怒りの臨界
「貴様の苦しみも、痛みも、心も——この星を救うために必要な代償だった」
そう静かに告げたデウスの声が、神殿に響く。その瞬間、シオンの周囲から、赤黒い力が爆発するように噴き上がった。
「シオン!」
ラズは咄嗟に両手を広げる。完全には修復できていなかった封印搬送の膜へ神力を流し込み、シオンの周囲を覆おうとする。しかし、薄い白光が形を成した直後から赤黒い亀裂が走り、一瞬のうちに引き裂かれた。
「っ……!」
もう一度。また砕ける。さらに神力を注ぐ。それでも、維持できない。シオンから溢れ出している力が、これまでとは比較にならないほど膨れ上がっていた。
第一の門へ近づいたとき。第二の門で己の心を突きつけられたとき。落神の戦場で神の残滓を前にしたとき。主神殿の姿を見たとき。デウスへ近づくたびに、シオンの中の怒りと憎しみは鋭さを増してきた。そして今、そのすべてを生み出した本人が、父も、母も、リゼも、故郷も、シオン自身の心さえ、星を守るために支払った「代償」だと言った。
『そうだ』
胸の奥で、ケイオスが歓喜する。
『怒れ』
心臓と癒着した赤黒い石が、大きく脈打った。
『憎め』
シオンの拳が震える。
『貴様の苦しみを、この神は代償と呼んだぞ』
左の赤い瞳が強く輝く。右目の紫の奥では、赤い光が脈打つようにちらついている。
ラズの背筋に冷たいものが走った。このままでは、デウスと戦う前に、シオン自身がケイオスへ呑まれる。
「デウス!」
ラズはデウスへ向き直った。怒りで声が震える。
「あなたは……シオンに謝るべきです!」
デウスの黒い瞳が、静かにラズへ向けられた。
「星を守るためだったとしても、あなたはシオンから全部奪った! リゼさんを利用して、死んだ後まで使って、わたしまで道具として作った!」
息を吸い、必死に叫ぶ。
「謝ったからって赦されることじゃない。それでも……必要だったって、それだけで終わらせていいはずがない!」
デウスの口が、静かに開かれた。
「謝罪に意味はない」
その声からは、感情らしいものを感じ取ることができなかった。
「意味がない……?」
「私が謝罪したところで、失われたものは戻らない」
何一つ表情を変えない。
「死者は蘇らない。シオンの肉体も元には戻らない。貴様が生まれたという事実も消えない」
「だからって……!」
「そして」
デウスがラズの声を遮った。
「私は、自らが罪を犯したことも理解している」
ラズが息を呑む。
「シオンから故郷を奪った。多くの人間を実験材料として用いた。死者の残滓を利用し、貴様をシオン制御のための道具として作った」
シオンの拳が、さらに強く握られる。それでもデウスは続けた。
「だが——もし再び同じ状況になれば、私はもう一度同じ選択をする」
その瞬間、神殿から音が消えた。
ラズは、一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
「……え?」
デウスの様子は変わらない。
「この星を守るために必要ならば、私は再び同じ罪を犯す」
その瞬間、シオンの中で何かが切れた。
赤黒い力が、翼のようにシオンの背後へ広がった。拳すら振っていない。それなのに、足元の白い床が砕ける。亀裂が神殿を走り、遠くの柱まで低い音を立てて震えた。
「シオン!」
ラズが叫ぶ。だが、今度は届かない。シオンはデウスだけを見ていた。父も、母も、リゼも、村も、死者の幻すら、今は意識の外へ消えている。
目の前にいる。自分からすべてを奪った神が。リゼを一度殺すために利用し、その死後に残ったものまで再び利用した神が。そして、自分がしたことを理解しながら、もう一度でも同じことをすると言い切った神が。
「……もう一度」
シオンの声が漏れた。その声は低く、震えている。怒鳴り声よりもなお、ラズには恐ろしく聞こえた。
「もう一度、同じことをするだと」
「必要ならば」
デウスは即答した。
シオンの拳へ、赤黒い力が集中する。
「——なら」
紫と赤の瞳が、鋭くデウスを射抜いた。
「やはり、お前はここで殺す」
ラズが咄嗟に前へ出ようとした、その時だった。
デウスが片手を上げた。
「え——」
ラズの足元へ、白い術式が浮かび上がる。見覚えがあった。封印搬送に使ってきたものとは違う。もっと深い、自分自身の身体の構造へ直接触れてくるような術式。
「な……に……」
身体が動かなくなった。胸の奥が強く脈打つ。ラズ自身が引き出そうとしたわけでもないのに、神力が身体の奥から無理やり引きずり出されていく。
「やめ……て……!」
抵抗しようとする。だが、身体が命令を聞かない。デウスの神力が自分の核へ直接触れている。ラズを作る際に組み込まれた、デウス由来の神力。そして、シオンへ干渉するために最初から与えられていた楔としての機能。それらが、持ち主であるラズの意思を無視して起動させられている。
「シオンがケイオスに侵食されつつある」
デウスが淡々と告げた。
「ケイオスによる侵食がこれ以上進行すれば、制御可能な兵器としての運用が困難になる」
「やめて……!」
「楔を起動する」
ラズの身体から、白い神力が溢れ出した。神力は幾本もの鎖の形を取る。
「対象シオンの精神状態を安定化。干渉経路を再接続する」
「嫌……!」
白い鎖がシオンへ向かって伸びる。
「やめて!」
避ける間もなく、鎖はシオンの両腕へ絡みついた。脚へ、胴へ、そして左胸へ。
「ぐ……っ!」
シオンの身体が大きく仰け反った。デウスの神力。己の中にあるケイオスと相反する力が、身体へ直接食い込んでくる。白い光が触れた場所から、皮膚の奥まで焼かれるような痛みが走った。だが、シオンが最初に見たのは、自分を縛る鎖ではなかった。——ラズだった。
彼女は泣いている。身体を動かすことすらできず、自分の意思とは無関係に神力を奪われ、シオンを縛るための道具として使われている。
「違う!」
ラズが叫ぶ。
「シオン、違うの!」
涙が頬を伝う。
「わたしじゃない!」
シオンの瞳が揺れる。
「わたしは……こんなこと、したくない!」
その言葉を聞いた瞬間、シオンの怒りがさらに形を変えた。
自分を壊された怒り。父と母を奪われた憎しみ。リゼを殺した罪悪感。自分自身への殺意。それらの奥へ、新しい怒りが加わる。——またこいつは、人を勝手に道具にした。
『いいぞ』
ケイオスが笑う。心臓が、ドクンと激しく脈打った。
『それだ』
赤黒い力が全身を巡る。
『怒れ』
白い鎖が軋む。
『憎め』
シオンは両腕へ力を込めた。
「ぐ、ぅ……!」
神力の鎖が肉体へ食い込む。抵抗するほど痛みは増す。だが、それでも構わない。
「シオン、駄目!」
ラズが叫ぶ。だが、シオンは止めなかった。
鎖を掴む。指先から血が滲む。腕へ赤黒い亀裂のような光が走る。
「ラズを——」
低い声が響いた。デウスの黒い瞳がシオンを見る。
「道具にするな」
赤黒い力が爆ぜた。一本、さらに一本と白い鎖へ亀裂が走る。
「……出力が上昇したか」
デウスが僅かに目を細めた。
「だが、まだ不完全だ」
「黙れ」
シオンは鎖を引いた。白い神力が激しく抵抗し、全身へ痛みが走る。それでも歯を食いしばる。
「二度とお前の都合で……」
さらに力を込める。
「こいつを使うなッ!」
轟音と共に、白い鎖が一斉に砕け散った。無数の光の破片が、雪のように神殿へ舞う。
「……っ!」
楔としての強制起動が途切れた。ラズはその場へ崩れ落ちる。
「シオン……!」
名前を呼ぶ。けれど、その声が届くより早く、シオンは床を蹴っていた。今度はラズにも止められなかった。
爆発音にも似た轟音が響いた。踏み込んだだけで床が大きく陥没する。シオンの身体が、赤黒い閃光となって神殿を駆け抜け、一瞬でデウスの目前へ到達すると拳を振り抜く。
デウスが片手を上げた。白い神力が集まり、一枚の盾を形成する。
激突。空間が震えた。衝撃が神殿全体を駆け抜け、遠くに並ぶ柱へまで亀裂が走る。白い盾の表面にも、細い亀裂が一本入った。
シオンは止まらない。
「ッ!」
二撃目。盾が軋む。三撃目。亀裂が広がる。四撃目。赤黒い力が、白い神力へ喰らいつく。
拳を振るうたび、怒りが膨らむ。
父を殺した。母を殺した。村を壊した。リゼを殺した。そのすべてが、目の前にいる神によって仕組まれていた。そして、その神は、同じ状況になればもう一度やると言った。
「おおおおおッ!」
シオンが吠え、さらに拳を叩き込む。盾の一部が砕け、白い光が飛び散る。
しかし、その向こうに見えたデウスの顔は無傷だ。表情一つ変わっていない。それがさらに腹立たしい。
「デウスッ!」
一撃。
「お前が!」
二撃。
「父さんを!」
三撃。
「母さんを!」
所々が破れた手袋から露出した拳の皮膚が裂け、血が飛ぶ。
「リゼを!」
盾へ巨大な亀裂が走った。
「ラズまで!」
拳を振りかぶる。
「勝手に使うなッ!」
渾身の一撃と共に、白い盾が砕けた。無数の光が散る。シオンはそのまま拳をデウスの顔面へ突き込もうとした。
だが、寸前で新たな白い光が拳を受け止めた。
「……っ!」
見えない壁。先ほどまでの盾とは違う。シオンの拳が止まっている。それでも拳を押し込む。赤黒い力をさらに内側から汲み上げ、流し込む。それでも動かない。初めて、シオンの表情に僅かな困惑が浮かんだ。
デウスは、依然として一歩も動いていなかった。
「シオン」
静かな声で名前を呼ぶ。しかし、名を呼ぶその声に親しみは感じられない。まるで道具の識別名を呼ぶようだった。
「貴様の怒りが、ケイオスの出力を引き上げることは知っている」
シオンは答えず、さらに拳へ力を込める。
「その憎悪も、私へ向ける殺意も——」
デウスの背で、純白の翼がゆっくりと広がり始める。一枚、また一枚と白い羽根が光を受ける。
「すべては力を増幅させる薪となる」
神殿を満たしていた神力が変わった。それまで静かに流れていた白い光が、一斉にデウスへ集まり始める。
ラズは床へ膝をついたまま息を呑んだ。
何かが違う。今までのデウスは、ただ受け止めていただけだった。戦ってすらいなかった。
デウスの翼が完全に開く。
「それでも」
黒い瞳が、真正面からシオンを見据えた。
「——今の貴様では、まだ私には届かない」
次の瞬間。白い神力が、神殿全体を埋め尽くした。




