイオスに囚われた自分を助けに来たシオンと、精神世界の中で言葉を交わした。
どれほど暗くても、血に濡れた世界でも、そこにはいつもシオンがいた。死者の幻に責められ、自分自身を憎み、死を望みながらも、それでも完全にケイオスへ明け渡されてはいなかった。
ラズは、その場所へもう一度手を伸ばした。目の前にいる災厄を押さえ込むためではない。シオンを探すために。
意識が現実から離れ、ケイオスに奪われた肉体の内側へ触れようとした瞬間、ラズは異変に気づいた。
——以前とは違う。
弾かれたわけではなかった。入口そのものが、なくなっていた。
「……え」
触れた先へあったのは、ラズの知る精神世界ではなかった。
かつて遠くに故郷の村の影があり、霧の向こうへ花の丘が見えた場所。血に濡れながらも、確かにシオン自身の記憶と心によって形作られていた世界。それらが見当たらない。
視界の果てまで広がっていたのは、暗く濁った赤黒い海だった。水なのか血なのかすら分からない液体が重く波打ち、その表面には、人間のものとも魔物のものとも判別できない肉片のような影が浮かんでいる。どこからともなく骨の砕ける音と、何かが引き裂かれる音、途切れ途切れの悲鳴が響き、そのすべてが遠ざかるどころか、耳を塞いでも頭蓋の内側へ直接流れ込んできた。
ここはもう、シオンの心を形にした場所ではない。ケイオスの領域へ、塗り替えられている。
「シオン……?」
ラズが呼んだ、その瞬間だった。
向こうへ触れようとしていたはずのラズの意識へ、逆に何かが流れ込んできた。
「うあああああっ!?」
叫び声が漏れる。
怒りではなかった。シオンから幾度となく感じてきた憎悪とも違う。大切な誰かを奪われた痛みも、自分自身を責め続ける苦しみもない。流れ込んできたのは、ただ一つの感覚だった。
——愉しい。
骨が砕ける感触が愉しい。肉が裂ける音が愉しい。悲鳴が空気を震わせる瞬間が心地良く、命が終わる直前に浮かぶ恐怖も、逃げられないと悟った絶望も、そのすべてをもっと見たいと思う。
喰らう。壊す。また喰らう。
それによって何かを得たいわけではない。ただ、その行為そのものが心地良い。
その感覚が、自分のものではないのに、ラズ自身の心まで染めようとする勢いで流れ込んでくる。
「いや……っ!」
吐き気が込み上げた。それと同時に、ラズは初めてケイオスという存在を感覚として理解した。
あれは怒っているのではない。恨んでいるのでもない。デウスを殺したかったわけでも、この星へ復讐したかったわけでもない。
壊せるものがあるから壊す。喰らえるものがあるから喰らう。そして、それを愉しいと感じている。そこには善悪も、後悔も、罪悪感も、そんなものを挟む余地さえない。
ラズは耐えきれず、精神世界から自分の意識を引き剥がした。
「かはっ……!」
現実へ戻った瞬間、膝が崩れた。口から血が落ちる。頭の奥へ熱した杭を打ち込まれたような激痛が走り、視界の端が赤黒く滲む。自分の心の一部まで、さきほど触れたものに焼かれたような不快感が残っていた。
荒い息を吐きながら顔を上げると、ケイオスがこちらを見下ろしている。
「人間の形をした道具が、俺に触れるつもりか」
その言い方に、ラズは唇を噛んだ。
ケイオスは肩を僅かに揺らし、愉快そうに笑う。
「やれやれ。デウスも面白いものを作ったものだ。こんなもので俺まで御せると思っていたのなら、随分と滑稽な話だな」
その言葉は、侮蔑ですらなかった。道端に転がっている奇妙なものを見つけた子供のような、単純な面白がり方だった。
ラズは口元の血を手の甲で拭い、震える脚へ力を入れた。
ケイオスそのものへ触れてはいけない。それは今の一度だけで分かった。押さえ込むことも、精神をねじ伏せることもできない。デウスの神力を持っていても、楔として作られていても、真正面からこの存在へ干渉すれば、自分の方が先に壊される。
それでも、ラズは立ち上がった。
先ほど精神へ触れた瞬間の光景を思い返す。世界はほとんどケイオスに塗り潰されていた。シオンの村も、花の丘も、彼自身の記憶が形を取っていた場所も見つからなかった。
けれど、あれが「何も残っていない」ことの証明になるのか。ラズには、そう思い切ることができなかった。
目の前にある身体は、今なおシオンのものだった。異形と呼べるほど膨れ上がり、赤黒い紋様に覆われ、瞳まで人ならざるものへ変わっていても、この肉体で生きた十八年間までケイオスのものになったわけではない。
何より、ケイオス自身がこの身体を「器」と呼んだ。器なら、その奥まで完全に同じものになったとは限らない。
ラズは先ほど自分を襲った恐怖を押し込めながら、ケイオスの顔を見た。
最初にシオンの名を呼んだとき、伸びていた指が一瞬だけ止まった。あれが偶然なのか、それとももっと深い場所でまだ何かが聞いているのか。
確かめたい。今ならまだ、間に合うかもしれない。
そう思えたのは、希望を示す確かな証拠があったからではなかった。むしろ目に見えるもののほとんどは絶望的だった。
それでも、ケイオスは目覚めたばかりで、奪った身体にも変化が続いている。全身を這う赤黒い紋様は今も脈打ち、異常に肥大した筋肉の奥では、ときおり肉が軋むような音がする。完成しきった何かというより、シオンの身体を自分のものへ馴染ませようとしている途中のようにラズには見えた。
ならば、完全に奪われる前に、ケイオスではなくもっと奥へシオンだけを探す。
ラズは自分の胸へ手を当てた。
この力がデウスに与えられたものであることを、もう否定するつもりはない。楔としてシオンへ干渉するために作られたことも変えられない。
けれど、何のために使うかは自分で決める。
デウスの代わりにシオンを支配するためではない。ケイオスを封じ込め、自分の思い通りにするためでもない。ただ、あの奥へ沈んでいるかもしれない一人へ手を伸ばすために。
「……シオン」
ラズは小さく呼んだ。
ケイオスの赤と黒の瞳が細められる。
その表情を見ても、ラズは目を逸らさなかった。
狙うべき相手を間違えていた。ケイオスそのものに触れる必要はない。この災厄を力で押さえつけることなどできない。探すべきなのは、その下にいるシオンだ。
ラズは再び手を伸ばした。
今度は広く精神世界全体へ干渉するのではなく、ケイオスに塗り潰された場所のさらに奥へ、シオンの記憶や感情が僅かでも残っている場所だけを探すように意識を細く絞っていく。
しかし、神力が指先へ集まり始めた瞬間。
「なるほど」
ケイオスが口を開いた。
ラズの身体が強張る。
異形へ変わった巨体が、ゆっくりと歩き出す。
一歩踏み込むたびに岩盤が軋み、赤黒い紋様が全身で脈打つ。銀白の長い髪だけが、以前のシオンと変わらないように風の中で揺れていた。
「俺ではなく、器の残り滓を探すつもりか」
「……っ」
見抜かれている。
ケイオスはラズのすぐ前まで来ると、怯える様子を観察するように顔を覗き込んだ。
「良いだろう」
「え……?」
その笑みが、さらに深くなる。
「そこまで見たいのなら、見せてやる」
次の瞬間。今度はラズが手を伸ばすより先に、ケイオスの側から意識が触れてきた。
「な——」
逃げる暇はなかった。
現実の景色が一瞬で遠ざかり、裂けた空も、崩れ続ける山も、目の前にあったシオンの顔さえ闇へ呑まれていく。
先ほどのように弾き出されたのではない。寧ろ逆だった。ケイオスが自ら扉を開き、その奥へラズを引きずり込んでいる。
意識が落ちていく直前、ラズが最後に見たのは、シオンの顔で浮かべられた、シオンなら決して見せない愉悦に満ちた笑みだった。




