第一の門
星見の山は、地図の上ではさほど大きな山には見えなかった。
だが、数日をかけて麓まで辿り着いた二人の前に現れたのは、山というよりも、空へ突き立てられた巨大な石柱を思わせる異様な峰だった。
山肌は白く、切り立った岩壁の隙間には風化しかけた古い文字が刻まれている。周囲に人里はなく、麓まで続いていた獣道も途中で途切れていた。
それでも、山頂へ向かう細い石段だけは、不自然なほど綺麗な形で残されている。高位神官だけが知る、秘匿された巡礼路。石段には今も微かな神力が流れており、その力によって長い年月を経ても崩壊を免れているらしい。
ラズの目には確かに道として映っているが、普通の人間なら入り口の存在にすら気づかず、岩壁の前を通り過ぎてしまうのだろう。
「ここが……第一の祈祷門へ続く道」
石段の前でラズが足を止める。シオンは答えず、遥か上方へ続く階段を見上げていた。
ここまで近づいた頃から、彼の様子は明らかに変わっている。左胸の奥で、赤黒い気配が小さく脈打っていた。
以前のラズには、それがあることを何となく感じ取れる程度だった。だが、自分がシオンへ干渉するための楔として作られたことを知り、さらに精神世界でケイオスへ直接触れた今では、以前よりもその存在をはっきり感じる。
時折シオンと話しているケイオスの声は聞こえないものの、シオンの胸の奥でケイオスが身じろぎするたび、ラズ自身の胸にも鈍い違和感が走る。
なぜ感覚が鋭くなったのかは分からない。楔としての機能が目覚めつつあるのか、ケイオスにリゼの残滓の一部を喰われたことで、自分自身の在り方が変化したのか。
ただ一つ分かるのは、デウスへ続く道が近づくほど、シオンの内側にあるものが活発になっているということだった。
「シオン」
「何だ」
「……苦しい?」
返事はなかった。それが答えだった。
ここ数日、シオンはいつも以上に口数が少ない。左胸を押さえる回数が増え、拳も頻繁に握り締められ、そのたびに革手袋が軋んでいた。何かを抑え込むような歩き方もラズには気になっていた。
「無理に平気なふりしなくていいよ」
「平気なふりなどしていない」
「じゃあ、苦しいって言って」
シオンの紫色の瞳が、僅かに揺れた。
言った後で、ラズ自身も胸の奥に引っかかるものを感じた。
——痛いって言っていいんだよ。
かつて、リゼがシオンへ向けた言葉。自分の記憶ではない。リゼの魂の残滓から受け継いだものなのか、それともシオンの精神へ触れた際に知った記憶なのか、今となっては境界も曖昧だった。それでも、今この言葉を口にしたのは自分だ。ラズはそう思った。
「言ったところで何が変わる」
シオンは顔を背ける。
「俺には、弱音を吐く資格などない」
「資格なんて要らないよ。苦しいって言ったからって、何も解決しないかもしれないけど……言わないまま、全部一人で抱えて壊れていくよりはいいと思う」
「俺はもう壊れている」
「それでも、全部じゃない」
ラズは静かに答えた。
「一緒に歩いてきたから、それくらいは分かるよ」
シオンは何も言わない。
「だから、わたしはここにいる」
その言葉にも返事はなかった。
やがてシオンはラズから目を逸らし、そのまま最初の石段へ足をかけた。
山頂へ続く階段は長かった。登るほどに空気は薄くなり、周囲の音も少しずつ失われていく。木々は途中で姿を消し、風の音も、鳥の声も聞こえなくなった。いつしか残っているのは、石段を踏む二人の足音だけになっていた。
山頂へ到着した頃、空はまだ夜と朝の境界にあった。東の地平線だけが薄く白み、その上には夜の名残の星々が瞬いている。
山頂の中央には円形の祭壇があった。その中心に、白い石で作られた門が立っている。扉はない。二本の柱と、それらを繋ぐ弧状の石だけで形作られた簡素な門だった。柱には神殿の紋章が刻まれ、その足元を囲むように複雑な術式が円環状に彫り込まれている。
「……あれだね」
ラズが一歩、祭壇へ近づく。足元の術式が淡く光った。だが、その後ろからシオンが祭壇へ足を踏み入れた瞬間、光が激しく乱れた。
「っ……!」
白一色だった術式へ、赤黒い染みが一気に広がる。門そのものが低く震えた。空気が重くなり、目に見えない圧力がシオンを押し返そうとする。
ラズにはすぐに分かった。これは拒絶されているのだと。門は、シオンを見ているのではない。彼の内側にいるケイオスを見つけている。
『随分と嫌われたものだな』
胸の奥で、ケイオスが笑った。
『貴様が何者だと言い張ろうが、神の門には関係ないらしい』
「黙れ」
『どれほど力を隠しても無駄だ。俺はここにいる』
シオンの指先から、赤黒い力が僅かに漏れた。
『既に貴様から切り離せるほど浅い場所にはいない』
「黙れと言っている」
ラズはすぐにシオンの前へ出た。
「少し下がって。まずはわたしがやる」
「……お前に任せるしかないのが腹立たしいな」
「うん。わたしも、ちょっとむかつく」
ラズは門を見据え、小さく息を吐いた。
「でも、やるよ」
記録媒体に残されていた手順を思い出す。本来、高位神官ならばここで加護印を示し、デウスへ祈りを捧げる。だがラズには、加護印などない。あるのは、デウスの神力を核として生み出された自分自身だけ。
そして、信仰もなかった。デウスを慈悲深い神だとは思えない。デウスはシオンを壊した。リゼを利用した。死んだ後の魂の残滓すら利用し、自分を生み出した。敬えと言われても、できるはずがなかった。しかし。
——祈りとは信仰ではない。
ロイエの記録がそう告げていた。
神へ向ける言葉。そして、この門は偽りを拒む。それならば。
ラズは目を閉じた。
「……デウス」
名前を口にしただけで、後方にいるシオンの気配が僅かに揺れた。
「わたしは、あなたを信じていない」
祭壇の光が揺らめく。
「この星を守ろうとしていることは知った。あなたが守ってきたものがあることも、きっと本当なんだと思う」
一度、息を吸う。
「でも、あなたがそのために壊したものも知った。シオンにしたことも。リゼさんを利用したことも。わたしを何のために作ったのかも」
声は僅かに震えていた。それでも言葉を止めない。
「だから、わたしはあなたを崇めるためにここへ来たんじゃない」
ゆっくり目を開ける。
「あなたの前に、ラズとして立つために来た」
術式が強く輝いた。しかし、門は開かない。白い柱に刻まれた文字が、淡い光を放つ。
直後、声ではない何かが、ラズの頭へ直接問いかけてきた。
——何のために。
ラズは息を呑む。
記録にあった通りだった。門は問う。何のために封印対象を主神殿へ運ぶのか。神官なら、この星のためだと答えるのだろう。だが、自分たちは違う。
ラズは後ろを振り返った。シオンと目が合う。彼自身も、この問いが何を意味しているのか理解したらしい。
ラズは再び門へ向き直った。
「シオンは——」
声が少し震えた。それでも嘘はつかない。嘘はきっと、門には見抜かれる。
「デウス。あなたを殺すために、主神殿へ向かってる」
シオンの瞳が僅かに見開かれた。
門の光が大きく揺れるが、それでも消えない。
「わたしは、シオンの復讐が全部正しいとは思ってない。誰かを苦しませて殺すことまで認めたいわけでもない」
ロイエの断末魔が、一瞬だけ脳裏を過った。
「でも、あなたがしたことを知って、簡単に復讐をやめろとも言えない」
ラズは自分の胸へ手を当てた。
「それでも、一人では行かせたくない。シオンがあなたの前で何をするのか見届けるために。シオンが自分まで壊してしまうなら、それを止めるために」
そしてもう一つ。
「わたし自身も、あなたに会いたい」
胸の中にある神力が脈打つ。
「どうしてわたしを作ったのか。わたしを何だと思っていたのか。あなた自身の口から聞くために」
そう言い切った。
祭壇が沈黙する。拒絶されるかもしれない。神を殺すと宣言しながら、神の門を通ろうとしているのだから。けれど、白い光は消えなかった。寧ろ、先ほどよりも穏やかに脈打ち始める。
ラズの言葉に信仰はなかった。敬意もなかった。ただ、偽りもなかった。
拒絶はされなかったのだと判断し、ラズは小さく息を吐くと、次の手順へ移る。
「封印搬送を始めます」
その言葉に、後ろにいるシオンの表情が僅かに歪んだ。
封印対象。危険物。物。記録を見た後、小屋で二人が散々話した言葉だった。ラズ自身もその言葉を使うのは嫌だった。
けれど、門にそう分類させることと、自分までシオンをそう見ることは違う。
「申告します」
祭壇へ手をかざす。
「封印対象——シオン」
その名を、はっきり告げた。
「対象内部に、異物ケイオスが存在。心臓部を中心として肉体と深く癒着しており、完全な分離および気配の遮断は不可能です」
シオンは黙っていた。
門の白い光に、再び赤黒い色が混ざる。
「門が彼の中に異物を検出したことは間違っていません」
ラズは、シオンを一瞬だけ見た後に言葉を続ける。
「でも——シオンとケイオスは、同じものではありません」
門の光が一瞬、静止した。
「彼はケイオスを抱えている。侵食されて、身体も変えられた。それでも、まだシオン自身の意思がある」
自分へ「来るな」と言った男。ラズを、デウスの道具として使いたくないと怒った男。精神世界で、自分を奪わせまいとケイオスへ歯向かった男。
「だから、わたしはシオンを物として見ない」
ラズは静かに告げる。
「門が通過のために彼を封印対象として扱うなら、その仕組みは利用します。でも、わたしが連れていくのは危険物じゃない」
シオンの右目の紫が僅かに揺れる。
「ケイオスを抱えた、シオンです」
ラズは記録に残っていた術式を思い浮かべ、自分の中の神力を引き出した。足元から白い光が広がる。それはシオンを縛る鎖にはならなかった。薄い膜のような光が彼の身体を覆い、外へ漏れ出していた赤黒い力だけを包み込んでいく。シオン自身を縛るのではない。内側から溢れ出すケイオスの力と、門との間に境界を作る。少なくともラズは、そういう形を望んだ。
『小賢しい』
ケイオスが低く吐き捨てる。
『この程度の膜で、俺を封じ込めたつもりか』
光が激しく揺れる。
「っ……!」
ラズの額に汗が滲んだ。
自分の神力が、赤黒い力に直接触れている。精神世界で鎖に締め上げられたときとは違う。それでも、身体の内側から少しずつ削られていくような苦痛があった。
「ラズ」
シオンから声がかかる。その声は、シオンにしては珍しく焦りを帯びていた。
「大丈夫」
「大丈夫な顔には見えないが」
汗を滲ませながら、必死に術式を維持する。
「シオン、力を抑えて」
「抑えている」
「分かってる。でも、漏れてる」
「……止めらない」
「うん」
ラズは歯を食いしばる。
「だから、止めなくていい」
シオンの表情が変わった。
「何?」
「全部一人で抑え込もうとしなくていいって言ってるの」
膜へ赤黒い波紋が走る。
「中から漏れた分は、わたしが外側で受ける」
「やめろ」
先ほどよりも強い焦りを帯びた声が、即座に返ってきた。
「そのまま受け続ければ、お前が壊れる」
「壊れないようにする」
「そういう問題ではない」
「そういう問題だよ」
ラズは苦痛に眉を寄せながら、それでもシオンを真っ直ぐ見る。
「シオンが一人で全部できないなら、できないところをわたしが持つ」
「……」
「昨日、一緒に行くって決めたでしょう?」
シオンが何か言おうと口を開いた、その瞬間。
白い門が大きく震えた。柱の間。本来なら空しか見えないはずの場所へ、眩い光が満ちていく。やがて、その奥に白い階段が現れた。
「……開いた」
ラズが思わず息を吐く。
門は、神を信じない祈りも、デウスを殺すという目的も、封印対象を人間として見るラズの意思も拒まなかった。ただ、そこに偽りがないことだけを見た。
だが、安堵したその瞬間だった。
「……っ!」
シオンが突然、左胸を押さえる。
白い膜の内側で、赤黒い力が急激に膨れ上がった。
「シオン!」
ラズは膜を維持したまま、彼へ駆け寄る。
シオンの膝が地面へ落ちかける。
「近づくな……」
「嫌」
「今は、危険だ」
赤い左目が強く光っていた。紫色の右目は変わらない。それでも、目の奥では抑え込めない憎悪が激しく揺れている。
『近づいたぞ』
ケイオスの声が響く。
『シオン。貴様が何年も探していたものへ』
「……黙れ」
『この道の先にいる』
赤黒い力がさらに膨らむ。
『貴様を壊した神が』
「黙れ……!」
『父を。母を。リゼを。貴様自身を。すべて壊した神が』
シオンの拳が地面へ叩きつけられた。轟音が響き、白い祭壇へ巨大な亀裂が走った。
「シオン!」
ラズは彼の前へ膝をついた。
「見るな……」
「見て」
「……」
「わたしを見て」
シオンは荒い呼吸を繰り返している。やがて、ゆっくりと左右色違いの瞳がラズを捉えた。
「まだ、ここにデウスはいない」
ラズは言った。
「ここでケイオスに呑まれたら、デウスの前まで辿り着けないよ」
シオンの瞳が僅かに揺れる。
その一言だけは、今のシオンへ届いた。デウスを殺す。その目的が、荒れ狂う意識を繋ぎ止める。ラズの胸が小さく痛んだ。自分を見ろと言った。けれど、結局のところシオンを引き戻したのは自分ではない。復讐だった。今もまだ、デウスへの憎悪だけがシオンを生かしている。
だが、それでもいい。今はそれを使ってでも、シオンをシオンのまま、次へ連れていかなければならない。
「……行くぞ」
やがてシオンが掠れた声で呟き、立ち上がる。赤黒い力は完全には消えていない。それでも、先ほどまでの暴走しかけた気配は僅かに収まっていた。
「うん」
ラズも立ち上がった。
封印搬送の膜はまだ維持している。二人は並んで、白い門の内側へ足を踏み入れた。
階段を登る。一段、また一段と。その先に何があるのかは見えない。やがて背後の山頂が白い光に飲み込まれ、足元の感覚まで一瞬消えた。
次に地面を踏んだとき、二人の前には静かな湖が広がっていた。




