神対人
「跪け」
デウスの命令が重なる。
術式そのものは正常だった。シオンの意識には冷たい神力が確かに入り込み、身体へ下された命令を強制しようとしている。かつて十四歳のシオンから肉体を奪い、父も母もリゼも、その手で殺させた時と似た感覚。
その時と違うのは、今のシオンは、自分が奪われようとしていることを完全に理解しているということだった。
片膝が床へ落ちる寸前で止まる。
「……離せ」
赤黒い力が術式の内側から膨らむ。
「ラズを離せ……!」
「精神制御術式、第二層接続」
デウスは即座に術式を追加した。頭部を囲む光の環が増え、神力が脳へ杭のように打ち込まれる。
「肉体固定術式、最大出力。対象出力を制限。同調率を強制低下」
四肢に鎖が巻きつく。左胸へ幾重もの環が集まり、心臓の代わりに脈打つ石を中心に、ケイオスの力を押さえ込もうとする。床。柱。壁。天井。主神殿そのものに刻まれた術式までが起動し、白い光が一人の青年へ集中した。
それでも、術式を蝕む赤黒い亀裂は止まらない。
『愚かな神だ』
低い声が響いた。今までシオンだけに聞こえていたケイオスの声が、溢れ出す力を媒介にして神殿全体へ響き渡る。
『自ら罪を選ばせ』
一枚目の術式が砕けた。
『自らをさらに憎ませ』
二枚目も砕ける。
『怒りを与え』
三枚目が砕ける。
『俺へ近づけておきながら』
デウスの黒い瞳に、初めて明確な警戒が浮かんだ。
『まだ、この器だけを従わせれば済むと思っている』
「術式対象をケイオスへ拡張」
迅速な判断だった。
デウスは両翼を大きく広げ、神殿へ流れ込む神力の量を一段階引き上げる。星脈だけではない。地上の神殿や都市へ与えていた加護、さらに星を覆う結界へ流していた力の一部までが主神殿へ引き戻される。
「存在固定。顕在化阻害。器との接続を遮断する」
白い光が集まり、巨大な繭となってシオンを覆った。赤黒い力が見えなくなり、音も消える。
「シオン……」
ラズは首を拘束されたまま、光の繭を見つめた。術式は壊れていない。星から供給される神力も途切れていない。完全に押さえ込んだ。そう見えた。
だが、白い繭の表面へ一筋の赤黒い亀裂が走った。
「……!」
亀裂はどんどん増えていき、瞬く間に無数の数となる。
デウスが右手を握った。
「圧壊しろ」
光の繭が急速に収縮した。
制御ではなく、封印でもなく、器そのものを破壊するための神術。デウスはもう、シオンを兵器として完成させることよりも、危険な存在となった器をここで処理する方を選んだ。その判断は遅くない。——それでも、遅かった。
繭の内側から、黒い拳が突き出た。白い光が爆散する。轟音と共に神殿の天井が大きく吹き飛び、その上に流れていた無数の星脈が剥き出しになった。
光の破片が降る中、シオンが立っている。戦闘で裂けた黒衣と手袋。銀白の髪。外見そのものは、まだシオンだった。それでも、シオンがただそこに立っているだけで、神殿の空間そのものが軋んでいた。
「ラズを離せ」
声もシオンのものだった。だが、その低い声の奥で、もう一つの何かが笑っているように聞こえる。
「貴様はまだ制御可能だ」
デウスは拘束を解かない。
シオンの表情が歪む。
「まだ……」
一歩踏み出す。床が沈む。
「俺から……」
二歩目を踏み出す。神殿の基礎へ亀裂が走る。
「奪うつもりか」
三歩目を踏み出す。神殿だけではなく、神域全体が揺れた。
「出力を落とせ」
催眠術式を介してデウスが命じるが、シオンの周囲に嵐のように吹き荒れている赤黒い力は止まない。
「止まれ」
さらに一歩踏み出す。
「跪け」
デウスの命令は届いている。それでも、シオンの身体は従わない。
「……そうか」
デウスが小さく零した。
「楔が、安定ではなく出力増幅の要因となったか」
「違う」
囚われたままのラズが声を絞り出した。
デウスの瞳が僅かに動く。
「あなたが……何も分かってなかっただけ」
ラズは、自分を拘束する白い帯へ神力を流し込んだ。これはデウスから与えられた力だ。だが、どう使うかは自分が決める。
「わたしを傷つければ、シオンが怖がると思った」
帯に小さな亀裂が入る。
「失いたくないって怯えて、あなたに従うと思った」
さらに。
「でも……シオンが感じたのは恐怖じゃない」
白い拘束が砕け、支えを失ったラズの身体が床へ落ちる。両膝を強く打ちつけたが、それでも顔を上げる。
「あなたへの怒りだよ!」
同時に、シオンが消えた。
デウスは瞬時に白い防壁を展開する。神力を幾重にも重ねた防壁。そのすべてが、シオンの拳一つで連続して砕けた。
「——っ」
拳が、デウスの顔へ初めて届く。神の身体が大きく吹き飛んだ。純白の羽根が宙へ散り、白い神力が血飛沫のように広がる。デウスは神殿の奥に立つ柱を数本まとめて砕きながら壁へ叩きつけられた。
シオンは着地することすらしない。壁へ沈んだデウスへ向かい、さらに踏み込む。
次の拳をデウスは翼で受けたが、翼ごと砕けた。砕けた翼は白い光となり、雪のように舞う。
「……!」
デウスの黒い瞳が見開かれる。しかし、デウスの傷口へ白い神力が集まり、翼が再生を始めた。
シオンの拳が再び迫る。
「シオン」
デウスは空中へ飛び上がり、体勢を立て直した。その右手へ白い光が集まり、光は刃だけで人の背丈ほどある神力の大剣となる。
「貴様は暴走した。このまま神域から外へ出せば、星へ重大な被害を与える可能性がある」
最早、デウスの表情に余裕はなかった。
「故に——」
剣を構える。
「ここで貴様を破壊する」
シオンも拳を握った。
「やってみろ」
床が爆発した。
次の瞬間、拳と大剣が激突する。赤黒い力と白い神力がぶつかり合い、衝撃だけで周囲の柱が根元から折れた。床が波打つように割れ、遠くにいたラズの身体まで浮き上がる。
「っ……!」
身を守るため、ラズは咄嗟に結界を張った。しかし、衝撃へ触れた瞬間に、紙のように呆気なく破れた。身体が吹き飛び、柱へ背中を打ちつける。肺の空気がすべて押し出され、視界が暗くなる。
それでもラズは顔を上げた。
もう、二人の姿は目で追える速度ではない。赤黒い軌跡と白い閃光。それだけが、崩れ始めた神殿の内部を縦横無尽に駆けている。
「シオン……!」
シオンの拳が、デウスの肩を深く抉った。骨が砕け、純白の神衣ごと肉が吹き飛び、白い神力が血飛沫のように宙へ散る。これまで何度殴っても防壁の向こうにいた神の身体が、今は確かに自分の拳で壊れている。その手応えは、長い間デウスだけを殺すために歩いてきたシオンにとって、何よりも鮮明だった。
しかし、壊れた肩へすぐに白い光が集まった。失われた骨が組み上がり、その周囲へ肉が生まれ、裂けた神衣まで何事もなかったかのように元へ戻っていく。
シオンは再生しきるのを待たなかった。同じ肩へもう一度拳を叩き込み、作り直されたばかりの骨を砕く。デウスの身体が大きく傾いたところへ踏み込み、今度は胸元を殴り抜いた。肋骨が潰れ、白い神力が噴き出す。だが、それも瞬く間に塞がれていく。
殺せるはずだ。少なくとも、もう傷つけることはできる。それなのに死なない。その事実が、シオンの中にある怒りをさらに煽った。
ただの一撃で終わらせることなど、元より望んでいなかった。父も母も、リゼも、村の人間たちも、自分自身も、この神の都合によって壊された。デウスがそれらを「必要な代償」と呼び、同じ状況ならばもう一度同じ罪を犯すとまで言い切った瞬間から、シオンの中には殺意だけでは足りないという感情が燻っていた。
——苦しませたい。自分たちへ与えたものが、数字でも代償でもなく、痛みだったのだと、その身体へ分からせてから殺したい。
それでも今は、まず神を殺せるだけのところまで追い詰めなければならない。そのためにシオンは拳を振るい続けた。
デウスも黙って受け続けてはいない。巨大な白い大剣が横薙ぎに振るわれ、シオンの脇腹を深く切り裂いた。肉が裂け、内臓の一部まで抉られた感覚と同時に、大量の血が宙へ散る。普通の人間なら、その一撃だけで身体は二つに分かれていただろう。
「……ッ!」
それでもシオンは下がらなかった。腹部から血を流したまま一歩踏み込み、デウスの懐へ潜り込む。再生を始めた自分の肉が動くたびに、焼けた鉄を傷口へ押し込まれるような痛みが全身を貫いたが、今のシオンにとって痛みは止まる理由にはならなかった。寧ろ、痛むほどに怒りが増していく。
この身体を作ったのも、目の前の神だ。眠れなくなったことも、人間の食事を受けつけなくなったことも、人の肉を喰らわなければ神へ届かないほど歪められたことも、全部。
「デウスッ!」
拳が腹部へ叩き込まれ、神の身体を貫通した。黒い手袋に包まれた拳がデウスの背中から突き出る。デウスの顔に初めて明確な苦悶が浮かんだ。
だが、シオンが腕を引き抜くより早く、傷口へ白い光が集まり始める。肉体が内側から作り直され、開いた穴が急速に狭まっていく。
「……再生か」
低く、獣の唸りのような声が漏れた。
シオンは拳を握り直す。
「なら、再生が追いつかなくなるまで壊すだけだ」




