第二の門
鏡湖は、音のない場所だった。風は確かに吹いている。ラズの桃色の髪も、シオンの銀白の髪も風を受けて揺れているのに、湖面には波紋一つ生まれない。水面に映っているのは、星の残る夜空だった。しかし、ラズが見上げた本物の空にはすでに朝の光が差し始めている。第一の門を越えたときと同じ時刻のはずなのに、湖だけが別の時間を閉じ込めているようだった。
第二の門、真実の鏡湖。ここでは湖面に人の心が映る。本来ならば、巡礼に訪れた神官が己の罪をデウスへ告白し、それを隠さず認めることで先へ進む。そして、封印搬送によってここを通るシオンにも、同じことが求められる。湖の底には主神殿へ続く第二の門がある。つまり、この水の中へ入らなければならない。
ラズは静かな湖面から、隣にいるシオンへ視線を移した。第一の門を越えてから、彼の様子はさらに張り詰めている。まるで全身が抜き身の刃になったようだった。声をかけても返事が遅く、時折何もない場所を睨みつける。左胸を押さえる回数も明らかに増えていた。
きっと、ケイオスを抑えることが難しくなっている。デウスへ近づくほど、シオンの怒りと憎しみも強くなっているのだろう。その感情は、ケイオスの力を膨らませる一方で、シオン自身を前へ進ませる力でもある。
ラズは、そのことが怖かった。主神殿へ近づいている。それは同時に、シオンがデウスを殺す瞬間へ近づいているということでもある。そして、彼にとってその瞬間は、自分自身を殺す瞬間でもあった。
「シオン」
「何だ」
「……デウスを殺した後のこと、考えてる?」
シオンは湖を見つめたまま答えた。
「考える必要がない」
予想していた答えだった。それでも実際に聞くと、ラズの胸の奥が冷たくなっていく。
「どうして?」
「俺にとっての復讐がどう終わるかは、もう決めている」
ラズは息を呑んだ。
「まだ……そう思ってるの?」
「当然だ。変わる理由がない」
「……あるよ」
「何だ」
問い返され、ラズは言葉に詰まった。
——わたしがいる。
一瞬、そう言いかけた。けれど、それを口にすることはできなかった。
シオンは家族を失った。リゼを失った。故郷も、かつての自分も失った。そして、そのすべてを自分の手で壊したという罪悪感を抱えている。そんな彼に、自分がいるから生きろと言うことが正しいのか、ラズには分からない。
自分はリゼではない。そのことを、ようやくシオンも認め始めた。ならばなおさら、自分がリゼの不在を埋められるなどと思いたくなかった。
それでも。
「……わたしは、シオンに死んでほしくない」
ようやくシオンがラズを見る。その瞳は静かだった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ不気味なほど凪いでいる。
「それは、お前の都合だろう」
胸が痛んだ。けれど、ラズは否定しなかった。
「うん。わたしの都合だよ」
シオンが僅かに目を細める。
「シオンが死にたいと思う気持ちが、シオン自身のものなら……死んでほしくないって思う気持ちも、わたしのものだから」
シオンは何も言わなかった。
その沈黙の中で、湖面が初めて揺れた。水面の中央に、白い門が映し出される。第二の門。だが、今の二人にはまだ遠い。
ラズは深く息を吸うと、第一の門から維持してきた封印搬送の術式へ神力を流した。シオンを包む薄い膜が再び強まり、身体から漏れ出す赤黒い力を覆っていく。
「行こう」
「ああ」
二人は湖へ足を踏み入れた。冷たい。そう感じた直後、湖面に人影が浮かんだ。
「……!」
最初に現れたのは、一人の男だった。シオンの父。続いて母。その後ろへ、見覚えのない男女が何人も現れる。シオンが生まれ育った村の人々なのだろう。そして最後に、リゼ。白い花を手にした少女が、静かな顔でシオンを見上げていた。
輪郭はどれも曖昧だった。記憶の中にある姿を無理やり水面へ映したかのように、顔の一部が霞み、時折別の表情へ歪んでいる。
『まだ生きているのか』
父の口が動く。
『どうして終われないの?』
母が言う。
『わたしたちを殺したのに』
村人たちの声が重なる。シオンの身体が強張った。ラズはすぐに彼を見る。
「シオン。これは本物じゃないよ」
「……分かっている」
掠れた声だった。
湖面のリゼが、ゆっくりと口を開く。
『デウスを殺したら、ちゃんと死んでくれるんでしょう?』
シオンの瞳が揺れた。
何度も何度も彼が聞き続けてきた言葉。死者たちは自分を恨んでいる。自分が生き続けていることを赦していない。デウスを殺し、それが終われば自分も死ぬことを望んでいる。シオンはずっと、そう考えてきた。
幻が本物の死者ではないことを、頭では知っていた。それでも、本物かどうかは関係ないと思ってきた。自分なら、自分を赦さない。ならば、自分に殺された者たちはなおさら赦さないはずだ。そう考えることで、幻の言葉を死者の意思と同じものとして扱い続けてきた。
湖面に映るリゼが微笑む。シオンの記憶にある柔らかな笑顔ではない。冷たく、責めるためだけに作られた笑みだった。
『黙ってほしいの?』
シオンの拳が握られる。
『それとも、もっと責めてほしい?』
「……黙れ」
『死ねって、もっと言ってほしい?』
「黙れ……!」
シオンの呼吸が乱れる。膜の内側で、赤黒い力が膨れ上がった。
「っ……」
封印搬送の術式が軋み、維持するラズの神力が激しく削られる。
「シオン、違う!」
ラズは声を張った。
「それはリゼさんじゃない!」
「分かっていると言っただろう!」
シオンの怒声が湖へ響く。初めて水面が大きく揺れた。それでも死者たちの姿は消えない。ラズは一歩も引かなかった。
「だったら、その声をリゼさんたちの願いみたいに扱わないで!」
シオンがラズを睨む。
「何……?」
「ロイエを殺したときも言ったよね。リゼさんたちが復讐を望んでるって。デウスを殺したら、自分にも死ねと言っているって」
「それがどうした」
「でも、それを言ってるのはこの人たちじゃない!」
ラズは湖面を指した。
「だって、リゼさんたちは最後に何も言えなかったんでしょう?」
シオンの表情が歪む。
「あなたを責める時間も、赦す時間もなかった。怖かったのか、怒っていたのか、それとも何を考えていたのか……わたしには分からない」
「黙れ」
「シオンにも、分からないはずだよ」
「黙れ……!」
「なのに、どうして全部あなたが決めるの?」
その言葉に、シオンの顔から一瞬だけ怒りが消えた。
湖面が揺れる。死者たちの姿が滲み、その奥から別の人影が現れた。
顔つきは幼く、今より細い身体。銀白の髪。紫色の右目と、赤い左目。村を滅ぼした夜の、十四歳のシオンだった。全身を血で濡らし、何もなくなった村の中で立ち尽くしていた少年。少年は、今のシオンを睨みつけている。
『死ね』
その声に、シオンの身体が止まった。
湖面の父が口を開く。
『死ね』
母も、村人たちも、リゼも、皆が口を開く。
『死ね』
けれど、その声はどれも同じだった。湖面に立っている、十四歳のシオンの声だ。
ラズはそれを見つめる。この湖が映すものは、人の心だ。死者の魂ではなく、シオンの中にあるもの。
「……シオン」
ラズは静かに告げた。
「あなたに死ねって言ってるのは、あなた自身の声だよ」
長い沈黙が落ちた。
シオンは湖面にいる自分自身を見つめていた。その顔に浮かんでいる感情を、ラズには読み取れない。
やがて、静かに口を開いた。
「……だから何だ」
低い声が漏れた。
「え……?」
「俺が言わせているとして」
シオンの拳が震える。
「この声が、俺自身のものだとして……だから何だ」
ラズは何も言えない。
「俺があいつらの立場なら、俺を絶対に赦さない」
湖面の少年を睨みつける。
「俺は、赦されるようなことをしていない」
「シオン……」
シオンは苦しげに息を吐く。
「俺が作った声だったとしても、俺が聞くべき言葉であることは変わらない」
第二の門が、湖の底で僅かに光った。
シオンの心を映す湖。そこに映っていたのは、自分を赦さない死者ではなかった。死者は自分を赦さないはずだと信じ、その姿を借りて、自分自身へ罰を与え続けるシオンだった。彼はまだ、その考えを手放さない。けれど、少なくとも、その声がどこから生まれているのかを、以前のように完全に拒絶することはできなくなっていた。
シオンはゆっくりと湖の中央へ向き直った。
「俺は、殺した」
静かな声だった。
湖面の幻たちが揺れる。
「父さんも。母さんも。リゼも。村の人間も」
言葉を続ける。
「ロイエも。実験施設にいた連中も。それ以外にも、たくさん殺した」
ラズはそれを黙って聞いていた。
「操られて殺した者もいる」
拳が強く握られる。
「自分で選んで殺した者もいる」
ロイエの姿が、ラズの脳裏を過ぎった。
「事情が違っても、俺の手で命を奪ったことは変わらない」
そして、一度言葉が止まる。
「俺は……死にたいと願っている」
ラズの胸が強く痛んだ。
分かっていた。何も変わっていない。シオンの中にある死への願いは、少しも消えてはいない。
「デウスを殺す」
シオンは湖面に映る自分自身を見る。
「その後、俺も死ぬ。それで終わらせる」
湖面の少年が、同じ紫と赤の瞳でシオンを見返していた。
「この声が俺自身のものなら、それでも構わない」
シオンは、自分の死について述べているとは思えないほど、淡々と静かに言葉を並べる。
「俺自身が俺を赦せない。俺自身が俺に死ねと言っている」
ラズの指先が震える。
「だから俺は死ぬんだ」
その瞬間、湖底の白い門が強く輝いた。水面が割れたように左右へ分かれ、第二の門がゆっくりと開いていった。
ラズは、その光景を呆然と見つめる。
門がシオンを赦したわけではない。罪を清めたわけでも、生きることを認めたわけでもない。ただ、シオンが自分の心にあるものを、隠さず口にした。それだけだった。
シオンは開いた門へ向かって歩き出す。ラズは咄嗟にその外套の袖を掴んだ。シオンの足が止まる。
「……何だ」
シオンは振り返らない。
「今、言ったよね」
「何をだ」
「死ぬって」
袖を掴む指へ力が入った。
「わたしは止めるから」
シオンの目が僅かに動く。
「デウスを殺したあと、あなたが自分を殺そうとするなら、わたしは止める」
「止められると思うのか」
「分からない」
ラズは正直に答えた。その声は震えている。
「シオンの方がずっと強い。わたしが何をしても、止められないかもしれない」
それでも、袖を離さない。
「でも、止めるよ。嫌がられても、怒られても、わたしの都合だって言われても」
シオンは黙っていた。
ラズは一度息を吸った。
「それと、その声がシオン自身のものだって分かったなら、リゼさんたちの願いみたいにして自分を死なせないで」
シオンの瞳が揺れる。
「シオンが自分を赦せないことと、リゼさんたちがシオンに死んでほしいと思っていることは、同じじゃない」
「……」
「本当にどう思っていたのか、わたしたちには分からないんだから」
シオンの顔が僅かに歪んだ。
その言葉は救いではない。寧ろ、シオンがこれまで自分を死へ追い立てるために頼ってきた理由を、一つずつ奪おうとする言葉だった。死者が死を望んでいるから。彼らが赦さないから。だから自分は死ななければならない。その形を崩されれば、最後に残るのは、シオン自身が自分を生かしておきたくないという願いだけになる。
「……残酷なことを言う」
低い声だった。
ラズは一瞬、唇を噛んだ。
「うん」
袖を握ったまま小さく頷いた。瞳には薄く涙が滲んでいる。
「でも、言うよ。わたしがそう言いたいから」
シオンはしばらく黙っていた。
やがて、袖を振り払うことなく再び歩き始める。ラズもその隣を歩いた。
二人が第二の門を越えると、湖の底から溢れた白い光が身体を包み込んだ。静かな湖も、死者の幻も、十四歳のシオンも、すべてが光の向こうへ消えていく。
次に足裏へ地面の感触が戻ったとき、目の前には果ての見えない赤い荒野が広がっていた。焼け焦げた大地。折れた巨大な武具のようなもの。そして、遥か遠くからでも感じ取れる異様な気配。シオンの胸の奥で、ケイオスがゆっくりと身じろぎをした。
ここは第三の門。落神の戦場だった。




