選んだ罪
ラズの顔から、見る間に血の気が引いていった。
「駄目……」
掠れた声が漏れる。それでもシオンは振り返らず、デウスによって白い床へ並べられた人々の前を、一人ずつ通り過ぎていった。
両手に鉄の拘束具を嵌められた男女。粗末な服を纏い、神殿兵が去った扉へ向かって今も口汚い罵声を浴びせている罪人。何が起ころうとしているのか理解しているのか、震えながら祈りを唱え続けている神官。その誰も見ないまま、シオンはさらに奥へ歩いていく。
そして最後に、実験体たちの前で足を止めた。
——人間だったもの。
そう表現する方が正しいほどに、彼らの身体は崩れていた。シオンの血や組織、そしてケイオスの力が残したものを無理やり植え付けられた肉体は、その異物へ適応することも拒絶することもできないまま壊れ続けている。生きているという事実そのものが拷問のようだった。
そのうちの一人が、シオンの気配に反応するように僅かに目を開けた。白濁した瞳は焦点すら定まっていなかったが、それでも銀白の髪をした青年の姿を捉えようとするように動いた。
「ア゙……」
潰れた喉から漏れた音は、もはや人の声には聞こえなかった。
シオンは何も言わない。
やがて、少し離れた場所に横たわっていた別の実験体が、震える唇を動かした。どうやら、他の者よりは意識が残っているらしい。自分が何のためにここへ運び込まれたのかさえ、理解しているようだった。
「……終わらせて……くれ」
掠れた声だった。
ラズが息を呑む。シオンも、ほんの僅かに眉を動かした。
男は一度激しく咳き込み、口元から黒ずんだ血を流した。それでも、残された力を振り絞るように視線だけをデウスへ向ける。
「それから……あの、神を……」
呼吸が途切れる。
「殺して……くれ……」
シオンの顔が苦しげに歪み、小さな舌打ちが漏れた。しかし、それは苛立ちから出たものには聞こえなかった。泣くこともできなくなった者が、代わりに喉の奥から押し出した音のようだった。
「シオン!」
ラズが叫ぶ。
シオンは動かないままだ。しかし、決意は固まっているように見える。
「その人がそう言ったからって、駄目だよ。苦しんでいて、死にたいって思っていても……それと人を喰うことは別でしょう!」
分かっている。ラズに言われるまでもなく、シオン自身が一番よく分かっていた。
これは救済ではない。この実験体を殺せば、少なくとも苦しみは終わる。ケイオスの力を身体へ埋め込まれた者がどれほどの苦痛に苛まれるのか、シオンには想像するまでもない。この場に並べられた者たちの中からどうしても選ぶのなら、未来の残された者よりも、助かる可能性のある者よりも、自ら死を望んでいるこの実験体たちを選ぶ方が——
——まだ、ましだ。
そこまで考えた瞬間、吐き気が込み上げた。何が、ましだ。
シオンは奥歯を強く噛み締める。
自分は今、並べられた命を比較した。誰なら喰っても罪が軽いのか、誰の命なら自分の復讐へ使ってもまだ赦されるのかを考えた。
それはデウスと何が違うというのか。星という全体を守るためなら、一人の少年も、その家族も、村も犠牲にしていいと判断した神。復讐を成し遂げるためなら、もう助からない命を選んで、自分の力にしていいと考えた自分。そこに違いはあるのか。
「……違わない」
誰にも聞こえないほどの声で、シオンは呟いた。
同じだ。少なくとも、今からしようとしていることについてだけは、デウスを責めながら自分だけを別の場所へ置くことなどできない。
それでも、シオンは拳を握った。
「俺は……あいつを殺す」
ラズが目を見開く。
「シオン……」
「そのために必要なら、すべてを捨てる」
自分でも何度も言ってきた。人間ではないと。怪物だと。未来など要らないと。復讐が終われば死ぬと。
なのに、人間の肉だけは喰わなかった。飢えで身体の内側を掻き毟られるような夜も、ケイオスから何度人間を喰えと囁かれても、その一線だけは越えなかった。
なぜなのかは考えないようにしていた。もし理由を認めれば、自分の中にまだ「越えたくない」と思う人間の部分が残っていると認めることになるから。だが、その境界の向こうにしか、デウスを殺せるだけの力がない。
そして今、ラズまでが、再びデウスの道具として首を絞められている。
「やめて……」
ラズの目から涙が零れた。
「お願いだから、それだけは……」
シオンは一度だけ、拘束されたラズを見た。それから、ゆっくりと首を横に振る。
「これは俺が決める」
ラズの唇が震える。
「お前のせいにはしない」
「……!」
「お前を人質にされたから、仕方なくやったことにはしない。ケイオスに唆されたからでも、デウスに命じられたからでもない」
言葉にするたびに、自分の逃げ道が消えていく。それでいい。寧ろ、逃げ道なんてものは消しておかなければならない。
「俺が決めた」
シオンは実験体の前へ膝をついた。
「俺が殺し、俺が喰う」
ラズが何度も首を振る。
「シオン……!」
実験体の濁った瞳が、近くに来たシオンを見つめている。そこに安堵も、感謝もなかった。ただ、早くこの苦しみを終わらせてほしいという願いだけが、辛うじて残った瞳の奥にあった。
「……謝罪は、しない」
シオンはぽつりと呟いた。
謝罪など、何の意味もない。この者の苦痛を終わらせるためだけではない。自分がデウスを殺したいから、この命を利用する。謝れば、自分が何かを償ったような気になる。それすら赦せなかった。
拳を振るう。一撃だった。胸を貫き、心臓を破壊する。実験体の身体が一度大きく跳ね、それまで絶え間なく続いていた苦しげな呼吸が止まり、静かになった。
ここまでならまだ、苦しみを終わらせただけだと、自分を欺くこともできたかもしれない。
だが、ここから先は違う。
シオンは死体へ顔を近づけた。
「やめてッ!」
ラズの鋭い悲鳴が、広い神殿へ響いた。
それでもシオンは歯を立てた。ぶち、と筋繊維が切れる。肉が骨から剥がれる。生温かな血が口内へ溢れ、舌を濡らした。
その瞬間、シオンの全身が歓喜した。
「……っ」
目を見開く。
——味がする。
魔物の肉とは違う。人間の食事を受けつけなくなって以来、何を口へ入れても感じることのできなかった鮮明な味。甘く、濃く、そして美味い。そう思った。そう思ってしまった。
「ぅ……」
喉が痙攣した。猛烈な吐き気が込み上げる。吐き出したかった。今噛み切った肉も、飲み込んだ血も、舌が感じた味も、自分がそれを美味いと思ったという事実も。全部、身体の外へ吐き出してしまいたかった。
しかし、肉体は拒まない。寧ろ逆だった。もっと寄越せと求めている。
『——良い』
ケイオスの恍惚とした声が響いた。
『そうだ。これだ』
シオンの全身を、これまでとは比較にならないほど膨大な赤黒い力が駆け抜ける。細胞の一つ一つが開いていくようだった。今まで受け止めきれずに身体を壊していた力を、肉そのものが受け入れ始めている。
「シオン!」
ラズは泣きながら叫び続けた。
シオンは止まらなかった。残された実験体たちを、一人ずつ、せめて苦しませないように先に命を断つ。そして、喰らう。最小限に。必要以上に弄ばないように。そんなことを考えている自分が、さらに気持ち悪かった。どれほど丁寧に殺そうが、どれほど苦痛を減らそうが、人間を喰らっている事実は変わらない。
喰うたびに、シオンの中で何かが壊れた。同時に、何かが満たされた。
左胸から伸びていた赤黒い亀裂が、腕、肩、首、頬、背中、脚へと広がり、全身へ根を張るように脈打ち始める。そして、深い闇を溶かしたようだった紫色の右目が、血を流し込まれようにゆっくりと赤へ染まっていった。
右目も、左目も、赤い。ただし、まだそこにいるのはケイオスではない。シオンだ。それでも、あの日からずっと残っていた紫色が、とうとう消えた。元々の夜空のような青い瞳の面影は、完全に失われた。
「嫌……」
ラズの唇から、震えた声が漏れる。
シオンの心臓が、一度大きく脈打った。二度、三度と不規則な鼓動を打ち、そして止まる。代わりに、左胸の赤黒い石が、ドクンと脈打った。止まった心臓の代わりに、赤黒い石が彼の身体を動かし始める。
最後の実験体を喰らい終えたシオンは、血に濡れた口元を拭うこともせず、ゆっくりと立ち上がった。
『貴様が選んだ』
「……黙れ」
『俺ではない』
「黙れ」
『デウスでもない』
「黙れ……!」
『貴様自身が、欲して——』
「黙れえええッ!」
咆哮と共に赤黒い力が噴き上がり、神殿の床が大きく陥没した。柱が軋み、壁へ巨大な亀裂が走る。身体の内側で膨張する力に合わせて筋肉がさらに張り詰め、皮膚が裂ける。だが、裂けたそばから傷は塞がり、より強固な肉体へ作り直されていく。
デウスは、その変化を冷静に観察していた。
「同調率、上昇。肉体適応を確認」
デウスが両手を広げる。神殿全体に、幾重もの白い術式が浮かび上がった。
「精神制御術式——完全接続」
光が、シオンの頭部、脊髄、四肢、そして左胸の封印石の周囲へ一斉に収束する。シオンの身体が硬直した。
「跪け」
片膝が、自分の意思とは無関係に下がり始める。シオンの顔が歪んだ。
「……ふざけるな」
「跪け」
さらに、拘束されたラズの首へ、白い帯が深く食い込んだ。
「……っ!」
桃色の髪の中で、青い星が揺れる。シオンの両目が大きく見開かれた。
「これで貴様は完成した。そして楔が存在する限り、貴様は制御できる」
「……ラズを」
赤黒い力が、再び膨れ上がる。
「離せ」
白い術式の表面へ、一本の赤黒い亀裂が走った。




