神へ至る道
白い光の中を、二人は落ちていた。上も下もない。足を置く場所もなければ、見上げる空もない。ただ、星明かりにも似た無数の光が巨大な奔流となって闇の中を走り、その流れに二人の身体が運ばれていく。
——星脈。
地中を巡り、この星の隅々へ神力を運ぶ経路。記録の中で存在を知っただけだったものの内部を、今、二人は通っている。
本来の巡礼者ならば、もっと穏やかに進めるのだろう。デウスの加護印に守られ、三つの門で認められた神官が、祈りを胸に主神殿へ導かれる。そのために作られた道なのだから。
だが、シオンとラズは違う。
「っ……!」
光の流れが大きく乱れ、シオンの身体が弾かれた。
「シオン!」
ラズは咄嗟に手を伸ばし、その腕を掴む。
「離せ!」
「嫌だって言ってるでしょ!」
引き寄せた瞬間、掌に焼けつくような痛みが走った。ラズの神力と、シオンから漏れ出すケイオスの力。二つが触れるたびに反発し、白と赤黒の火花が散る。
第三の門を越えた時点で、封印搬送の術式はすでに限界に近かった。シオンを覆っていた薄い膜には無数の亀裂が走り、ラズが神力を流して塞いでも、その直後から再び破れ始めている。
それでも、手は離さなかった。シオンも、強く振り払うことはしなかった。
二人はそのまま、光の奔流へ押し流されていく。やがて、遥か前方に、巨大な影が浮かんだ。
「あれ……」
ラズが息を呑む。
白亜の神殿。どこかの大地に建っているのではない。星脈が集まる光の中へ、現実から切り離されるように浮かんでいる。雲を貫くほど巨大な白い柱。神殿を囲う幾重もの結界。星脈の光そのものから作られたような長い階段。人間が住むための建造物ではない。神のためだけに作られた場所。デウスの主神殿。
それが視界に入った瞬間、握っていたシオンの手が強張った。
「……デウス」
掠れた声だった。低く、獣の唸り声のようだ。
ラズは咄嗟に、その手をさらに強く握る。
「まだだよ」
シオンは答えない。紫と赤の瞳が、白亜の神殿だけを見つめていた。
「……いる」
「分かるの?」
「ああ」
即答だった。
「いる。あの奥に」
あの日から、何年も探し続けた。夢に見ることもなく、眠ることさえできない夜を幾度も越え、デウスへ辿り着くためだけに歩き続けてきた。その相手がもう、手の届く場所にいる。
『そうだ』
胸の奥で、ケイオスが笑う。
『いるぞ、シオン』
赤黒い力が膨れ上がる。
『貴様を壊した神が』
シオンの拳が握られる。
『父を』
「……黙れ」
『母を』
「黙れ」
『リゼを奪った神が』
「黙れッ!」
赤黒い力が一気に噴き上がった。星脈の光が激しく反応し、シオンの身体を異物として弾こうとする。
「シオン!」
ラズは慌てて封印搬送の膜へ神力を注ぎ込んだ。しかし、もう修復が追いつかない。
「お願い、今だけ抑えて!」
「分かっている」
「分かってない!」
ラズは叫んだ。
「今にも全部壊しそうな顔してる!」
シオンがゆっくりラズを見る。その口元が、僅かに歪んでいた。笑っているようにも見える。けれど、喜びではない。
「壊しに来た」
ラズの胸が冷えた。
「デウスを殺す。そのために来た」
「……うん」
「あいつが作ったものも、俺を縛ったものも、全部壊す」
シオンの声に迷いはなかった。
「それで何が悪い」
ラズは一瞬、言葉を失う。それでも、問いかけた。
「その後は?」
シオンの表情が固まる。
「デウスを殺した後、シオンはどうするの」
返事はない。分かっていた。だからこそ、聞いた。
「わたしは止めるよ」
「……またそれか」
「何度でも言う」
光の流れが激しく揺れた。主神殿が近づいてくる。もうすぐこの光を抜ける。その先でデウスと会う。そうなったら、シオンはもう止まらないかもしれない。ラズはその恐怖を振り払うように続けた。
「あなたがデウスを殺した後、自分も死のうとするなら、わたしは邪魔する」
「邪魔をすれば、お前も巻き込まれる」
シオンの声が冷たくなる。
「それでも——」
「俺は止まらない」
「止める」
「お前に何ができる」
ラズの声が詰まった。何ができるのか分からない。自分は、シオンを制御する楔として作られた。そのための力が自分にはある。もし、その機能を完全に使えば、シオンを縛ることができるのかもしれない。けれど、それは嫌だった。デウスがシオンを道具として扱ったのと同じように、自分の意思を押しつけてシオンを縛ることはしたくない。それでも、死なせたくない。
「……分からない」
ラズは答えた。シオンが僅かに眉を動かす。
「まだ、分からない。でも考える」
「……」
「最後まで考えるよ。あなたを縛る以外の方法を。あなたを道具として扱わずに、それでも死なせない方法を」
「無駄だ」
「無駄でもやる」
シオンは目を逸らした。その横顔を見つめて、ラズは思う。きっと、もう時間はほとんど残っていない。
神殿を囲う結界が、目前へ迫った。その瞬間、ひび割れていた封印搬送の膜が、ついに限界を迎える。甲高い音と共に、白い膜が砕けた。
「っ!」
ケイオスの気配が星脈へ剥き出しになる。同時に、主神殿を囲っていた幾重もの結界が一斉に反応した。空間へ無数の白い槍が形成される。それらはすべて、シオンへ向いていた。
「来るぞ」
シオンが拳を構えた。
「待って!」
ラズはその前へ飛び出した。
「どけ!」
「嫌!」
結界に示すように、身体の奥から神力を引き出す。デウスから与えられた力であり、自分を楔として作るために使われたもの。そのことを思うだけで、今も胸の奥には嫌悪がある。けれど、この力を何に使うかはもう、自分で決める。
「封印対象、到着!」
ラズは声を張った。
白い槍が止まる。
「搬送者ラズ! 対象シオンの外周隔離は破損! 対象内部のケイオスは完全封印不能!」
神殿の結界が激しく明滅する。
「でも、対象の意識は残っています!」
ラズは振り返る。視線の先にはシオンがいる。赤黒い力を漏らしながら。それでもまだ、シオン自身の目でこちらを見ている。
「主神殿への搬送を完了します!」
ラズは結界へ向き直った。
「この人は、破棄物でも、研究材料でもない!」
シオンの瞳が僅かに揺れた。
「デウスに会いに来た——シオンです!」
瞬間、すべてが静止した。光も、槍も、星脈の流れさえ、一瞬だけ止まったように感じた。
そして、結界の向こうから何かが二人を見た。
「……っ」
ラズの身体が強張る。
圧倒的な神力。静かで冷たい。なのに、この星そのものに触れられているような、途方もない存在感。
「デウス……!」
シオンの声が憎悪で震えた。直後、赤黒い力が爆発する。白い結界へ叩きつけられ、神域全体が軋んだ。
「今はまだ駄目!」
ラズがシオンの腕へしがみつく。
「離せ!」
「離さない!」
結界が二人を呑み込む。白い光が弾け、次の瞬間、二人の身体は硬い床へ投げ出された。
「……っ」
ラズは身体を強く打ちつけ、息を詰まらせた。視界が揺れる。それでも、最初に確認したのは自分の手だった。まだシオンの手を掴んでいる。
彼もすぐ隣に倒れていた。だが、ほとんど間を置かず、身体を起こそうとする。
「シオン、待って」
ラズは痛む身体を起こし、その手を軽く引いた。シオンが振り払おうとする。しかし、その動きは途中で止まった。
二人の前には、白い神殿が広がっていた。外庭。空はない。雲もない。代わりに、無数の星脈が光の川となって神殿の周囲を巡っている。
巨大な柱が整然と並んでいた。柱の表面には、彫刻が刻まれている。異形の存在と戦う白い翼の神。人々の前に降り立つ神。大地へ手をかざす神。祈りを受ける神。デウスがこの星を守護してきた歴史なのだろう。だが、ある場所を境に、彫刻は不自然に途切れていた。
シオンはそれを見ることもなく立ち上がる。紫色の右目。赤い左目。身体からはまだ赤黒い力が漏れている。それでもまだ、ケイオスではない。シオンだった。
そのことを確認し、ラズはようやく小さく息を吐いた。
「……着いた」
シオンは本殿を見る。
「いる」
短い声だった。しかし、これまで聞いた中で最も冷たい。
「この先だ」
ラズも立ち上がる。脚が震えた。
三つの祈祷門を越え、星脈を通り、限界まで封印搬送の術式を維持した。身体の奥にある神力も、大きく消耗している。しかし、休む時間はなかった。
シオンが歩き出そうとする。
「シオン」
声をかけたが、彼は止まらない。
「デウスを殺すことを、今ここで止められるとは思ってない」
歩みが僅かに鈍る。
「止めるべきなのかも、まだ分からない」
やがて、シオンの足が止まった。
「でも」
ラズはその背中を見る。
「その後、あなたが死ぬことは認めてない」
沈黙。
「わたしは最後まで——」
「ラズ」
言葉は遮られた。
シオンがゆっくりと振り返る。その顔に、先ほどまでの激しい憎悪はなかった。寧ろ、ひどく静かだった。
「引き返せ」
ラズは目を瞬かせた。
「……え?」
「ここから先には来るな」
「何言って——」
「最後の忠告だ」
声は低い。けれど、怒鳴ってはいなかった。
「星脈を戻れば、三つの門を逆に辿れるかもしれない。今ならまだ間に合う」
「嫌だよ」
「聞け」
珍しく強い声でラズの言葉を遮る。
「この先で、俺はデウスと戦う」
「分かってる」
「分かっていない」
シオンの拳が握られる。
「今までとは違う」
ラズは黙る。
「デウスを殺すためなら、俺は出せる力をすべて使う」
その声には、迷いがなかった。
「身体がどうなろうが関係ない。ケイオスの力も、使えるものはすべて使う」
「シオン……」
「俺自身がどうなるかも、どうでもいい」
ラズの表情が強張る。分かっていたはずだった。それでも、本人の口から聞かされると息が苦しくなる。
シオンは一度、ラズから視線を逸らした。
「そうなれば、俺がお前まで守れる保証はない」
「……」
「それどころか——」
声が僅かに重くなる。
「俺の力で、お前を巻き込むかもしれない」
ラズは何も言えなかった。
シオンの拳は、魔物を容易く砕く。人間なら一撃で原形すら残さない。ただでさえ圧倒的な力なのに、デウスを殺すためにその力をさらに解放すれば、どれほどの被害が周囲へ及ぶのか。シオン自身にも分からない。
「だから帰れ」
ラズを見る。
「お前まで死ぬ必要はない」
その一言に、ラズの胸が強く締めつけられた。自分は死ぬつもりなのに、ラズには死ぬなと言う。その矛盾を、シオン本人はおかしいとも思っていないのだろう。
「……じゃあ」
ラズは震える声で尋ねた。
「シオンは死んでいいの?」
シオンは、動揺する様子もなく平然と答える。
「俺とお前は違う」
「何が違うの」
「全部だ」
「そんな答えじゃ分からない」
「分からなくていい」
シオンは冷たく言う。
「——お前は生きろ」
ラズの瞳が揺れた。
シオン自身も、言った後で僅かに顔を歪めた。それは、自分が口にしていい言葉ではないとでも思ったような表情だった。
ラズは、ゆっくり首を横に振る。
「嫌」
「……」
「帰らない」
シオンの眉間へ深い皺が寄る。
「死ぬかもしれないと言っている」
「聞いたよ」
「俺がお前を殺すかもしれない」
「それも聞いた」
「なら——」
「それでも行く」
ラズは一歩近づいた。声が僅かに震える。
「だって、シオンが一人になったら……本当に、自分まで全部捨てるでしょう?」
シオンの瞳が揺れた。
「わたしがいても止められないかもしれない。あなたの戦いに巻き込まれて、本当に死ぬかもしれない」
一度息を吸う。
「怖いよ。すごく怖い」
ロイエを殺したシオンを思い出す。精神世界で暴れたケイオスを思い出す。三つの門を越えるたびに膨らんでいった、彼の憎悪を思い出す。
「でも、それでもここまで来たの」
澄んだ海面のような碧の瞳が、真っ直ぐにシオンを見る。
「最後だけ一人で行かせるためじゃない」
「……馬鹿か、お前は」
「うん。そうかも」
「死ぬぞ」
「死なないように頑張る」
「そういう話では——」
「シオンもね」
シオンの言葉が止まる。
「シオンも、死なないようにして」
「……」
「約束してなんて言わない。今のシオンが約束してくれないことくらい分かってる」
ラズは小さく息を吐いた。
「でも、わたしは諦めないから」
長い沈黙が流れた。やがて、シオンがラズから目を逸らす。
「……好きにしろ」
いつもの言葉。けれど、今までで一番苦しそうに聞こえた。
ラズは小さく頷く。
「うん」
髪に留められた青い星へ触れる。
「好きにする」
シオンの視線が、一瞬だけその手元へ落ちた。自分が留め直した、小さな星。それを見て、何を思ったのか。何も言わない。ただ、今度こそ離れろとは言わなかった。
「行くぞ」
「うん」
二人は並んで、本殿へ足を踏み入れた。白い廊下の奥から、静かな神力が流れてくる。冷たく、圧倒的で、この星そのものに触れられているかのような力。
歩くほどに、シオンの身体は硬くなっていく。拳が握られる。左胸の奥で、ケイオスが歓喜している。
『もうすぐだ』
シオンは答えない。
ラズはその隣を歩きながら、必死に考えていた。どうすればシオンを死なせずに済むのか。どうすれば彼を縛らず、道具として扱わず、それでも彼が自分自身を捨てようとしたとき、止められるのか。答えはまだない。それでも、探すことをやめるつもりはなかった。
二人の前で、巨大な白い扉が、音もなく開いていく。
その奥。広大な神殿の最奥に、一人の男が立っていた。白い翼を持つ神は、長い間待っていた者を迎えるように、静かに二人を見ていた。
ここまでが第六章的な立ち位置のお話でした。
次回はいよいよデウスと対峙します。クライマックスになります!
シオンの復讐の行く末とは?もう少しだけお付き合いいただけましたら幸いです!
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