神への罰
身体へ冷たい風が叩きつけられた。
「っ……!」
ラズは地面へ投げ出され、硬い岩盤の上を何度も転がった。痛む身体を起こし、顔を上げる。
そこは高い山の頂だった。雲よりも高い、地上で最も神域に近い場所。星核の真上にあるとされ、かつて人間たちが神を仰いだ聖地。
だが、今そこに聖地の静けさはなかった。崩壊した神殿が光の残骸となり、空から降り注いでいる。白い破片は地面に突き刺さり、山肌を砕き、土煙を上げた。
シオンは既に立ち上がっていた。少し離れた場所では、デウスが翼を広げている。
そして、その背後の空には、巨大な赤黒い亀裂が走っていた。
「……空が、壊れてる……」
ラズの声が震える。
シオンが一歩踏み出した。ただそれだけで、山肌へ長い亀裂が走った。
「シオン!」
デウスが大剣を再構築する。
「これ以上は、星そのものへ影響が及ぶ!」
シオンは一切答えない。
拳と剣が衝突する。轟音と共に、山頂の半分が吹き飛んだ。岩盤が巨大な塊となって崩れ、遥か下の谷へ落下していく。衝撃は周囲の山々へ伝わり、遠く離れた峰の一部まで崩れ始めた。
シオンの拳が今壊しているのは、もうデウスだけではない。山。大地。空間。星脈。この星そのもの。それらすべてを巻き込みながら、神へと迫っている。
ラズは、それをはっきりと理解した。
「お願い、止まって!」
叫びながら立ち上がる。神力の膜では、もうシオンに触れることすらできない。——なら、心へ。
ラズは両手をシオンへ向けた。以前、アルミナで入ったシオンの精神世界。もう一度、あそこへ入れれば、中から話ができるかもしれない。
「お願い……!」
神力が、淡く身体を包む。意識をシオンへ伸ばす。——しかし、その瞬間。
『邪魔をするな、娘』
耳元ではない。頭の中へ、直接ケイオスの声が響く。
『今は、いいところだ』
「——っ!」
見えない何かに、正面から殴りつけられたような衝撃。ラズの身体が大きく吹き飛んだ。瓦礫へ背中から叩きつけられる。
「かはっ……!」
呼吸が止まる。それでも、ラズは起き上がる。
シオンの精神世界すら、もう以前とは違う。ケイオスが中まで侵食している。なら、残っている手段は己の声だけだ。
「シオン!」
喉が裂けそうなほど叫ぶ。しかし、シオンは返事どころか視線すらこちらに向けない。
拳がデウスの肩を砕く。今度は戻らない。腹を貫く。再生が遅い。翼を引き千切る。傷口へ白い光が集まりきらない。
星核が、傷つき始めている。デウス自身も、それを理解した。星は、自らの傷を修復しようと神力を消費している。そのため、デウスへ供給される力が減っている。
空に浮かぶ白い帯が、大きく明滅した。遥か遠くで地鳴りが響き、海が鳴る。雲が渦を巻く。
「止めるのだ!」
デウスの声には、もう隠しようのない焦りがあった。
「これ以上は星が耐えられない!」
シオンは答えない。
デウスの身体の奥。白い光が集中する一点。——神核。そこからさらに、星核へ続く光。それしか見ていなかった。
シオンの拳は止まらない。デウスの胸を抉る。白い神力が噴き出す。
シオンの身体は、最早限界を超えていた。筋肉は裂け、骨は砕け、内臓は押し潰されている。再生したそばから肉体は破壊され、裂けた皮膚からの出血は止まらない。それなのに、赤黒い力が血を押し退けるように噴き出し、身体を無理やり動かしている。
「ぐ、あ……ッ!」
血を吐く。膝が折れかける。シオンは拳を地面へ突き立てて身体を支え、そのまま顔を上げた。
拳が突き立てられた場所を起点とし、大地には巨大な亀裂が走り、その裂け目から赤黒い何かが漏れ出している。
「まだ……まだだ……!」
デウスはまだ生きている。なら、自分もまだ倒れるわけにはいかない。
「シオン!」
ラズが叫ぶ。赤い瞳はデウスだけを見ている。
「そのまま力を出し続けたら、シオンが死んじゃう!」
その言葉に、シオンこ肩が僅かに動いた。自分の声が聞こえている。ラズはそう思った。
だが、振り返りもせずに返ってきたのは、手負いの獣のような鋭い怒声だった。
「そのために使っている!」
シオンの怒声が山々へ響いた。
ラズの呼吸が止まる。
分かっていた。
デウスを殺す。そして、自分も死ぬ。何も変わっていない。
自分の中で禁忌としていた人の肉を喰った。両目の色さえ失った。身体も、心も、さらにケイオスへ近づいた。だからこそ、シオンは以前よりも尚、自分を生かしておく気がなくなっている。
「違う!」
ラズは泣きそうな声で叫んだ。
「そんな終わらせ方、わたしは認めない! 人を食べたからって、それでシオンまで終わらせていい理由にはならない!」
シオンは答えない。
しかし、デウスの再生がさらに遅くなった。肩を砕く。戻らない。腹を穿つ。白い光が集まるまで時間がかかる。翼を引き裂く。再生しかけた部分を、赤黒い力が侵していく。
——今なら、殺せる。
シオンにも、それが分かった。
あと少し、拳へ力を込めれば神核へ届く。今すぐ終わらせられる。そのはずなのに、拳が次に振るわれる直前、シオンの中へ別の感情が浮かんだ。
このまま、死なせるのか。
人の痛みを何も分からないまま。必要だったと、代償だったと、もう一度でも同じことをすると、そう言った神を。ただ、殺すだけで終わらせるのか。
違う。それでは足りない。自分たちが味わったものを、こいつは何一つ知らないまま死ぬ。それが赦せない。父を、母を、リゼを、村を、自分を、そしてラズまで道具にしたこの神への罰は、ただ死ぬだけでは軽すぎる。
シオンの拳から、ほんの僅かに力が抜けた。
「……まだ」
低く、掠れた声が落ちた。デウスが顔を上げる。
ラズの背筋に、ぞっと冷たいものが走った。
「まだ、死なせない」




