最後の一線
開いた扉の向こうから、いくつもの足音が響いてきた。現れたのは、白い鎧を纏った複数の神殿兵だった。だが、ラズの目を奪ったのは彼らではない。兵たちは、人間を連れていた。
両手を鉄の拘束具で繋がれ、満足に歩くこともできない者。薄汚れた粗末な服を纏い、神殿兵へ罵声を浴びせ続ける者。神官の法衣を着たまま俯き、唇だけを動かして祈り続けている者。
そして、その後ろから運び込まれた人々を見て、ラズは息を呑んだ。
「……っ」
彼らは、人間の形をほとんど失っている。片腕だけが異常なほど膨れ上がり、その皮膚の下を赤黒い筋が脈打っている男。腹部が大きく裂けたまま塞がらず、露出した肉が呼吸に合わせて痙攣している女。背骨に沿って骨とも角ともつかないものが突き出し、四つん這いになることさえできず、床へ横たえられた者。
見覚えがあった。アルミナの地下施設。シオンの血や組織。そして、ケイオスの力を利用して作られていた実験体。けれど、あそこで見た者たちよりさらに酷い。身体の崩壊が進み、人間として生きることも、死ぬことさえできないまま苦痛だけを与えられている。
「そんな……」
ラズの声が震える。
彼らは神殿の白い床へ、順番に並べられていった。罪人。反逆者。神殿へ背いた者。新たな実験に使うため連れてこられた者。そして、既に実験へ使われ、失敗作として処理を待つだけとなった者。
神殿兵たちは作業を終えると、デウスへ深々と頭を下げ、何も言わず扉の向こうへ戻っていった。
残されたのは、神と、シオンとラズ。そして、床へ並べられた人間たちのみとなった。
デウスは彼らを一瞥した。それだけだった。人間一人一人を見る目ではなかった。用意させた物資を確認するような視線。すぐにその黒い瞳が、シオンへ戻る。
「この中から選んで喰らえ」
ラズが目を見開いた。
あまりにも平然とした声だった。命令、或いは、神へ捧げられた供物を、その場で消費することを求めているかのような響き。
「貴様が喰らえば、その命は力へ変わる。それはこの星を守る力となる」
神殿の壁には、今も無数の祈りが刻まれている。家族を守ってください。子供を助けてください。明日をください。どうかこの星を守ってください。
その祈りの中心で、祈られる神が人間を食事として差し出している。
ラズは言葉を失った。
シオンは動かなかった。赤黒い力を全身へ纏いながら、デウスだけを見ている。しかし、その拳が震えていた。
怒り。憎悪。殺意。それらは間違いなくある。だが、それだけではない。シオンの中で、何かが明確に拒絶している。
「……断る」
低い声だった。
デウスの表情は変わらない。
「人の肉を摂取すれば、貴様の肉体はケイオスへさらに適応する。肉体強度、再生能力、出力。そのすべてが現在とは比較にならない領域まで上昇する」
シオンの眉間へ深い皺が刻まれる。
「それで俺を完成させるつもりか」
一歩踏み出す。
「現在の貴様では不足している」
「俺は、お前の兵器にはならない」
「貴様がどう考えるかは問題ではない」
ラズがデウスとの間へ割って入る。
「そんなこと、させない!」
デウスの黒い瞳がラズを見る。
「ラズ。貴様はシオンがケイオスに完全に侵食されることを恐れている」
「そうだよ!」
「ならば、現状を維持することの方が危険だと理解できるはずだ」
「何を……」
「戦闘が長引けば、シオンの怒りと憎悪だけが増大し続ける」
ラズは言葉に詰まった。それは、自分自身も先ほどから恐れていることだった。
「器が力へ適応していないまま出力のみが上昇すれば、精神と肉体の均衡はさらに崩れる。いずれケイオスが主導権を奪うだろう」
「だから、人を喰わせるっていうの……?」
「必要な適応を先に完了させる」
デウスは淡々と告げる。
「その後、精神制御術式を接続する」
「……催眠術式は、一度失敗してるでしょう」
ラズの声が震える。
アルミナで見た記憶や、ロイエから語られた記録。十四歳のシオン。村を滅ぼした夜。リゼを殺した直後に膨れ上がった怒りと憎悪によって、ケイオスの力がデウスの催眠術式を内側から破ったと言っていた。
デウスは否定しなかった。
「あれは旧式だ」
「旧式……?」
「失敗後、術式は再構築した」
デウスの背後に、幾重もの白い術式が現れた。頭部。脊髄。心臓。肉体と精神の境界。そして、シオンの左胸に埋め込まれた石に干渉するもの。
以前ラズが記憶で見たものよりも、遥かに複雑だった。
「現在の術式は精神のみを支配するものではない。器そのものへ干渉し、行動と出力を固定する」
そして、デウスの視線がラズへ向いた。
「さらに、楔を介して外側から精神を安定させる」
ラズの背筋を、冷たいものが走った。
「……わたしを」
「貴様が存在する限り、制御は可能だ」
「嫌」
「そのために貴様を作った」
ラズの指先が冷たくなる。
その横で、シオンがゆっくりと顔を上げた。
「ラズを使うな」
絞り出されるような低い声。
しかし、デウスは何も感じていないように答える。
「それは楔だ。使うために作ったものを、使わぬ理由はない」
次の瞬間、白い光が走った。
「え——」
白い光はラズの手首へ、足首へ、腰へ巻き付き、身体が宙へ引き上げられた。
「……っ!」
「ラズ!」
シオンが動く。
「止まれ」
デウスの声と同時に、白い術式がシオンの頭部へ展開された。
「ぐ……っ」
足が止まる。
意識の表面へ、冷たい指を差し込まれるような感覚。かつてのような完全な支配ではない。シオン自身の意識はある。身体もまだ動かせる。だが、見えない巨大な手で押さえつけられたように、動作が極端に鈍る。
「現在の出力であれば、まだ術式へ抵抗可能か」
デウスは観察するように告げた。
「だが、接続自体に異常はない」
宙へ吊り上げられたラズが叫ぶ。
「シオン! 聞かないで!」
デウスの目がラズへ向く。
白い光が、ラズの首へ絡みついた。
「抵抗を続けるのであれば、楔を破壊する」
「……っ!」
光の帯が締まる。喉が塞がれ、呼吸が止まりかける。
シオンの目が大きく見開かれた。
「やめろ」
「従え」
「ラズを離せ」
「ならば——」
デウスが床へ並ぶ人々を示す。
「喰らえ」
シオンの奥歯が軋んだ。
否定したい。そんなものは必要ないと、自分の力だけでデウスを殺せると言いたかった。けれど、もう分かっている。届かなかった。拳を何度叩き込んでも、身体を壊しながら限界まで力を引き出しても、デウスは倒れなかった。
足りない。力が必要だった。
「選べ。そうすれば、私を殺せるだけの領域へ近づける」
『喰え』
畳み掛けるように、胸の奥からケイオスが囁く。
「……黙れ」
『ここまで来て、何を惜しむ』
「黙れ」
『人間であることか』
拳が震えた。
『まだ、そんなものが貴様の中に残っていると思っていたのか』
「黙れ……」
シオンは、人間の食事を受けつけなくなってから魔物を喰って生きてきた。肉を裂き、血を啜り、怪物の肉を生きるために腹へ押し込んできた。
しかし、どれほど飢えても、人間だけは喰わなかった。ケイオスに何度囁かれても、人間を喰えと、あれならもっと満たされると、そう言われ続けても拒んできた。
必要なら喰う。そう口にしたこともある。自分には人間らしさなど残っていないと。怪物なのだから、そんな一線に意味などないように、何度も言い聞かせてきた。けれど、実際には一度も越えなかった。
なぜなのか、答えなど出さなかった。出せば、まだ自分の中に、人間だった頃の何かが残っていると、認めなければならなくなる気がしたから。
「……シ、オン」
ラズの掠れた声が聞こえる。白い帯が首へ食い込んでおり、顔が苦痛に歪んでいた。
シオンの瞳が揺れた。
「やめろ……ラズを離せ」
「ならば選べ」
「……お前を殺す」
「そのための力を与えている」
デウスは一切揺らがない。
「私を殺したいのだろう」
「ああ」
「そのためだけに歩いてきた」
「ああ……!」
シオンの視界の端へ、影が現れた。父。母。村人たち。そして、リゼだ。
『殺せ』
幻が言う。
『デウスを殺せ』
別の声が重なる。
『それが終わったら——』
リゼの口元が、冷たく歪む。
『あなたも死んで』
シオンは目を逸らさなかった。
この声が、自分の中から生まれたものだということを、鏡湖でもう否定できなくなっている。それでも、声は消えない。自分が自分へ死ねと言い続けている。
「皮肉なものだ」
デウスの声が幻へ重なる。
「私には星を守るために、貴様の力が必要だ。そして貴様は、私を殺すために力が必要だ」
黒い瞳がシオンを見る。
「目的は異なる。だが、今だけは必要とするものが一致している」
シオンの拳が震える。
デウスの声には、何一つ感情がない。
「兵器になるにせよ、復讐を遂げるにせよ、人間のふりを続ける必要はない」
シオンの目が細められる。
「捨てろ。——すべてを」
デウスは淡々と告げながら、ちらりとラズを見る。
「そして、人を喰らえ」
シオンもラズを見た。
宙に拘束され、呼吸すら満足にできていない。乱れた桃色の髪。その中で、青い星が揺れている。
あの日、露店で欲しそうに見ていながら、値段を知って、悲しそうに元へ戻したもの。壊れかけたときには、自分の手で留め直した。あの星まで今、デウスの白い光に囲まれている。
「シオン……駄目……」
苦しげな声がする。
シオンは、目を逸らせなかった。
「それをしたら……」
「分かっている」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「……分かっている」
人間を殺すことと、人間を喰らい、その肉を自分自身の力へ変えることは同じではない。既に人を殺している。何人も。操られて殺した者も、自分の意思で殺した者もいる。だからといって、次の罪が軽くなるわけではない。罪を重ねた人間なら、さらに何をしても同じだなどと、そんな理屈はシオン自身が一番許せなかった。喰われていい人間などいない。なのに、その境界の向こうにしか、デウスへ届く力がない。
神に敵わなかった。何度立ち上がっても、何度拳を振るっても、届かなかった。その事実は、今も胸の底へ重く沈んでいる。
デウスを殺す。そのためだけに、ここまで来た。ならば、何を捨てるのか。身体か、心か、人間として残ったものか。或いは、全部か。
「シオン!」
ラズが叫んだ。シオンの視線が上がる。
「わたしのことは気にしないで!」
「……黙れ」
「駄目!」
拘束された身体を捩る。
「その一線は越えちゃ駄目!」
シオンの瞳が揺れる。
「わたしを助けるためでも、デウスを殺すためでも!」
声が掠れる。それでも叫び続ける。
「それだけは駄目!」
白い帯がさらに締まった。
「っ……!」
「ラズ!」
「あなたが、それをしたら……!」
涙が滲む。
「もっと、自分を赦せなくなる!」
シオンの表情が歪んだ。
「また……戻れないところまで行っちゃうよ……!」
シオンは答えなかった。
ラズの言葉は正しい。その一線を越えれば、今よりさらに自分を嫌いになる。人間を喰った自分を、シオンは絶対に赦さない。自分でも分かっている。
それでも、シオンはラズを見た。
自分の楔として作られた少女。デウスの道具ではないと、何度も自分の意思で選ぶのだと言った少女。その少女がまた、自分を動かすための道具として目の前で使われている。
腹の底から殺意が湧いた。デウスへの、底のない憎悪。こいつは何も変わらない。リゼを利用した。村を利用した。自分を利用した。そして今、ラズを利用している。赦せない。
しかし、だからといって、人を喰らう罪をデウスのせいにはできない。まだ選んでもいない。それでも、シオンの中に、その考えだけが奇妙なほど明瞭に浮かんだ。
——もし、自分が一線を越えるのなら。
それは、誰かにやらされたことにはしない。ラズを人質にされたから。デウスに追い詰められたから。ケイオスに唆されたから。そんな言葉で、自分がやったことから逃げるつもりはない。選ぶなら、自分が選ぶ。自分の罪として背負う。
まだ、答えを出したわけではない。それでも、その考えが浮かんだ時点で、シオン自身がもう、どこへ向かおうとしているのか気づき始めていた。
視界の端で、リゼの幻が揺れる。血に濡れた姿で、床へ並べられた人間たちの傍らに立っている。
『ほら』
口元が歪み、冷たい笑みを形作る。
『やっぱり、あなたは怪物になるんだね』
「……黙れ」
『守りたいなんて言いながら、結局壊すんだ』
「黙れ……!」
『デウスを殺せるなら、何だってするんでしょう?』
リゼの幻が、床にいる人間へ視線を落とす。
『あなたにとって、人の命なんてどうでもいいもんね』
そして、光のない瞳でシオンを見た。
『わたしたちを殺した、あなたには』
胸の奥へ、冷たい鉛が沈んだ。
「……っ」
吐き気が込み上げる。
今の身体で、身体の機能がどれほど普通の人間と同じ働きをしているのかすら分からない。それでも喉が痙攣する。身体が拒絶している。
『滑稽だな』
今度はケイオスが笑った。
『人をいくら殺しても、喰うのだけは嫌か』
「……」
『何が違う?』
答えられない。
『怪物になったと言いながら、随分と人間らしいではないか』
「黙れ」
『貴様は最初からこちら側だ』
「黙れ……」
『認めろ』
「黙れ!」
叫びが神殿へ響いた。
ラズの声が、遠くから重なる。
「シオン!」
デウスの声も重なる。
「選べ」
シオンは瞼を閉じた。
吐き気。嫌悪。怒り。憎悪。ラズを利用されたことへの殺意。デウスへ届かなかった無力感。そして、目の前に差し出された力への僅かな欲望。全部が胸の中で絡み合っている。何が一番大きいのか、もう自分でも分からなかった。
瞼を開ける。床へ並んだ人間たちを見る。拘束された男。こちらへ罵声を浴びせる罪人。祈り続ける神官。そして、人間の姿さえ失いながら、まだ呼吸を続けている実験体。
誰を選んでも同じだった。罪人だから。デウスへ仕えたから。既に死にかけているから。苦しんでいるから。そんなものは理由にならない。喰われていい人間など、一人もいない。シオンには、誰かの命を自分の復讐のために喰らう権利などない。分かっている。
分かっていて、それでもシオンはゆっくりと拳を開いた。そして一歩、床へ並べられた人間たちの方へ足を踏み出した。
「……シオン?」
ラズの声が震えた。
シオンは答えなかった。その紫と赤の瞳には、まだ迷いがあった。嫌悪も、吐き気も、恐怖に似た拒絶も、すべて残っている。それでも、その奥に今までにはなかった暗い何かが、静かに形を持ち始めていた。




