足りないもの
次の瞬間、神殿を満たしていた空気が一変した。デウスの背後で広げられた純白の翼から、眩い神力が溢れ出す。それまで神殿を静かに満たしていた白い光まで呼応するように集まり、頭上で無数の槍へ形を変えた。
シオンが顔を上げると、無数の槍が降り注いだ。
一閃。シオンは最初の槍を拳で砕いた。続く二本目を左手で弾き、三本目を身を捻って避ける。そのまま床を蹴り、デウスへ向かおうとする。
しかし、終わらない。十。二十。五十。数えることさえできないほどの無数の白い槍が、神殿のあらゆる方向からシオンへ殺到する。
「シオン!」
ラズが叫ぶ。
シオンは構わず拳を振るった。白い槍が次々と砕け、神力の破片が光の雨となって散る。だが、いくらシオンでもすべてを捌ききることはできなかった。一条の光が肩を貫いた。
「っ……!」
次が脇腹を抉り、さらに一本が太腿へ突き刺さる。鮮血が舞った。
ラズの呼吸が止まる。
これまで何度もシオンが戦う姿を見てきた。剣で斬られても、魔法を浴びても、魔物の牙や爪を受けても、その身体に傷がつくところなどほとんど見たことがない。シオンの肉体は、既に人間が傷つけられる範囲から大きく外れている。
だが、今相対しているのは人間でも魔物でもない。この星を守護する神だった。神力の槍はシオンの異常な肉体を貫き、裂き、確かに傷つけていた。
シオンが肩へ刺さった槍を握り潰す。白い光が散るのと同時に、穿たれた肉が盛り上がった。砕けた骨が繋がり、裂けた筋肉が元の形へ戻っていく。
傷は塞がる。しかし、痛みまで消えるわけではない。肉を穿たれる痛み。骨を砕かれる痛み。それが再び繋がる痛み。シオンはそのすべてを受けながら、それでもデウスへ向かって進んだ。
「デウスッ!」
床を踏み砕き、拳を振るう。
デウスの前へ白い盾が現れ、その一撃を受け止めた。衝撃が広間を走り、盾へ亀裂が入る。だが、それだけだった。デウス本人には届かない。
デウスの白い翼が僅かに動く。爆発するような神力が放たれ、シオンの身体が弾き飛ばされた。床へ叩きつけられる。何度も石床を削りながら転がり、巨大な柱を一本へし折った。それでもシオンは、壁へ激突する寸前に片手を床へ突き立てた。五本の指が白い床へ深く食い込む。長い傷跡を刻みながら、ようやく身体が止まった。
「がはっ……」
シオンの口から血が落ちる。右腕は途中から不自然な方向へ折れ曲がっていた。だが、すぐに骨が音を立てて戻る。潰れた肺が膨らみ、砕けた肋骨が内側から繋がっていく。
傷つく。再生する。また傷つく。そのたびに、シオンの周囲へ漂う赤黒い力が濃くなっていった。神に届かない。その事実が、怒りを生む。怒りがケイオスを膨らませる。膨らんだ力で再び挑む。それでも届かない。さらに憎しみが増す。——悪循環だった。
「シオン、無闇に突っ込まないで!」
立ち上がりながら叫ぶ。楔として強制的に起動された不快感が、まだ身体の奥に残っていた。神力を無理やり引きずり出されたせいか、脚にも力が入りきらない。
「今のままじゃ、ケイオスに——」
「黙れ!」
シオンの怒声が飛んだ。声に乗った力だけで、ラズの足元の床へ亀裂が走る。
「……っ」
身体が強張った。
シオンはこちらを見てもいない。紫と赤。左右で異なる瞳はまだそのままだった。ただ、紫の瞳の奥にも、周囲で荒れ狂う赤黒い光が絶えず映り込んでいる。服の隙間から覗く首筋には、血管に沿うような赤黒い亀裂が浮かび、脈動するたびに濃くなっていた。
デウスは、その姿を静かに観察している。焦りも、恐怖もない。まるで実験結果を確かめる者の目だった。
「貴様は強い」
デウスが告げる。
「黙れ……」
「だが、今の肉体では、その力を十分に受け止められていない」
「黙れと言っている」
「怒りも憎悪も足りている。問題は、器の方だ」
シオンの姿が消えた。踏み込んだ場所の床が大きく陥没する。次の瞬間には、デウスの眼前へ拳が迫っていた。
デウスの手に白い光が集まる。今度は盾ではない。細長い光が刃を形作り、純白の大剣となった。
拳と剣が激突する。神殿全体が大きく揺れた。赤黒い力と白い神力が衝突点から噴き上がり、近くの柱が根元から吹き飛ぶ。崩れた天井の一部が巨大な石塊となって降り注ぎ、床へ次々と叩きつけられた。
それでも、デウスの足は動かなかった。
「ぐ……ッ!」
シオンの腕から血が噴き出す。拳から肩までの骨が砕け、折れた骨が皮膚を突き破っていた。それでも腕を引かない。壊れたままの拳を、光の大剣へ押しつける。
「まだ……だ」
赤黒い力がさらに膨れ上がった。今の身体で制御しながら引き出せる、限界に近い力。筋肉が異様なほど張り詰め、傷の塞がりきらない皮膚が内側から裂ける。左胸の石が心臓と重なるように激しく脈打ち、そのたびに全身へ赤黒い力が送り込まれていく。
『そうだ。もっと寄越せ』
ケイオスの声が頭の奥で笑った。
「黙れ……!」
『憎め』
「黙れッ!」
シオンが吼えた。光の大剣へ、一本の亀裂が走る。
ラズの目が見開かれた。
押している。ほんの僅かに。今までびくともしなかったデウスの剣を。——だが。
「それが、現在の貴様の限界か」
デウスの翼が大きく開いた。
「——っ!」
白い光が爆発した。シオンの身体が呑み込まれる。次の瞬間には、遥か後方へ吹き飛ばされていた。床を何度も跳ね、最後には神殿の壁へ叩きつけられる。轟音と共に、白い壁が大きく陥没した。
「シオン!」
ラズが走り出す。
崩れた瓦礫の中で、シオンはすぐに身体を起こそうとしていた。脚が潰れている。膝から下の骨が砕け、白い骨片が肉を突き破り、衣服から露出していた。それでも再生を待たない。片脚を引きずりながら立とうとして、崩れ落ちる。それでもまた、手を床へつく。諦めようとしない。
ラズはその姿を見て、胸が締めつけられた。
ようやく辿り着いたのだ。何年も、この瞬間だけを求めて、すべてを捨てながら。なのに、届いていない。
「——ラズ」
デウスの声が響いた。
ラズの足が止まる。先ほど自分の意思を無視して楔を起動された記憶が蘇り、身体が反射的に強張った。
「貴様は楔だ」
ラズは振り返る。
「シオンの精神を安定させ、その出力を制御するために作った。役割を果たせ」
その言葉に、胸の奥に嫌悪が湧いた。
「嫌です」
「命令だ」
「嫌です!」
ラズは叫んだ。
「わたしは、あなたの道具じゃない!」
「貴様の核を形成しているのは私の神力だ」
「だから何ですか」
デウスの黒い瞳が、僅かに細められた。
「貴様の肉体も、思考の基礎となった人格も、私が構築したものだ」
「それでも——」
ラズは震える身体を押さえ、デウスを見据える。
「わたしは、わたしです」
「その自我さえ、設計の範囲内である可能性を考えないのか」
胸を刺されたような痛みが走った。
何度も考えた。自分がシオンを救いたいと思うこと。隣を歩きたいと思ったこと。傷つけば苦しくなること。名前をもらって嬉しかったこと。そのすべてが、デウスによって最初から作られた反応なのではないか。自分の正体を知った夜、その疑問に押し潰されかけた。精神世界でもケイオスにそこを抉られた。
しかし、ラズはもう、その問いだけで自分を失わなかった。
「何度も考えました」
胸へ手を当て、はっきりと告げる。
「今だって怖いです。わたしが感じてることが、本当に全部わたしのものなのか。どこまでがリゼさんから来たもので、どこまでがあなたに作られたものなのか」
デウスは黙っている。
「分かりません。——でも」
ラズの瞳には、もう迷いの色はない。
「分からないからって、あなたに従う理由にはならない」
デウスの瞳が僅かに動いた。
「作られたものなら、作った人の言うとおりに生きなきゃいけないんですか?」
「……」
「与えられた力なら、あなたのために使わなきゃいけないんですか?」
答えを待たずに続ける。
「わたしは、自分で決めます」
自分の胸へ当てた手を握る。
「あなたから与えられた力でも、何のために使うかはわたしが決める」
静寂が訪れる。やがてデウスが口を開いた。
「ならば——」
黒い瞳がラズを射抜く。
「貴様は、この星よりシオンを選ぶのか」
ラズは言葉に詰まった。
簡単に「はい」とは言えなかった。この星には、自分たち以外にも大勢の人間が生きている。家族がいる。大切な誰かがいる。明日を生きようとしている人々がいる。
神殿の壁に刻まれた祈りも見た。デウスによって救われた命があることも知った。
それをすべて無視して、シオン一人だけを選べるのか分からない。
ラズは少しだけ俯いた。そして、ゆっくり顔を上げる。
「……わたしには、本当にその二つしかないのか分かりません」
デウスは黙っている。
「星を守るか、シオンを人間として扱うか。どちらか一つしか選べないって、あなたは決めた」
ラズはシオンを見る。
崩れた壁の傍らで、ようやく再生し始めた脚に力を入れ、また立ち上がろうとしている。
「だからシオンから何もかも奪って、それを必要だったって言った」
デウスへ視線を戻す。
「わたしは、その選び方をしたくない」
「それでは星は守れない」
「そうかもしれない」
声が震えた。怖い。自分が理想論を口にしているだけなのかもしれない。
「それでも、最初から誰かを道具にすることを正しいって決めたくない」
ラズは言う。
「本当に他の方法がないなら、最後まで探します。それでも見つからなかったら、そのとき何を選べるのか、今のわたしには分からない」
それは綺麗な答えではなかった。それでも、嘘ではない。
ラズは真っ直ぐにデウスを見る。
「でも、少なくとも、シオンの意思を奪って、苦しみも心も全部『必要な代償』にしていいとは思いません」
デウスは何も言わない。
「あなたは星を守るために、人を道具にした」
ラズの声が強くなる。
「でも、そのあなたが、わたしに選ぶ心を持たせた」
胸にある神力が淡く脈打つ。
「なら——あなたが作ったわたしが、あなたのやり方を否定します」
長い沈黙が落ちた。
デウスは、ラズを説得しようとはしなかった。受け入れようともしない。ただ、互いに相容れないという事実だけが、二人の間へ残った。
その時、崩れた壁の奥で、瓦礫が落ちた。
ラズが振り返る。そこにはシオンが立っていた。
「シオン……」
身体の傷は既に塞がり始めていた。だが、先ほどまでとは違う。全身から溢れていた赤黒い力が、今では身体へ密着するように濃くまとわりついている。左目は鮮血のように赤い。右目は、まだ紫。しかし、その紫へ赤黒い光が絶えず映り込み、遠目には色の境界すら曖昧に見えた。
シオンはデウスだけを見ていた。握った拳は震えている。
怒りはある。憎しみも、殺意も、今の身体で引き出せる力も、ほとんどすべて使った。それでも届かなかった。
『足りんな』
ケイオスが、シオンの頭の中で囁いた。シオンは答えない。
『分かっているだろう? 今の貴様では、あの神には届かん』
拳が強く握られる。
『もっと寄越せ』
「……黙れ」
『肉も、骨も、心臓も、貴様の憎悪も。すべて俺へ寄越せ』
ラズにはケイオスの声そのものは聞こえない。だが、シオンの中でケイオスが何かを囁いていることは分かった。
赤黒い気配が、甘く誘うように彼の内側へ絡みついている。
「シオン、聞かないで」
ラズが歩み寄る。
「ケイオスの言うこと、聞かないで」
シオンの唇が僅かに動く。
「……力が」
「え?」
「足りない」
低い声だった。
「今のままじゃ、あいつを殺せない」
ラズの胸が冷える。
「だからって、もっとケイオスに——」
『貴様はこのために生きてきたのだろう?』
ラズの言葉を遮るように、シオンの中で声が続く。
『デウスを殺す』
呼吸が荒くなる。死者の幻が、シオンの脳裏の端へ滲む。
『そして、貴様も死ぬ』
シオンの拳が震えた。
『ならば、今さら惜しむものなどあるまい』
「……惜しむものなど」
「ある!」
ラズの声が重なった。
シオンの目が、初めてデウスから外れた。ほんの一瞬だけラズを見る。桃色の髪。その中で、青い硝子の星が光っている。
「あるよ」
ラズは言う。
「シオンがなくてもいいって思ってても、ある」
「……」
「あなたが死んだら全部終わりだなんて、わたしは認めない」
シオンの顔が歪む。苦痛なのか、怒りなのか、それとも迷いなのか。ラズには分からなかった。ただ、完全には届かなくなっていない。それだけは分かった。
「シオンを終わらせたりしない」
ラズはもう一歩近づく。
「だから、これ以上——」
「その程度では足りない」
デウスの声が割り込んだ。二人が振り返る。底知れない黒い瞳がシオンを見ていた。
「現在の出力では、異星の神との戦闘へ投入しても早期に敗北する可能性が高い」
ラズの身体が強張る。
まただ。デウスは今もなお、シオンを兵器として見ている。
「怒りと憎悪による出力増加だけでは限界がある」
デウスがシオンの身体を見据える。
「ケイオスの力そのものではなく、それを受け止める器の強度が不足している」
「……何が言いたい」
シオンの声が低くなる。
「肉体そのものを、さらに適応させる必要がある」
デウスが左手を上げた。
「連れて来い」
神殿の奥で重い音が響いた。これまで閉ざされていた白い扉が、ゆっくりと開き始める。
ラズは、理由も分からないまま、猛烈に嫌な予感を覚えた。
「何を……」
デウスが答える。
「——シオン」
黒い瞳が、彼を見据える。
「貴様が、今なお人の肉を口にしていないことは把握している」
シオンの表情が凍りついた。ラズもごくりと息を呑む。
「……まさか」
「魔物の肉は、現在の肉体を維持するには足りるだろう」
デウスは淡々と続ける。
「だが、ケイオスは人間の肉を通常の食物とは異なる形で取り込む。器を構成する素材として利用し、その侵食と適応をさらに深い段階へ進める」
「……黙れ」
「人肉を摂取すれば、肉体の強度、再生能力、そしてケイオスの出力を受け止める許容量は上昇する」
シオンの拳が震え始める。怒りだけではない。胸の奥で、別のものが歓喜している。
『ようやくか』
嬉しそうなケイオスの声が響く。
『随分と待たされた』
「黙れ……」
『喰え』
「黙れ」
『貴様がずっと拒んできたものだ』
「黙れ……!」
『だが、欲しいのだろう?』
扉は開き続けている。
『あの神を殺せる力が』
「黙れッ!」
シオンの怒声が響いた。
同時に、開いた扉の向こうから音が聞こえた。浅く、弱々しい呼吸。一つではなく、いくつも。微かな呻き声と、鼻を突く血と薬品の匂い。
ラズの顔から血の気が引いた。
——人間。まだ生きている。
そのことだけは分かった。
「……何をするつもりなの」
ラズの声が震える。
デウスは答えなかった。答える必要すらないと考えているかのように。
けれど、ラズには分かってしまった。シオンをより強い兵器へするため。異星の神へ届くまで、器を完成へ近づけるため。デウスは、今度はシオンへ人間を喰わせようとしている。
ラズはシオンを見る。彼は動いていなかった。
人の肉を喰わない。それは、シオンが怪物へ変えられた後もずっと、越えないと決めてきた一線だった。しかし、その向こうに、デウスを殺すための力がある。
紫と赤の瞳が、開いた扉を見ている。その表情には、深い嫌悪があった。自分自身への、そしてその力を欲しいと感じてしまう可能性への嫌悪。
だが、そのさらに奥にラズは見つけてしまった。
——迷いを。
デウスを殺せるなら。もし、それで届くのなら。そんな考えが、ほんの僅かにでもシオンの中へ入り込んでいる。
以前、シオンと交わしたやり取りを思い出す。シオンは、復讐のためなら人を喰べる可能性を、自分に言い聞かせるように口にしていたことを。
「……シオン」
ラズは震えた。ここから先へ進ませてはいけない。そう思った。けれど、どう止めればいいのか、まだ分からなかった。




