星葬
シオンの拳へ集まり続ける赤黒い力は、既にデウスを殺すために必要な出力を遥かに越えていた。
星核の損傷によって神力の供給が衰え、まともな再生すらできなくなった今のデウスなら、神核へ一撃を届かせれば終わる。
それでもシオンは力を絞ろうとはせず、怒りと憎悪を燃料に際限なく肥大するケイオスの力を、壊れかけた肉体へ流し込み続けていた。
人の肉を喰らって以降、シオンの身体はその膨大な力へ耐えるために絶えず変わり続けている。
もともと人間離れして発達していた筋肉は、戦闘と共にさらに肥大し、今では肩から背中、胸、腕にかけて異様なほど隆起していた。裂けた黒衣の下では赤黒い亀裂が全身を這い、筋肉が膨れ上がるたびに皮膚が裂けて血が滲むものの、傷はすぐに塞がり、さらに大きく強固な肉体へ作り変えられていく。
人間の姿を辛うじて残してはいるが、その輪郭は既に怪物と呼んだ方が近いほど歪んでいた。
「シオン……」
ラズは、その姿を見つめながら息を詰めた。
拳へ力が集まるたびに空気そのものが震え、足元の岩盤には新たな亀裂が生まれていく。山頂を覆っていた雲は圧力に押し退けられ、その上では星を包んでいた白い帯が不規則に明滅していた。
地へ片膝をついたデウスも、その異常な出力を察していた。片方の翼は根元から大きく欠け、胸や肩にはシオンの拳によって穿たれた傷が残ったままになっている。傷口から漏れる白い神力も弱々しく、神核から星核へ続いていた力の流れは、先ほどまでとは比べものにならないほど細くなっていた。
「シオン……貴様、それでは……この星ごと……」
「黙れ」
シオンは静かに言葉を遮った。その声は怒鳴り声ではなく、なお濃い殺意が沈んでおり、デウスが続きを口にする余地を与えなかった。
「お前に口を開かせるかどうかは……俺が決める」
シオンは拳をさらに高く振り上げた。
それに呼応するように腕の筋肉がもう一段階膨れ上がり、肩から手首へかけて皮膚が大きく裂けた。血が噴き出し、露出した骨へ赤黒い力が纏わりつくが、肉体は壊れたそばから形を取り戻し、拳を振り下ろすためだけに異常な強度へ作り替えられていく。
「ぐ……ぁああああああッ!」
シオンの喉から、雄叫びとも悲鳴ともつかない声が迸った。
ラズは、その拳を見た瞬間に理解した。あれは、デウスだけを殺すための力ではない。既に傷ついている星脈も、大地も、星核も、そしてシオン自身すら巻き込んで壊しかねない。それほどの力を、シオンは自分の身体へ押し込み続けている。
「シオン!」
ラズは考えるより先に走り出した。
足元では大地が絶えず揺れ、山肌を走る亀裂から赤黒い力が噴き上がっている。身体の周囲へ神力の膜を張っても、シオンへ近づくほど表面へ無数のひびが走り、何度作り直してもすぐに破れた。それでもラズは足を止めず、皮膚を切り裂く力の余波に耐えながら距離を詰めていく。
「待って! それを放ったら、デウスだけじゃ済まない!」
シオンは振り返らない。
「あなたも死ぬ! この星だって、どうなるか分からない!」
返事はなかったが、その肩がほんの僅かに揺れた。
「お願いだから、こっちを見て!」
血で赤く染まったシオンの視界の端に桃色の髪が映り、その中で小さな青い星が揺れているのが見えた。胸の奥が僅かに痛んだ気がした。
ここへ入る前、シオンはラズに引き返せと言った。自分とデウスの戦いに巻き込まれれば、ラズまで死ぬかもしれないと分かっていたからだ。自分がどうなろうと構わないが、ラズには生きていてほしい。その気持ちは、今も消えていない。
それでも、その思いと自分が生きることは、シオンの中では繋がらなかった。
人を喰った。自分の意思で命を奪い、その肉を復讐のための力に変えた。デウスを苦しませることも、自分自身が望んで選んだ。そればかりか、今は星そのものまで壊しかねない力を振るおうとしている。そんな自分を、尚も生かしておく理由などない。
デウスを殺し、その力で自分も終わる。それが、シオンが最初から定めていた復讐の終着点だった。
「シオン!」
ラズはついに手を伸ばせる距離まで近づき、赤黒い力に腕を裂かれながらも、擦り切れた外套へ指を伸ばした。
「生きてよ!」
その言葉に、シオンの赤い瞳が一瞬だけ揺れた。
しかし、拳は振り下ろされた。
衝突の瞬間、世界から音が消えたように感じられた。風も、大地の鳴動も、ラズの叫びも遠ざかり、ただ巨大に膨れ上がったシオンの腕が振り下ろされ、その拳がデウスの胸を貫き、肉体の奥にある白い神核へ到達していく光景だけが異様なほど鮮明に見えた。
赤黒い力が神核へ食い込んだ次の瞬間、遅れて凄まじい衝撃が世界へ戻ってきた。
大地が大きく沈み込み、山頂を形作っていた岩盤が一斉に砕ける。デウスの身体には胸から無数の赤黒い亀裂が走り、腕も翼も白い神力の粒子へ変わって崩れ始めた。
それでも神核は最後まで強い光を放ち、破壊へ抗っていた。
シオンは拳をさらに押し込んだ。
「終われ!」
赤黒い亀裂が神核の中心を走り、次の瞬間、それまで星核と繋がり続けていた神核が粉々に砕け散った。
消滅する間際まで、デウスの黒い瞳はシオンを見ていた。そこに浮かんでいたものが恐怖だったのか、自らが作り上げた存在に殺されるという皮肉への理解だったのか、それとも星を守るための選択が、結果として星そのものを滅ぼしかける存在を生んだことへの気づきだったのか、シオンには分からない。
デウスの唇が僅かに動いたが、その声が発せられることはなかった。シオンが望んだ通り、神は最後の言葉すら残せないまま、白い光の中へ消えていった。
復讐は終わった。しかし、拳から放たれた破壊だけは止まらなかった。
神核を貫いた赤黒い力は、デウスと星核を繋いでいた神力の経路へそのまま食い込み、星脈を逆流するように地底深くへ突き進んでいく。白い光で満たされていた星脈が次々と赤黒く濁り、各地へ走っていた流れを巻き込みながら、破壊は一気に星の中心へ到達した。
赤黒い力が星核に激突した瞬間、その巨大な核全体へ無数の亀裂が走った。表面だけではない。中心近くまで深く割れ、幾つもの破片へ分かれかけた星核は、辛うじて一つの形を保っているにすぎないほど損傷していた。内部から生み出されていた神力の循環は完全に乱れ、砕けかけた核の隙間から膨大な光と赤黒い力が漏れ出し、周囲の星脈へ濁流となって逆流していく。
その異変は、ほとんど間を置かず地上へ現れた。
空を横切っていた白い帯が激しく明滅したかと思うと、突如として消滅する。そして、その代わりのように赤黒い亀裂が空全体へ広がった。農地でも、街道でも、都市でも、人々は何が起きているのか理解できないまま、生まれたときからそこにあった加護の光が崩れていく様子を見上げていた。
やがて、大地が激しく揺れ始めた。
山岳地帯では岩盤が深部から砕け、幾つもの峰が轟音とともに崩れ落ちる。谷へ流れ込んだ土砂は森を根こそぎ呑み込み、街では石造りの建物へ次々と亀裂が走り、塔や橋が崩れ、人々が悲鳴を上げながら揺れる街路を逃げ惑った。
海でも、海底を走る星脈の損傷に引きずられるように地殻がずれ、沖合の水面が異様な高さまで盛り上がっていた。やがて巨大な波となった海水が沿岸へ押し寄せ、港の船を持ち上げ、防波堤や家々をまとめて呑み込んでいく。
各地の神殿では、誰も触れていない鐘が一斉に鳴り始めた。人々は家族を抱き、崩れかけた神殿で祈り、今までと同じようにデウスへ救いを求めたが、その声を聞いていた神はもういない。
空には赤黒い裂け目がさらに増え、雲は異常な速度で渦を巻き、遠くの山々では雷とも神力ともつかない光が地表へ落ちていた。星そのものが内側から壊れ、これまで一つに繋がっていた大地も海も空も、それぞれが別々の方向へ崩れ始めているようだった。
衝撃のあまり吹き飛ばされたラズは、激しい揺れに耐えきれず膝をついた。
「……そんな……」
先ほどまで山頂だった場所は、既にほとんどが消えていた。眼下には底の見えないほど深い亀裂が口を開け、その奥では傷ついた星脈が露出し、白と赤黒の入り混じった光を激しく噴き上げている。
ここだけではない。今この瞬間にも、星中で何の関係もない人々がこの破壊へ巻き込まれている。
その事実を理解したラズは、顔を青ざめさせながらシオンを振り返った。
「シオン……!」
彼はまだ立っていたが、正確には倒れずに残っているだけだった。
「がはっ……!」
大量の血がシオンの口から溢れる。
人を喰ってから膨れ上がり続けた肉体は、最後の一撃によってほとんど異形と呼ぶしかない姿まで変わっていた。肩や背中は岩塊のように盛り上がり、胸も腕も人間の骨格では不自然に見えるほど肥大している。赤黒い亀裂は筋肉の輪郭に沿って全身を覆い、裂けた黒衣はもはやその巨大な身体を隠せていなかった。
振り抜いた右腕はとりわけ酷く、筋肉は至るところで裂け、白い骨が露出し、その周囲へ赤黒い力が蔓のように絡みついている。人間の腕というより、巨大な力を拳の形に押し込めた結果として辛うじて腕の輪郭を残しているだけのものに見えた。
満身創痍。それでも、シオンの顔だけはひどく穏やかだった。
「これで……終わる……」
その声はひどく掠れており、離れた場所にいるラズの耳には届かなかった。
デウスは死んだ。復讐は終わった。もう立っている必要もない。
人を喰い、自分の意思で神を苦しませて殺し、その果てには星まで崩壊寸前へ追い込んだ。シオンにとって、それは自分を生かしておく理由がまた一つ減ったというだけだった。
ラズには生きてほしい。その感情は確かに残っている。けれど、それを理由に自分まで生きることを赦すことはできなかった。
シオンの膝から力が抜け、異様に肥大した身体がゆっくりと地面へ倒れ込んだ。
「シオン!」
ラズはすぐに立ち上がり、激しく揺れ続ける地面を走った。足元では新たな亀裂が次々と開き、赤黒い力が噴き上がっている。何度も身体を取られながら、それでも倒れたシオンへ近づき、震える手を伸ばした。
あと少しで肩へ触れられる。そう思った瞬間、シオンの身体から凄まじい赤黒い力が噴き上がり、ラズの身体を軽々と弾き飛ばした。
「っ……!」
背中から岩盤へ叩きつけられ、肺の空気が押し出される。それでもラズは痛みに耐えて顔を上げた。
「シオン……!」
その頃には、シオンの意識は既に深い闇へ沈み始めていた。気が狂うほどの身体の痛みが薄れ、怒りも、憎しみも、自分が犯した罪の重ささえ少しずつ輪郭を失っていく。デウスを殺したという事実だけが最後まで残り、それを確認すると同時に、シオンは自ら意識を手放していった。
ラズの声も遠くから聞こえている。それでも、手を伸ばそうとは思わなかった。
ここで終わる。ずっとそのために歩いてきた。自分にはもう、生き続けることを選ぶつもりも、それを赦すつもりもなかった。
『ご苦労だったな』
その声だけが、闇の中で今まで以上に鮮明に響いた。
『感謝しているぞ、俺の器』
ケイオスの声は、今まで聞いてきた中で一番近い場所から聞こえている気がした。まるで、自分自身の口から発せられた声のように。
『人を喰らい、神を憎み、己を憎み、よくここまで俺のための器を育てた』
シオンは返事をしなかった。もう声を出す力もない上に、返す必要すら感じていなかった。
『よくやった、もう休め。この身体は、正真正銘俺のものだ』
赤黒い闇が、残された意識をゆっくりと包み込んでいく。シオンは抵抗しなかった。
『さらばだ、シオン』
その言葉と共に、シオンの意識は完全に闇へ沈んだ。
地上では、星の崩壊がなお続いていた。空の亀裂は少しずつ広がり、遠くの山では新たな崩落が起こり、大地の奥では傷ついた星脈が不規則に脈打っている。
その中で、倒れていたシオンの身体が僅かに痙攣した。
ラズが震えながら身体を起こす。
次の瞬間、シオンの巨体が大きく跳ね、全身の傷口から外へ溢れていた赤黒い力が逆流するように体内へ戻り始めた。
砕けた骨は嫌な音を立てながら繋がり、裂けた筋肉も急速に修復されていくが、その身体が以前の姿へ戻ることはなかった。寧ろ、人肉を喰らったことで作り上げられた異形の肉体を、そのまま自らの器として完成させようとしているようだった。
岩のように盛り上がった肩も、巨大に肥大した腕も、広く分厚くなった胸や背中も縮まらない。傷口を塞ぐ赤黒い紋様が全身へ縫い目のように広がり、露出していた骨を覆い、潰れていた内臓さえ人間とは異なる何かへ組み直していく。全身から流れ出た血は、逆流するように体内へと戻っていった。
心臓はもう動いていなかった。代わりに、左胸の奥で、赤黒い石が生き物のように脈打っている。
倒れていた巨大な身体が、ゆっくりと起き上がった。
銀白の長い髪が、崩れ続ける世界の風を受けて揺れる。顔も髪も、辛うじて残っている黒衣もシオンのものだったが、異常に肥大した全身の筋肉と、そこを這う赤黒い紋様によって、その姿はもはや人間と怪物の境界を完全に踏み越えていた。
やがて瞼が開く。両の虹彩は、人を喰らった後のシオンと同じ、血のような赤だった。しかし、その周囲にあるはずの白い結膜は、墨を流し込んだような漆黒へ染まっており、闇夜に浮ぶ赤い月のようだった。
その瞳には、シオンがずっと抱えていた苦しみがない。父や母やリゼを殺した罪悪感も、自分自身を憎み続けた痛みも、ラズへ向けていた迷いも、何一つ残っていなかった。
あるのは、底の見えない愉悦と、果てしない飢えだけだった。
「——ああ」
口元がゆっくりと吊り上がる。
声そのものはシオンと同じだったが、その声を発しているものがシオンではないことを、ラズは疑うことすらできなかった。
「久しいな」
赤と黒に反転した瞳が、裂けた空と崩れる山々、大地の奥から噴き上がる赤黒い力をゆっくりと見渡していく。
星は今にも砕けそうなほど傷つき、世界のいたるところで悲鳴が上がっている。その光景を前に、シオンの身体を奪ったものは心底愉しそうに笑った。
「やはり、外は良い」
ラズは震えながら、その異形の姿を見上げた。
デウスは死んだ。シオンも、自ら終わることを選んで意識を手放した。そして、彼が抗うことをやめたその空白へ、ずっと身体の内側で飢え続けていた存在が入り込んだ。
神を殺した男の肉体を器として、ケイオスがついに現実へ顕れた。




