赦さぬ者
「まだ、死なせない」
掠れた声とともに、シオンの拳から僅かに力が抜けた。
それまでの彼は、デウスという存在を一刻も早く消し去ろうとするように拳を振るっていた。神核へ届く力を得てからは尚更で、一撃ごとに肉体だけでなく、その奥にある神そのものを砕こうとしていたはずだった。
だが、今は違う。
シオンは既に気づいている。星核が傷つき始めたことで、デウスの肉体へ流れ込む神力は減り、再生速度は明らかに落ちている。今の自分なら、あと一歩踏み込んで神核まで力を届かせれば、この神を殺せる。
だからこそ、殺さない。
デウスの腹部へ拳を叩き込む。肉と骨が潰れ、白い神力が傷口から噴き出したが、神核までは狙わなかった。
「ぐ……っ」
デウスの口から、抑えきれない苦悶の声が漏れる。シオンはそれを聞きながら拳を引き抜いた。
傷口へ白い光が集まり始める。だが、再生は遅い。以前なら瞬きする間に塞がっていた穴が、今は時間をかけて肉を作り直している。
シオンは傷が塞がるのを待った。そして、再生したばかりの場所へ、もう一度拳を叩き込んだ。
「……ッ!」
デウスの身体が大きく跳ねる。
「まだだ」
シオンの口元から血に濡れた声が漏れた。
今度は顔面だった。頬から顎へ拳を振り抜き、整った顔の半分を吹き飛ばす。白い光が集まり、骨格を作り、肉を戻し、再び元の顔へ近づいていく。戻れば、また殴る。
「まだ、死ぬな」
その声を聞いた瞬間、ラズの背筋へ冷たいものが走った。
シオンの攻撃が変わった。先ほどまでのように、殺すためだけに力を叩き込んでいるのではない。寧ろ、今すぐ死なないように加減しながら、壊している。
デウスの腕を砕く。戻り始めた骨を、再生の途中でもう一度折る。脚を潰す。胸を抉る。喉を砕く。翼を掴み、根元から引き千切る。
純白の羽根が赤黒く裂けた大地へ舞い落ちる中で、ラズの脳裏へ別の光景が蘇った。
礼拝堂。床へ倒れたロイエ。死ぬことが決まっている相手を、殺すためではなく、苦しませるためだけに何度も壊していたシオン。あの時と同じだった。
——いや。今の方が、遥かに酷い。ロイエは人間だった。シオンの手にかかれば、すぐに死ぬ相手だ。しかし、デウスは神だ。壊しても、何度でも再生する。だからシオンは、それを利用しているようだった。
「先に地獄で待っていろ」
シオンは血を吐きながら、それでもデウスの純白の髪を掴んだ。無理やり顔を上げさせる。デウスの底知れない黒い瞳が、血のように赤く染まったシオンの瞳とぶつかる。
「俺もすぐに同じところへ逝く」
デウスの表情は苦痛で歪んでいる。だが、それでもシオンには足りなかった。
父は、母は、リゼは、村の人間たちは、こんなものでは済まなかった。痛かっただろう。怖かっただろう。何が起きているのか理解する時間すらないまま、自分の手で殺された。その原因を作った神が、必要だったと、代償だったと、そう言って簡単に終わるなど、赦せなかった。
「お前があいつらに与えたものを……全部、味わってから死ね」
拳を振り上げる。
「地獄へ落ちても、そこで受ける責め苦が生ぬるく思えるくらいの苦しみを、お前に与えてやる」
「シオン、やめて!」
ラズの叫びが、崩れた山頂へ響いた。しかし、拳は止まらない。
「デウスを殺すことを止めてるんじゃない!」
ラズは必死に立ち上がろうとした。何度も戦闘の余波で弾き飛ばされ、全身には痛みが残っている。神力もほとんど使い果たしかけていた。それでも、今ここで言わなければならない。
「でも、またリゼさんたちのためだって言って、こんなことをしないで!」
その言葉に、拳が止まった。ほんの僅か。拳一つ分。デウスの顔面へ届く直前で、シオンの腕が止まっている。
ラズは息を呑んだ。
——声は届いた。まだ、完全にシオンが消えたわけではない。
「第二の門で分かったでしょう! 今まであなたを責めてきた声は、本当のリゼさんたちの声じゃない!」
シオンは答えない。顔も、こちらへ向けないままだ。
「あなた自身の声なんだよ!」
「……分かっている」
ぽつりと低い声が返ってきた。ラズの目が見開かれる。
想像していた反応ではなかった。以前なら怒鳴っただろう。黙れ。お前に何が分かる。死者ならそう言うに決まっている。そう言って、ラズの言葉を拒絶したはずだ。
けれど、今は違う。シオンの声にあるのは怒りだけではなかった。
彼は、ひどく疲れていた。何年も自分自身へ言い続けてきた言葉を、とうとう自分で否定しなければならない者の声だった。
「父さんが、こいつを苦しめろと思っていたのか」
シオンはデウスを見下ろしたまま呟く。
「母さんが、復讐しろと望んでいたのか」
握られた拳が震えている。
「リゼが——」
その名前だけは、今でも胸を抉る。
「俺に……こいつを、こんなふうに殺してほしかったのか」
シオンの声が掠れる。
「……もう、俺には分からない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に大きな穴が開いたような感覚がした。
父も、母も、リゼも、何も言わずに——いや、何も言うことができずに死んだ。父が最後に何を考えていたのか、母が自分を見て何を思ったのか、リゼが自分の拳が迫った瞬間何を感じたのか、シオンは知らない。知ることなど、もう二度と叶わない。その空白がずっと怖かった。
だから、空白を自分で埋めた。自分で、死者の姿を借りて言葉を作った。
お前を恨んでいる。デウスを殺せ。苦しませろ。復讐を終えたら、お前も死ね。
そう言っているはずだと、そう言っていてほしいと思った。そうでなければ、自分がこれほど長い間、復讐だけを支えに生きてきたことが揺らいでしまう。そして何より、自分が死ぬという決意さえ、死者の願いではなく自分自身の願いだと認めなければならなくなる。
第二の門で、鏡湖はそれを見せた。死者の姿を借りていた声の奥に、十四歳の自分が立っていた。死ねと言っていた。あれは父ではない。母でも、リゼでもない。自分だった。それでも、そのときのシオンは、だから何だと言った。自分の声だとしても聞くべきだと。自分は罰されるべきなのだから。今もそこは変わらない。自分を赦すつもりなどない。
だが、それと死者が何を望んでいたかを勝手に決めることは同じではない。
「俺には……あいつらが何を思って死んだのか、決める資格なんてない」
シオンの喉が震える。
ラズは、何も言えなかった。
それは救いではない。シオンが自分を赦したわけではない。父や母やリゼの死から解放されたわけでもない。それでも、確かに今までとは違う。
「だから——」
シオンは、再びデウスを見た。赤い瞳へ、冷たい怒りが宿る。
「もう、あいつらの名前を理由にはしない」
「シオン……」
「これは、俺の復讐だ」
拳が落ちた。デウスの顔面が砕け、再生が始まる。その途中へ、もう一撃叩き込まれる。
「俺が、お前を憎んでいる」
デウスの胸を拳が抉る。白い神力が飛び散る。
「俺が、お前を苦しませたい」
腕、肩、喉と、シオンの拳がデウスの身体を穿つ。デウスの身体が地面へ叩きつけられる。
「俺が、お前を赦せない」
シオンは、血に濡れた拳を握った。
ラズの胸がズキリと痛んだ。これは、ラズが望んでいた答えではない。シオンが復讐をやめたわけではない。寧ろ、以前よりも残酷だった。
これまでは、死者が望んでいるからと言い訳していた。今は違う。自分が憎い。自分が苦しませたい。自分が殺したい。その責任を、全部自分で引き受けた上で、尚も拳を振るっている。
「それでも……!」
ラズは叫んだ。
「それでも、シオンまで壊れる必要はない!」
シオンは答えなかった。
彼は、自分が壊れることを恐れていない。デウスを殺した後、自分も死ぬ。ずっと言い続けてきたそれももう、死者が望んでいるからではない。父が、母が、リゼが、自分に死ねと言っているからではない。自分自身が、自分を生かしておくことを赦せない。だから死ぬ。そこだけは何も変わっていない。寧ろ、人間を喰ったことで、自分自身へ向ける嫌悪はさらに深くなっている。ラズには、それが分かってしまった。
「シオン……」
返事はない。
やがて、デウスの傍らへ、一人の少女が現れた。白い花を手にした、リゼの幻。彼女は、血に濡れた姿でシオンを見ている。
『ここまで長かったね』
ひどく冷たい声だった。
シオンは、静かにその姿を見る。リゼの幻が微笑んだ。だが、それはかつて本物の彼女が見せたものとは似ても似つかない、責めるためだけの笑顔だ。
『ようやくデウスを殺せるね』
シオンはもう分かっている。これはリゼではない。自分が作った幻だと。それでも、声は消えない。
『早く殺して』
光のない、冷たい瞳がシオンを捉える。
『それから、あなたも死んで』
シオンは歯を食いしばった。
本物のリゼが、それを望んでいるのかは分からない。もう、自分でそうだと勝手に決めつけることはできない。あの時、リゼは何も言えなかった。なら、この言葉を彼女のものにしてはいけない。
けれど。
『ちゃんと地獄で苦しんでね』
その声は、今も胸の奥へ突き刺さる。これはリゼの願いではなくても、シオン自身が望んでいることだからだ。
デウスを殺す。その後、自分も死ぬ。地獄で苦しむ。それが、自分に最も相応しい。その考えを、シオンはまだ捨てられない。
死者の声を言い訳にすることはやめた。けれど、自分自身へ向ける死の命令は、今も消えていない。
シオンは、ゆっくり拳を握った。
デウスを見る。身体に空いた無数の穴から白い光を漏らし続け、ほとんど戻らなくなった肉体。神核が傷ついている。もう殺せる。今なら、一撃で終わらせられる。
それでも、シオンは一度、ラズの方へ視線を動かした。リゼと瓜二つだが、それでいてどこか違う顔。澄んだ海のような碧の瞳は、涙に濡れて溶けてしまいそうだった。大粒の涙がぽろぽろと絶え間なく零れ落ちている。
彼女は、こんな怪物となった自分を止めようとしている。何度突き放しても、何度怒鳴っても、それでもここまでついてきた。
その姿を焼き付けるように、赤い瞳へ映した。——きっと、彼女をきちんと見るのはこれが最後になる。
そして、再びデウスを見据えた。
「……終わらせる」
その低い声には、確かな覚悟が籠っていた。
ラズの表情が強張る。
シオンの全身から、赤黒い力がゆっくりと膨れ上がり始めた。今までとは違う。周囲に散らばっていた力が、すべて一点へ集まっていく。
デウスを殺すために。そして、その先で自分自身まで終わらせるために。
ラズは、その意味をまだ完全には理解していなかった。しかし、シオンの拳へ集まる力を見た瞬間、本能的な恐怖が背筋を駆け上がった。
「シオン……?」
返事はない。ただ、赤黒い力だけが、さらに膨れ上がっていった。




