止まらない力
その言葉に呼応するように、全身を覆う赤黒い力がさらに濃くなる。
人を喰らってから、シオンの身体は以前とは明らかに違っていた。これまでなら肉体そのものが拒絶していた量のケイオスの力を、今は受け入れてしまう。怒りと憎悪が膨らむたび、その感情を喰らうように力が増え、それを収めるために身体までが変形していく。
腕の筋肉が異常なほどに盛り上がった。
「ぐ……ッ」
皮膚が耐えきれず、肩から手首へ細い裂け目が走る。血が滲んだ直後には傷が塞がるが、さらに内側から膨張した筋肉に押し広げられ、また同じ場所が裂けた。胸。背中。脚。全身が同じように壊れていく。力へ身体を合わせるために、人間だった肉体の形を無理やり作り変えられている。
壊れる。治る。また壊れる。地獄のようなその循環が、引き返せなくなるほどにシオンを強くしていた。
「シオン……」
ラズは離れた場所からその姿を見つめ、言葉を詰まらせた。
両目は既に鮮血のような赤へ染まっている。それでも、そこにいるのがケイオスではなくシオン自身であることだけは、辛うじて分かる。だが、その身体は見るたびに人間から遠ざかっていた。人間では有り得ないほどの筋肉を纏った姿は、最早異形と呼んで差し支えないだろう。
膨張した筋肉に圧迫された内臓が、身体の奥で嫌な音を立てる。シオンの喉が引き攣り、次の瞬間には大量の血が口から吐き出された。
「が、あ……ッ」
さらに、赤い瞳の端からも血が涙のように伝った。
「シオン!」
ラズは反射的に駆け出した。しかし、二人の間へ割って入ることなどできなかった。
デウスの大剣が振り下ろされ、シオンが拳で迎え撃つ。その衝突だけで凄まじい圧力が爆発し、白い神力と赤黒い力が嵐のように周囲へ飛び散る。
ラズは咄嗟にシオンの周りに神力の膜を張った。封印搬送のときに用いたものと同一のものだが、あれよりもさらに頑丈になるように神力をめいいっぱい注ぐ。
「ぐうっ……!」
しかし、完成するより早く膜が破れた。破片となった神力が頬を掠め、皮膚を薄く切る。身体も後方へ押し戻され、ラズは辛うじて倒れずに踏みとどまった。この距離ですら、まともに立っていられない。
「シオン、聞いて!」
それでもラズは声を張る。しかし返事はない。シオンはデウスだけを見ていた。
大剣を拳で砕き、その破片が散るより先に踏み込み、デウスの顎を打ち上げる。神の頭部が大きく仰け反り、次の拳で頬の半分が吹き飛んだ。
白い光が集まる。顔が戻る。また殴る。
「もう十分だよ!」
ラズは叫んだ。
「それ以上ケイオスの力を使ったら、シオンの身体が——」
返事はない。
怒り、憎しみ、激痛、復讐。そして、そのすべてを心地良さそうに喰らい続けるケイオス。それらが、シオンの中でラズの声を押し流してしまっていた。
それでも、一度だけ赤い瞳がラズの方へ動いた。
「止まって!」
ラズは、その一瞬へ縋るように声を上げた。
「このままじゃ、本当に——」
「黙れッ!」
怒声が叩きつけられた。声そのものに乗った力でラズの足元の床が割れ、身体が反射的に強張る。
その僅かな躊躇の間に、シオンは既にラズから視線を外していた。血のように赤い瞳は、再びデウスだけに向けられている。
頭部を拳で砕く。再生する。首を折る。戻る。胸を抉る。白い神力が傷を塞ぐ。何度でも、何度でも再生する。
「無駄だ」
再生した喉から、デウスの冷たい声が漏れた。
「私の肉体をいくら破壊しても、神核が存在する限り私は再生する。私の神核はこの星核と接続されている。星が神力を生み出し続ける限り、貴様が破壊している肉体は何度でも再構成される」
シオンの拳が、ほんの僅かに止まった。
——神核。星核。繋がっている。
今のシオンの思考に、長い説明を咀嚼する余裕など残っていない。だが、その言葉だけは理解した。
肉を壊すだけでは足りない。骨を砕いても、頭を吹き飛ばしても足りない。この身体のさらに奥。デウスという存在そのものを形作っている核を壊さなければならない。そしてそれが星と繋がっているのなら——そこまで壊せばいい。跡形もなく、二度と誰も道具にできないように吹き飛ばすだけだ。
『そうだ』
ケイオスの声がした。だが、シオンはその声が以前ほど自分とは別のものに聞こえなくなっていることに気づかなかった。ケイオスの声は、最早自分の思考そのものと重なっている。
『もっとだ』
赤黒い力が膨れ上がる。
『まだ足りぬ』
いつものように、その声を拒もうとは思わなかった。
——そうだ、まだ足りない。
人の肉を喰らった時から、ケイオスとの境界は開いたままだった。これまでなら、細い裂け目から必要な分だけ引き出していた力が、今は濁流となって全身へ流れ込んでいる。
止め方は知っていたはずだった。怒りを抑える。憎しみから意識を逸らす。力を絞る。だが、どれもできなかった。しようとも思えなかった。
目の前に、まだデウスがいる。シオンにとっては、それだけだった。
デウスの翼が大きく開く。
剥き出しになった神殿上部へ無数の白い光が現れ、それらが一斉に槍の形を取った。
それらが雨のように降り注ぐ。一本一本が、かつてシオンの身体を容易く貫いた神力の槍。もし地上へ落ちれば、大地を穿つほどの威力を有しているだろう。
今度はシオンも避けなかった。拳を振るう。一撃で十数本が砕ける。もう一撃振るえば、さらに光が散る。
だが数が多い。仕留め損ねた光が肩へ突き刺さる。腹を貫く。太腿に、胸。何本もの槍がシオンの肉体を串刺しにした。
「が、ああああああッ!」
絶叫が上がる。
痛い。身体が壊れる。それでも、その痛みすら怒りへ変わった。
全身の筋肉がさらに膨張し、身体を貫いていた槍を内側から押し潰す。白い神力が砕け、赤黒い霧となって霧散した。
シオンは前へ出た。血を流しながら、壊れながら、デウスへ拳を振るう。
大剣が砕けた。そのまま、デウスの腕を肩から吹き飛ばした。
白い光が再生のために集まる。しかし、今度は遅かった。
「……!」
デウスの瞳が、僅かに揺れる。
失われた腕が形を取り戻すまでに、これまでにはなかった空白がある。同時に、主神殿そのものが大きく軋んだ。
床へ。壁へ。柱へ。シオンから漏れ続ける赤黒い力が亀裂となって走り、その下に存在する星脈へまで到達している。光の大河のようだった星脈へ、赤黒い染みが広がっている。それに気づいたデウスは、初めてシオンではない場所へ視線を向けた。
「……星脈まで」
その一瞬を、シオンは見逃さなかった。
拳が再びデウスの胸を貫く。
「ぐっ……!」
白い神力が噴き出す。デウスが大きく後方へ吹き飛び、祈りを刻まれた壁へ叩きつけられた。壁に刻まれていた祈りの文字が、破片となって宙を舞った。
デウスは崩れる壁の中から翼を広げる。
「私を殺せば、この星は守護神を失う」
吹き飛んだデウスを見据えながら、シオンは歩みを進める。
「異星の神々に対抗するものもなくなる。いずれこの星は——」
「知ったことか」
血に濡れ、掠れた声だった。
「星も、神も、どうでもいい」
拳を握り、床を砕きながら踏み込む。デウスが手元に形成した大剣を拳で叩き割る。
「俺は、お前を殺す」
さらに一歩踏み込む。拳がデウスの胸を貫いた。
「それ以外はどうでもいい」
その言葉を聞いたラズの胸が締めつけられた。
「シオン!」
胸の苦しみに耐えきれずに、思わず叫ぶ。
彼が本当に星のすべてをどうでもいいと思っているのか、ラズには分からなかった。けれど今この瞬間、シオン自身はそう思おうとしている。周囲を見れば止まってしまうから。自分が何を壊しているのか考えれば、拳が鈍るから。だから、デウス以外のすべてを意識から切り捨てている。
「シオン、こっちを見て!」
桃色の髪が、シオンの視界の端へ一瞬入った。胸のどこかが、ちくりと痛んだ気がした。
だが、デウスの胸へ白い光がまた集まっている。また戻る。まだ生きている。殺さなければ。
全身の筋肉がさらに膨張する。腕の骨へ亀裂が入る。内臓が嫌な音を立てて潰れた。
「がっ……!」
シオンが血を吐く。それでも顔を上げ、血のように燃える瞳でデウスを睨みつけた。
身体は限界だと訴えている。——だから何だ。この身体は、デウスを殺すまで動けばいい。その後など必要ない。
『もっと寄越せ』
脳裏へ響いた声に、シオンは反応しなかった。それが自分自身の思考だったのか、ケイオスの囁きだったのか、既に区別がつかなくなり始めていた。
シオンは床を蹴る。踏み込みの衝撃で、神殿の基礎へ致命的な亀裂が走った。
「止めろ!」
デウスの声に、初めて明確な焦りが混ざった。
「このままでは神域そのものが崩壊する。地上にまで被害が及ぶぞ!」
シオンは答えない。赤い瞳は、ただひたすらデウスのことだけを捉えていた。
拳を振るう。神殿の床に巨大な亀裂が走り、床の下を流れる星脈が露出した。星の光の流れのようなそれに、赤黒い亀裂が走っている。
「っ!」
突如としてラズの足元が崩れた。身体が浮く。
「きゃっ……!」
咄嗟に神力を鎖の形へ変え、崩落途中の床へ絡ませる。片手で鎖へしがみつきながら、ラズは必死に上を見る。
シオンとデウスは、まだ戦っている。デウスが剣を作る。シオンが砕く。翼から神力を放つ。シオンが身体で受けながら殴る。再生。また殴る。
白い神力と赤黒い力が衝突するたびに、空間そのものが削られていく。そして、ついに神域が耐えきれなくなった。
白い空間へ巨大な亀裂が走る。柱が倒れる。玉座が崩れる。祈りを刻んだ壁が粉々に砕ける。星脈の交差点へ浮かんでいた神の領域そのものが、シオンの力に引き裂かれていく。
「シオン!」
ラズが叫んだ直後、世界が崩れた。




