第三の門
落神の戦場には、空らしい空がなかった。頭上には確かに広がりがある。だが、薄暗い空そのものへ何本もの黒い亀裂が走り、その奥には光の届かない虚ろな闇が覗いていた。大地はどこまでも赤黒く焼け焦げ、ところどころから巨大な骨とも岩ともつかない白い残骸が突き出している。かつてデウスがここで討ったという異星の神、その身体の一部なのか。それとも、神同士の戦いによって変質した大地そのものなのか、ラズには判別できなかった。
ただ、この場所に満ちているものだけは分かる。死んだはずなのに、完全には消えていない。異星の神が残した、濃すぎる力の残滓。
ラズは赤い荒野へ一歩踏み出しただけで、胃の奥がひっくり返るような吐き気を覚えた。
「……気持ち悪い」
魔力とも、デウスから受け継いだ自分の神力とも違う。意思と呼べるほど明確なものは感じない。それでも、かつてここにいた何かの痕跡が、空気にも地面にも染みついている。
記録によれば、本来ここを通る神官たちはデウスの加護印によってその影響から守られる。だが、ラズにもシオンにも加護印はない。ラズの中にはデウス由来の神力があるが、それは信徒へ与えられる正式な加護ではない。
——そして。
「……シオン?」
隣にいたシオンの足が不意に止まった。左胸を強く押さえ、苦しげに身体を折る。
「っ……!」
「シオン!」
ラズが駆け寄るより早く、シオンの身体から赤黒い力が噴き出した。
第一、第二の門とは明らかに違う。これまでもケイオスの力は絶えず漏れていた。だが今は、シオン自身が押さえ込んでいるにもかかわらず、その隙間をこじ開けようとするように外へ溢れている。
理由は考えるまでもない。
『餌だ』
ケイオスの声が、シオンの頭の中で弾んだ。
『死に損なった神の残り滓か。随分と腐ってはいるが——まだ喰える』
「黙れ……っ」
『なぜ拒む?』
赤黒い力が大地を這う。
『喰えば力になる』
それに呼応するように、荒野が蠢いた。地面に染みついていた黒い影が持ち上がり、人の腕に似た形を取る。空に走る亀裂の一つが歪み、その奥に巨大な眼球を思わせる光が浮かんだ。遠くから、声とも咆哮とも判別できない音が響く。それらすべてが、シオンの中にあるケイオスへ反応している。
『デウスを殺したいのだろう?』
ケイオスが囁く。
『ならば喰え。まだ足りん。貴様はもっと強くなれる』
「黙れ!」
シオンが怒鳴る。だが、その怒りさえケイオスの力をさらに膨らませる。
「封印搬送を……!」
ラズは慌てて神力を引き出した。第一の門から維持している薄い膜を強め、シオンの周囲を包み込む。
しかし。
「っ……!」
光の表面へ、すぐに亀裂が走った。
ラズは歯を食いしばり、神力を流し直す。修復する。また割れる。さらに修復する。ケイオスの力が強すぎて、術式を維持できない。
「シオン、抑えられる?」
荒い息の合間に、シオンが答えた。
「……抑えている」
それは強がりではなかった。これでもシオンは必死に抑えている。もし今、抵抗をやめれば、赤黒い力は即座にこの戦場へ広がり、異星の神の残滓へ喰らいつくだろう。そうなれば、ケイオスはさらに強くなる。シオンもまた、デウスを殺すための力を得る。けれど同時に、シオン自身が、ケイオスへ呑み込まれる危険も増す。
「駄目……」
思わず呟く。このままでは、主神殿へ着く前にシオンがいなくなる。
「シオン、わたしを見て!」
返事はない。
「シオン!」
ラズは彼の正面へ回り込んだ。シオンは左胸を押さえたまま、顔を伏せている。ラズは迷った末、その頬へ手を伸ばした。触れた瞬間、手に熱が走る。
「っ……」
熱い。皮膚そのものが熱を持っているというより、その内側を流れる赤黒い力が触れた手を焼くようだった。それでも離さない。
「シオン」
ようやく顔が上がった。左の赤い瞳が、暗い荒野の中で鋭く光っている。右目は紫のままだが、僅かに赤が滲み始めている。その瞳は焦点が定まらず、意識そのものが内側から激しく揺さぶられていることが分かる。
その視界の端で、小さな青が揺れた。魔力でもない。神力でもない。ラズの髪に留められた、小さな硝子の星だ。
「デウスは、この先だよ」
ラズは言った。
「ここでケイオスに餌を与えたら、あなたはデウスのところへ辿り着く前に呑まれる」
シオンの唇が歪んだ。
「……力が要る」
「分かってる」
「デウスを殺すには、もっと力が要る」
「分かってる!」
ラズは思わず叫んだ。
「でも、それ以上ケイオスに渡したら、あなたがデウスを殺す前に、あなたじゃなくなる!」
シオンの瞳が僅かに見開かれる。
「あなたは、自分でデウスを殺したいんでしょう?」
ラズは息を切らしながら続ける。
「ケイオスに身体を奪われて、ケイオスがデウスを喰ったって、それはあなたの復讐じゃないでしょう?」
その言葉に、シオンの表情が強張った。デウスを殺す。自分自身の手で。あの日から、それだけを目的に生きてきた。ケイオスに身体を奪われ、そのケイオスがデウスを殺す。それでは意味がない。
「……俺の身体だ」
掠れた声が漏れる。赤黒い力が大きく揺れた。
「俺の復讐だ」
『同じことだ』
ケイオスが嗤う。
『貴様は俺の力がなければ、あの神へ届くことすらできん』
「……黙れ」
『俺の力で殺すのだ。ならば誰が喰おうと——』
「黙れ!」
シオンは拳を地面へ叩きつけた。轟音が荒野へ響き渡る。大地が陥没し、巨大な亀裂が走った。
だが、その拳は異星の神の残滓を狙ったものではない。ラズでも、デウスでもない。身体の内側へ溜まり続けるケイオスの力を、無理やり大地へ逃がしたのだ。
「今!」
ラズはすぐに神力を強めた。薄くなっていた膜を何重にも張り直す。割れる。塞ぐ。また軋む。それでも今度は、先ほどより少しだけ持ちこたえた。
ケイオスの存在そのものを隠すことはできない。封じ込めることもできない。ただ、外へ溢れた力が、この戦場に残るものへ喰らいつくことだけは防ぐ。それが今の二人にできる限界だった。
第三の門は、荒野の中央にあった。巨大な白い残骸の下。半ば地面へ埋もれるように、古びた門が立っている。柱には神殿の紋章が刻まれ、その周囲には、かつてこの場所で起きた戦いを記したらしい古い浮彫が連なっていた。神の姿。空から降りてくる巨大な何か。崩れる大地。そして、門の中央に刻まれた、一つの文。ラズは神力を通し、その意味を読み取る。
「……『主の敵を、御座へ入れるな』」
小さく読み上げた。
シオンが眉を寄せる。
「忠誠、か」
「たぶん」
しかし、ラズは違和感を覚えた。
第一の門で求められたのは、祈り。第二の門で求められたのは、真実。そして第三の門で求められる忠誠。
だが、この碑文にある言葉は、デウスを愛せとも、崇めろとも、命を捧げろとも書いていない。
——主の敵を、御座へ入れるな。
それだけだ。
二人は門へ向かって進んだ。一歩、また一歩。近づくほど、周囲の異星神の残滓が活発になる。
黒い腕。歪んだ光。巨大な眼。意味を持たない声。それらがケイオスの存在へ惹きつけられ、次々とシオンへ伸びてくる。同じものだからではない。それでも、互いに無視できないほど強い異物として、反応し合っている。
「長くはもたない」
ラズが苦しげに言う。
「だから止まらないで」
「言われなくても」
「でも急ぎすぎないで」
「どちらだ」
「どっちも!」
思わず声を上げた。こんな状況なのに、自分でも少しだけ可笑しくなった。目尻には痛みで涙が浮かんでいるのに、ラズの口元が僅かに緩む。
シオンが一瞬だけ、こちらを見る。その瞬間、膜の内側で荒れていた赤黒い力が、ほんの僅かに弱まった。
ラズは気づいた。——届いている。自分の声が、まだ。シオンまで届いている。それだけで、少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
やがて、二人は第三の門の前へ辿り着く。ラズは片手を掲げ、神力を流した。
「申告します」
門の紋章が白く光る。
「封印対象——シオン。内部にケイオスが存在。対象との分離は不可能。気配の完全な遮断、および完全封印も不可能です」
白い光へ、赤黒い染みが広がった。
「ただし、対象自身の意識は維持されています。現在、対象自身の意思によって、ケイオスの力の漏出を抑制しています」
隣では、シオンが左胸を抉るように強く掴んでいる。表情は苦痛に歪んでいた。それでも、赤黒い力が残滓へ伸びようとするたびに押し戻している。
「搬送者ラズは、楔として対象外周の隔離を維持します」
ラズが告げる。だが、門は開かなかった。
「……何で?」
白い光は消えていない。拒絶されているわけでもない。何かが足りないのだ。
その間にも、背後から異星の神の残滓が迫ってくる。
「どけ」
シオンが拳を握った。
「壊す」
「駄目!」
ラズは慌てて腕を広げた。
「これを壊したら、主神殿までの道も壊れるかもしれない!」
「ならどうする」
「ちょっと待って!」
ラズは再び碑文を見る。
——主の敵を、御座へ入れるな。
忠誠。そう記録されていた意味を、ようやく理解した。
「……違う」
「何がだ」
「たぶん、デウスに仕えますって言えってことじゃない」
シオンが怪訝そうにラズを見る。
「この門が確かめたいのは、誰の味方かじゃないんだよ」
ラズは背後を振り返る。
荒野に漂う異星の神の残滓。そして、それを喰らおうとするケイオス。
「神殿へ、これを持ち込まないこと」
「……」
「ここでケイオスに残滓を喰わせたら、その力ごと主神殿へ入ることになる」
シオンの目が僅かに見開かれた。
「この門にとって、それが『敵を御座へ入れる』ってことなんじゃないかな」
『……余計なことを』
ケイオスの不機嫌な声が響いた。それが何よりの答えだった。
ラズは門へ向き直る。呼吸を整え、はっきりと告げた。
「宣誓します」
門の光が強まる。
「わたしたちは、この戦場に残る異星の神の力を主神殿へ持ち込みません」
背後で黒い影が蠢く。
「ケイオスに、ここにある残滓を喰わせません」
赤黒い力が膜の内側から暴れた。
「デウスに仕えるためじゃない」
術式をなんとか維持しながらラズは続ける。
「わたしたちは、デウスへ忠誠を誓いません」
白い門の光が揺れる。
「それでも、この戦場にいるものを連れて行かない。その約束だけは守ります」
光が変わった。けれど、まだ門は完全には開かない。
「……シオン」
ラズが隣を見る。
シオンにも分かった。搬送者だけでは足りない。封印対象自身、ケイオスを内包する本人にも意思を示すことを求めているのだと。
シオンは荒い息を吐きながら、門を睨んだ。
「俺は、ケイオスにデウスを喰わせるために、ここまで来たんじゃない」
声が掠れている。
胸の奥でケイオスの気配が鋭くなる。シオンは構わず、拳を強く握りながら続けた。
「デウスは俺が殺す」
ラズは息を呑んだ。
それは復讐の宣言だった。けれど同時に、少なくともデウスを殺すまではケイオスへ身体を明け渡さないという宣言でもあった。
「この戦場にあるものも喰わせない」
『くだらん』
「俺の身体で」
シオンは左胸へ手を当てる。
「俺の意思を無視して、勝手に何かを喰うな」
『その身体も、いずれ——』
「黙れ」
シオンの目が鋭くなる。
「俺の復讐を、お前には渡さない」
その瞬間、第三の門が開いた。白い光が、赤い荒野を真っ二つに切り裂く。
「開いた……!」
ラズが息を吐く。しかし、安堵する暇はなかった。
門が開いた瞬間、周囲に漂っていた異星の神の残滓が、一斉に二人へ襲いかかった。
「ラズ!」
黒い腕がラズへ伸びる。
シオンの身体が反射的に動いた。拳を振り抜く。黒い腕が、根元から砕け散った。
その瞬間。
『——そうだ』
ケイオスが歓喜した。
『壊せ』
シオンの左腕へ、赤黒い力が集中する。
『もっと』
「……っ!」
『喰え』
砕けた残滓へ、力が伸びる。
『奪え』
「やめろ……!」
シオンは自分の左腕を右手で掴んだ。骨が軋むほど強く押さえ込む。だが、ケイオスの力は指の隙間から噴き出し続ける。
「シオン、駄目!」
「行け!」
「一緒に!」
「先に行け!」
「嫌!」
ラズは駆け寄った。両手でシオンの左腕へ触れる。封印搬送の膜を腕と胸元へ集中させ、神力を一気に流し込んだ。
「ぐ……っ!」
激痛が走る。熱い。手のひらから腕へ、さらに胸の奥まで、赤黒い何かが入り込んでくるような錯覚に襲われる。意識が焼かれる。それでも離さない。
「馬鹿、離せ!」
「嫌!」
「このままではお前まで——」
「あなたがデウスのところへ行くんでしょ!」
ラズは泣きそうな声で叫んだ。シオンの瞳が揺れる。
「あなたが、自分で行かなきゃ意味がないんでしょう!」
「……」
「だったら、ここで止まらないで!」
シオンがラズを見る。痛みに歪んだ顔。それでも離れようとしない手。桃色の髪の中で揺れる青い星。ほんの一瞬、シオンの中で何かが踏みとどまった。
「……っ」
次の瞬間、シオンはラズの手を掴んだ。
「走れ」
「うん!」
二人は同時に門へ飛び込んだ。白い光が身体を呑み込む。背後から黒い腕が追い縋る。赤黒い力がそれへ伸びようとし、シオンが歯を食いしばりながら押し戻す。
『近いぞ、シオン』
落神の戦場が遠ざかっていく。
『もうすぐだ』
ケイオスの声だけが、最後まで耳の奥へまとわりついた。
『怒れ。憎め。そのたびに貴様は、もっと俺へ近づく。貴様が器として完成する時は近い』
シオンは答えなかった。ラズの手を掴んだまま、ただ前を見ている。
やがて白一色だった光景へ、無数の光の筋が現れ始めた。数え切れないほどの光が、巨大な流れとなって闇の中を走っている。上も、下もない。大地さえ存在しない。星そのものの奥深くを流れる、途方もない力の奔流。
ラズが目を見開いた。
「これ……」
足元が消えた。二人の身体が、光の流れへ飲み込まれていった。




