神の秤
白い扉が、音もなく開いていく。その先に広がっていたのは、主神殿の中枢だった。
天井は見上げても果てが分からないほど高く、巨大な柱が雲のような白い光をまといながら整然と立ち並んでいる。床も磨かれた石ではなく、星脈を流れていた光そのものを固めたかのように淡く輝き、足を踏み出すたび、水面へ落ちた雫のような白い波紋が広がっていった。
そして、壁一面には無数の文字が刻まれていた。飢饉から救われた村の祈り。魔物の襲撃を免れた街からの感謝。病を癒された者、子を授かった者、戦場から生還した者たちの言葉。異星の神々への恐怖もある。
——守ってください。導いてください。どうか、見捨てないでください。この星を。わたしたちを。
そのすべてが、一柱の神へ向けられていた。——デウス。この星を守護してきた神。人々にとっては、祈りを聞き届け、災厄から守ってきた存在。
だが、シオンは壁を見ることすらしなかった。彼の視線は、神殿の最奥へ一点に注がれている。
白い玉座。その前に、一人の男が立っていた。床に届くほど長い白髪。光を受けても何一つ映し返さない、深い黒の瞳。背には大きな純白の翼が広がり、細かな刺繍を施された白い神衣には、塵一つ付いていない。
ラズは息を呑んだ。記録の中で見た姿と同じだった。
——デウス。自分を作った神。リゼの死後に残されたものまで利用し、シオンを縛るための楔として自分を生み出した存在。そして、シオンからすべてを奪った神。
「……デウス」
シオンの口から、その名が漏れた。名前を呼んだというより、長年胸の底へ沈めてきた呪いを吐き出したような声だった。全身から赤黒い力が噴き上がる。
デウスは動かなかった。ただ、こちらを見ている。
「来たか、シオン」
静かな声だった。その一言が届いた瞬間、シオンの姿が消えた。
「シオン!」
少なくとも、ラズの目にはそう見えた。
床を踏み砕く音だけが遅れて響き、次の瞬間にはシオンがデウスの目前へ迫っている。振り抜かれようとしている拳には赤黒い力がまとわりつき、その一撃だけで周囲の空間が軋んでいた。
——止めなければ。
考えるより先に、ラズは神力を引き出した。
「待って!」
封印搬送に使っていた神力を、シオンの腕の周囲へ瞬間的に集中させる。白い膜が拳へ絡みつき、その勢いをほんの僅かに鈍らせた。同時に、デウスの前へ、白い光の壁が現れる。
シオンの拳が激突した。轟音と共に、神殿全体が揺れる。床を走った白い光が激しく乱れ、柱の表面へ細かな亀裂が入った。それでも、デウスは一歩も動かなかった。
光の壁に受け止められた拳から、赤黒い力が溢れ続けている。白い神力へ喰らいつくように侵食し、壁の表面へ赤黒い亀裂を広げていく。
「シオン!」
「邪魔をするな!」
怒声が神殿へ響いた。ラズの身体が反射的に強張る。それでも退かなかった。
「話をして!」
シオンが振り返る。左の赤い瞳が、燃えるようにラズを射抜いた。右目は紫のままだったが、その奥には理性を焼き尽くしかねないほどの憎悪が渦巻いている。
「何を話すことがある」
「聞かなきゃいけないことがある!」
「俺にはない」
「わたしにはある!」
ラズの声も、白い神殿へ強く反響した。シオンの顔が険しくなる。
胸の奥から、ケイオスが嗤った。
『何を止まる必要がある』
赤黒い力が脈打つ。
『目の前にいるぞ、シオン』
「……」
『貴様を壊した神が』
拳が震える。
『何年も殺したいと願い続けた相手が、今そこにいる』
シオンの身体が、再びデウスへ向きかける。ラズはその前へ出た。
「今ここでケイオスに引っ張られたら駄目」
「どけ」
「嫌」
「ラズ」
低い声。主神殿へ入る前に聞いた「引き返せ」という声とは違う。今度は明確な怒りがあった。それでもラズは彼の正面から退かなかった。
「あなたが言ったんでしょう。デウスは自分で殺すって」
シオンの動きが止まる。
「ケイオスに身体を奪われて、ケイオスがデウスを殺したら、それはあなたの復讐じゃない」
「……」
「だから、少しだけでいい。わたしに話させて」
ラズは息を整える。
「わたしも、あの神に聞かなきゃいけないことがある」
胸元へ手を当てる。
「わたしは、デウスに作られたから」
シオンは荒く息を吐いた。獣のような呼吸。全身は今にも飛び出せるほど緊張し、拳も下ろされていない。
それでも、しばらくしてゆっくりと腕が下がった。
「……長くは待たない」
ラズは小さく頷いた。
「うん」
それで十分だった。シオンがデウスを赦したわけではない。話し合いに意味を見出したわけでもない。ただ、ラズが聞きたいと言ったから。そして、自分自身の手で復讐を遂げるために、今だけケイオスへ主導権を渡さないと決めたから。それだけだった。
デウスは、その一連のやり取りを何も言わず見ていた。驚いた様子もない。まるで、そこにいる二人を観察しているかのようだった。
ラズはデウスへ向き直る。脚が震えている。恐怖なのか、怒りなのか、自分でも分からなかった。
目の前にいるのは、自分の存在そのものへ関わる神だ。それでも、一歩前へ出る。
「……デウス」
光を映さない黒い瞳が、ラズへ向けられた。
「ラズ、と呼ばれているのだったな」
その言い方に、ラズの胸が冷えた。
——呼ばれている。
まるで、誰かが便宜上つけた呼称にすぎないとでも言うように。
記録の中で知った。自分には、最初から名前すら用意されていなかった。シオンに名付けさせることまで含めて、デウスの計画だった。——それでも。
「違います」
ラズはまっすぐデウスを見る。
「わたしは、ラズです」
はっきりと力強く宣言した。
「そう呼ばれているだけじゃない」
髪に留められた青い星が、小さく揺れる。
「あなたが何のためにわたしを作ったとしても。何を材料にしたとしても。今ここにいるわたしの名前は、ラズです」
デウスはしばらく黙っていた。やがて、「そうか」とだけ答えた。肯定でも、否定でもない。そこに温度はなかった。
ラズは唇を噛む。
「あなたは、シオンに何をしたのか、分かっていますか」
「分かっている」
即答だった。ラズの目が僅かに見開かれる。デウスは、言葉を選ぶ様子すら見せなかった。
「私はシオンへケイオスを埋め込んだ。その力に適応させるため肉体を改変し、結果として通常の人間とは異なる生理へ変質させた。睡眠を必要としない身体。人間の食物を受けつけない性質。通常の手段では容易に損壊しない肉体と、それに伴う破壊力」
背後でシオンの拳が震える。その音が、ラズには聞こえた気がした。
「そして、ケイオスの力が怒りと憎悪へ強く反応することを確認した」
デウスの黒い瞳が、シオンへ移る。
「そこで、貴様の故郷を用いた」
「……っ」
空気が軋んだ。シオンの足元へ亀裂が走る。
「家族、村人、そしてリゼ」
シオンが殺した者たちを並べるたびに、赤黒い力が膨れ上がっていく。
「貴様にとって帰る場所であったものを、貴様自身の手で破壊させた」
「シオン!」
ラズは即座に神力を広げた。完全には直っていない封印搬送の膜を、もう一度シオンの周囲へ展開する。赤黒い力が激突し、白い膜が軋んだ。
「抑えて!」
「……分かって、いる」
声が怒りで震えている。シオン自身も分かっている。ここでケイオスへ呑まれれば、自分の復讐ではなくなる。だから、拳を握ったまま必死に踏みとどまっている。
デウスはそれを見ても、話を止めなかった。
「その後、貴様が精神的に崩壊し、自壊へ向かう可能性が高いことも想定した」
今度は、視線がラズへ戻る。
「そのため、リゼの魂の残滓と、貴様の記憶から抽出したリゼの人格、言語、表情などの傾向。そして私の神力を用い、精神へ深く介入可能な楔を構築した」
ラズの胸が痛んだ。何度聞いても、楔という自分を指すその言葉には慣れない。
デウスが指先を僅かに上げる。
「それが、貴様だ」
身体が震えた。けれど、ラズは退かなかった。
「そこまで」
声も震えている。
「そこまで全部分かっているなら……どうして」
唇を噛む。
「どうして、そんなことができたの」
デウスは答えた。
「必要だったからだ」
「……必要?」
「ああ」
あまりにも静かな声だった。
「この星は、幾度も外から来る神々に脅かされてきた」
神殿の壁へ刻まれた祈り。異星の神々から守ってほしいと願った人々の言葉が、ラズの視界の端に入った。
「この星はまだ若い。異星の神々は手強い。私一柱で守り続けることにも限界がある。いずれ、私だけでは対処できなくなる可能性があった」
「だから……」
ラズは呟く。
「だから、ケイオスを使おうとしたの?」
「そうだ」
「シオンを使って」
「そうだ」
「シオンを壊してまで?」
「そうだ」
返事には迷いがない。
ラズの指先が震える。
「リゼさんを殺させたのも?」
「必要だった」
「村の人たちを全員殺させたのも?」
「必要だった」
「死んだリゼさんの魂まで使って、わたしを作ったのも?」
「必要だった」
同じ答えが何度でも、全く揺らがず返ってくる。ラズは、怒りより先に寒気を覚えた。デウスは知らなかったのではない。シオンがどれほど苦しむのか、何を失うのか、理解できなかったわけでもない。自分が何をしたのか、すべて把握している。その上で選んだのだ。
「あなたは……」
ラズの声が掠れる。
「後悔していないの?」
初めて、デウスがすぐには答えなかった。僅かに目を伏せる。ほんの一瞬。その動きだけを見れば、ラズには、人間と同じ迷いがあるようにも思えた。
しかし、再び上げられた顔は人間ではなく、神のものだった。
「後悔することは許されない」
「……許されない?」
「私が後悔すれば、私自身が、それらの犠牲は払うべきではなかったと認めることになる」
ラズは息を呑む。
「謝罪すれば、別の道を選ぶべきだったと認めることになる。シオン一人を守るために、この星全体を危険へ晒すべきだったと」
「そんなこと……」
「私は神だ」
デウスが遮る。
「この星の守護者として生まれた」
黒い瞳がシオンを見る。
「私は個ではなく、全を選ばなければならない」
革が軋む音が聞こえた。強く握られすぎたシオンの拳から発せられた音だった。
「……全」
シオンの低い声が漏れる。デウスが僅かに首を傾ける。
「そうだ」
「俺たちは、そのために捨てた個か」
シオンの声は、不気味なほど静かだった。
ラズがシオンを見る。その顔から、先ほどまで表に出ていた激しい怒りが消えている。——いや、消えたのではない。もっと深い場所へ沈んでいるのだ。
「お前は、リゼも、父さんも、母さんも、村の全員も、俺も——」
シオンから溢れ出す赤黒い力で、周囲の空間が軋む。
シオンは、左右色違いの瞳で真っ直ぐにデウスを見据えた。
「全部、星のために必要だったと言うのか」
デウスは、その問いから目を逸らさなかった。
「そうだ」
短い答え。そして、恐ろしいほど静かに、当然の事実を告げるように続けた。
「貴様の苦しみも、痛みも、心も——」
黒い瞳が、シオンを真っ直ぐに見据える。
「この星を救うために必要な代償だった」




