↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
55/79

第一の門

 星見の山は、地図の上ではさほど大きな山には見えなかった。

 だが、数日をかけて麓まで辿り着いた二人の前に現れたのは、山というよりも、空へ突き立てられた巨大な石柱を思わせる異様な峰だった。


 山肌は白く、切り立った岩壁の隙間には風化しかけた古い文字が刻まれている。周囲に人里はなく、麓まで続いていた獣道も途中で途切れていた。

 それでも、山頂へ向かう細い石段だけは、不自然なほど綺麗な形で残されている。高位神官だけが知る、秘匿された巡礼路。石段には今も微かな神力が流れており、その力によって長い年月を経ても崩壊を免れているらしい。

 ラズの目には確かに道として映っているが、普通の人間なら入り口の存在にすら気づかず、岩壁の前を通り過ぎてしまうのだろう。


「ここが……第一の祈祷門へ続く道」


 石段の前でラズが足を止める。シオンは答えず、遥か上方へ続く階段を見上げていた。


 ここまで近づいた頃から、彼の様子は明らかに変わっている。左胸の奥で、赤黒い気配が小さく脈打っていた。

 以前のラズには、それがあることを何となく感じ取れる程度だった。だが、自分がシオンへ干渉するための楔として作られたことを知り、さらに精神世界でケイオスへ直接触れた今では、以前よりもその存在をはっきり感じる。

 時折シオンと話しているケイオスの声は聞こえないものの、シオンの胸の奥でケイオスが身じろぎするたび、ラズ自身の胸にも鈍い違和感が走る。


 なぜ感覚が鋭くなったのかは分からない。楔としての機能が目覚めつつあるのか、ケイオスにリゼの残滓の一部を喰われたことで、自分自身の在り方が変化したのか。

 ただ一つ分かるのは、デウスへ続く道が近づくほど、シオンの内側にあるものが活発になっているということだった。


「シオン」


「何だ」


「……苦しい?」


 返事はなかった。それが答えだった。

 ここ数日、シオンはいつも以上に口数が少ない。左胸を押さえる回数が増え、拳も頻繁に握り締められ、そのたびに革手袋が軋んでいた。何かを抑え込むような歩き方もラズには気になっていた。


「無理に平気なふりしなくていいよ」


「平気なふりなどしていない」


「じゃあ、苦しいって言って」


 シオンの紫色の瞳が、僅かに揺れた。

 言った後で、ラズ自身も胸の奥に引っかかるものを感じた。


 ——痛いって言っていいんだよ。


 かつて、リゼがシオンへ向けた言葉。自分の記憶ではない。リゼの魂の残滓から受け継いだものなのか、それともシオンの精神へ触れた際に知った記憶なのか、今となっては境界も曖昧だった。それでも、今この言葉を口にしたのは自分だ。ラズはそう思った。


「言ったところで何が変わる」


 シオンは顔を背ける。


「俺には、弱音を吐く資格などない」


「資格なんて要らないよ。苦しいって言ったからって、何も解決しないかもしれないけど……言わないまま、全部一人で抱えて壊れていくよりはいいと思う」


「俺はもう壊れている」


「それでも、全部じゃない」


 ラズは静かに答えた。


「一緒に歩いてきたから、それくらいは分かるよ」


 シオンは何も言わない。


「だから、わたしはここにいる」


 その言葉にも返事はなかった。

 やがてシオンはラズから目を逸らし、そのまま最初の石段へ足をかけた。


 山頂へ続く階段は長かった。登るほどに空気は薄くなり、周囲の音も少しずつ失われていく。木々は途中で姿を消し、風の音も、鳥の声も聞こえなくなった。いつしか残っているのは、石段を踏む二人の足音だけになっていた。


 山頂へ到着した頃、空はまだ夜と朝の境界にあった。東の地平線だけが薄く白み、その上には夜の名残の星々が瞬いている。

 山頂の中央には円形の祭壇があった。その中心に、白い石で作られた門が立っている。扉はない。二本の柱と、それらを繋ぐ弧状の石だけで形作られた簡素な門だった。柱には神殿の紋章が刻まれ、その足元を囲むように複雑な術式が円環状に彫り込まれている。


「……あれだね」


 ラズが一歩、祭壇へ近づく。足元の術式が淡く光った。だが、その後ろからシオンが祭壇へ足を踏み入れた瞬間、光が激しく乱れた。


「っ……!」


 白一色だった術式へ、赤黒い染みが一気に広がる。門そのものが低く震えた。空気が重くなり、目に見えない圧力がシオンを押し返そうとする。

 ラズにはすぐに分かった。これは拒絶されているのだと。門は、シオンを見ているのではない。彼の内側にいるケイオスを見つけている。


『随分と嫌われたものだな』


 胸の奥で、ケイオスが笑った。


『貴様が何者だと言い張ろうが、神の門には関係ないらしい』


「黙れ」


『どれほど力を隠しても無駄だ。俺はここにいる』


 シオンの指先から、赤黒い力が僅かに漏れた。


『既に貴様から切り離せるほど浅い場所にはいない』


「黙れと言っている」


 ラズはすぐにシオンの前へ出た。


「少し下がって。まずはわたしがやる」


「……お前に任せるしかないのが腹立たしいな」


「うん。わたしも、ちょっとむかつく」


 ラズは門を見据え、小さく息を吐いた。


「でも、やるよ」


 記録媒体に残されていた手順を思い出す。本来、高位神官ならばここで加護印を示し、デウスへ祈りを捧げる。だがラズには、加護印などない。あるのは、デウスの神力を核として生み出された自分自身だけ。

 そして、信仰もなかった。デウスを慈悲深い神だとは思えない。デウスはシオンを壊した。リゼを利用した。死んだ後の魂の残滓すら利用し、自分を生み出した。敬えと言われても、できるはずがなかった。しかし。


 ——祈りとは信仰ではない。


 ロイエの記録がそう告げていた。

 神へ向ける言葉。そして、この門は偽りを拒む。それならば。


 ラズは目を閉じた。


「……デウス」


 名前を口にしただけで、後方にいるシオンの気配が僅かに揺れた。


「わたしは、あなたを信じていない」


 祭壇の光が揺らめく。


「この星を守ろうとしていることは知った。あなたが守ってきたものがあることも、きっと本当なんだと思う」


 一度、息を吸う。


「でも、あなたがそのために壊したものも知った。シオンにしたことも。リゼさんを利用したことも。わたしを何のために作ったのかも」


 声は僅かに震えていた。それでも言葉を止めない。


「だから、わたしはあなたを崇めるためにここへ来たんじゃない」


 ゆっくり目を開ける。


「あなたの前に、ラズとして立つために来た」


 術式が強く輝いた。しかし、門は開かない。白い柱に刻まれた文字が、淡い光を放つ。

 直後、声ではない何かが、ラズの頭へ直接問いかけてきた。


 ——何のために。


 ラズは息を呑む。

 記録にあった通りだった。門は問う。何のために封印対象を主神殿へ運ぶのか。神官なら、この星のためだと答えるのだろう。だが、自分たちは違う。


 ラズは後ろを振り返った。シオンと目が合う。彼自身も、この問いが何を意味しているのか理解したらしい。

 ラズは再び門へ向き直った。


「シオンは——」


 声が少し震えた。それでも嘘はつかない。嘘はきっと、門には見抜かれる。


「デウス。あなたを殺すために、主神殿へ向かってる」


 シオンの瞳が僅かに見開かれた。

 門の光が大きく揺れるが、それでも消えない。


「わたしは、シオンの復讐が全部正しいとは思ってない。誰かを苦しませて殺すことまで認めたいわけでもない」


 ロイエの断末魔が、一瞬だけ脳裏を過った。


「でも、あなたがしたことを知って、簡単に復讐をやめろとも言えない」


 ラズは自分の胸へ手を当てた。


「それでも、一人では行かせたくない。シオンがあなたの前で何をするのか見届けるために。シオンが自分まで壊してしまうなら、それを止めるために」


 そしてもう一つ。


「わたし自身も、あなたに会いたい」


 胸の中にある神力が脈打つ。


「どうしてわたしを作ったのか。わたしを何だと思っていたのか。あなた自身の口から聞くために」


 そう言い切った。

 祭壇が沈黙する。拒絶されるかもしれない。神を殺すと宣言しながら、神の門を通ろうとしているのだから。けれど、白い光は消えなかった。寧ろ、先ほどよりも穏やかに脈打ち始める。

 ラズの言葉に信仰はなかった。敬意もなかった。ただ、偽りもなかった。


 拒絶はされなかったのだと判断し、ラズは小さく息を吐くと、次の手順へ移る。


「封印搬送を始めます」


 その言葉に、後ろにいるシオンの表情が僅かに歪んだ。

 封印対象。危険物。物。記録を見た後、小屋で二人が散々話した言葉だった。ラズ自身もその言葉を使うのは嫌だった。

 けれど、門にそう分類させることと、自分までシオンをそう見ることは違う。


「申告します」


 祭壇へ手をかざす。


「封印対象——シオン」


 その名を、はっきり告げた。


「対象内部に、異物ケイオスが存在。心臓部を中心として肉体と深く癒着しており、完全な分離および気配の遮断は不可能です」


 シオンは黙っていた。

 門の白い光に、再び赤黒い色が混ざる。


「門が彼の中に異物を検出したことは間違っていません」


 ラズは、シオンを一瞬だけ見た後に言葉を続ける。


「でも——シオンとケイオスは、同じものではありません」


 門の光が一瞬、静止した。


「彼はケイオスを抱えている。侵食されて、身体も変えられた。それでも、まだシオン自身の意思がある」


 自分へ「来るな」と言った男。ラズを、デウスの道具として使いたくないと怒った男。精神世界で、自分を奪わせまいとケイオスへ歯向かった男。


「だから、わたしはシオンを物として見ない」


 ラズは静かに告げる。


「門が通過のために彼を封印対象として扱うなら、その仕組みは利用します。でも、わたしが連れていくのは危険物じゃない」


 シオンの右目の紫が僅かに揺れる。


「ケイオスを抱えた、シオンです」


 ラズは記録に残っていた術式を思い浮かべ、自分の中の神力を引き出した。足元から白い光が広がる。それはシオンを縛る鎖にはならなかった。薄い膜のような光が彼の身体を覆い、外へ漏れ出していた赤黒い力だけを包み込んでいく。シオン自身を縛るのではない。内側から溢れ出すケイオスの力と、門との間に境界を作る。少なくともラズは、そういう形を望んだ。


『小賢しい』


 ケイオスが低く吐き捨てる。


『この程度の膜で、俺を封じ込めたつもりか』


 光が激しく揺れる。


「っ……!」


 ラズの額に汗が滲んだ。

 自分の神力が、赤黒い力に直接触れている。精神世界で鎖に締め上げられたときとは違う。それでも、身体の内側から少しずつ削られていくような苦痛があった。


「ラズ」


 シオンから声がかかる。その声は、シオンにしては珍しく焦りを帯びていた。


「大丈夫」


「大丈夫な顔には見えないが」


 汗を滲ませながら、必死に術式を維持する。


「シオン、力を抑えて」


「抑えている」


「分かってる。でも、漏れてる」


「……止めらない」


「うん」


 ラズは歯を食いしばる。


「だから、止めなくていい」


 シオンの表情が変わった。


「何?」


「全部一人で抑え込もうとしなくていいって言ってるの」


 膜へ赤黒い波紋が走る。


「中から漏れた分は、わたしが外側で受ける」


「やめろ」


 先ほどよりも強い焦りを帯びた声が、即座に返ってきた。


「そのまま受け続ければ、お前が壊れる」


「壊れないようにする」


「そういう問題ではない」


「そういう問題だよ」


 ラズは苦痛に眉を寄せながら、それでもシオンを真っ直ぐ見る。


「シオンが一人で全部できないなら、できないところをわたしが持つ」


「……」


「昨日、一緒に行くって決めたでしょう?」


 シオンが何か言おうと口を開いた、その瞬間。

 白い門が大きく震えた。柱の間。本来なら空しか見えないはずの場所へ、眩い光が満ちていく。やがて、その奥に白い階段が現れた。


「……開いた」


 ラズが思わず息を吐く。


 門は、神を信じない祈りも、デウスを殺すという目的も、封印対象を人間として見るラズの意思も拒まなかった。ただ、そこに偽りがないことだけを見た。


 だが、安堵したその瞬間だった。


「……っ!」


 シオンが突然、左胸を押さえる。

 白い膜の内側で、赤黒い力が急激に膨れ上がった。


「シオン!」


 ラズは膜を維持したまま、彼へ駆け寄る。

 シオンの膝が地面へ落ちかける。


「近づくな……」


「嫌」


「今は、危険だ」


 赤い左目が強く光っていた。紫色の右目は変わらない。それでも、目の奥では抑え込めない憎悪が激しく揺れている。


『近づいたぞ』


 ケイオスの声が響く。


『シオン。貴様が何年も探していたものへ』


「……黙れ」


『この道の先にいる』


 赤黒い力がさらに膨らむ。


『貴様を壊した神が』


「黙れ……!」


『父を。母を。リゼを。貴様自身を。すべて壊した神が』


 シオンの拳が地面へ叩きつけられた。轟音が響き、白い祭壇へ巨大な亀裂が走った。


「シオン!」


 ラズは彼の前へ膝をついた。


「見るな……」


「見て」


「……」


「わたしを見て」


 シオンは荒い呼吸を繰り返している。やがて、ゆっくりと左右色違いの瞳がラズを捉えた。


「まだ、ここにデウスはいない」


 ラズは言った。


「ここでケイオスに呑まれたら、デウスの前まで辿り着けないよ」


 シオンの瞳が僅かに揺れる。


 その一言だけは、今のシオンへ届いた。デウスを殺す。その目的が、荒れ狂う意識を繋ぎ止める。ラズの胸が小さく痛んだ。自分を見ろと言った。けれど、結局のところシオンを引き戻したのは自分ではない。復讐だった。今もまだ、デウスへの憎悪だけがシオンを生かしている。

 だが、それでもいい。今はそれを使ってでも、シオンをシオンのまま、次へ連れていかなければならない。


「……行くぞ」


 やがてシオンが掠れた声で呟き、立ち上がる。赤黒い力は完全には消えていない。それでも、先ほどまでの暴走しかけた気配は僅かに収まっていた。


「うん」


 ラズも立ち上がった。


 封印搬送の膜はまだ維持している。二人は並んで、白い門の内側へ足を踏み入れた。

 階段を登る。一段、また一段と。その先に何があるのかは見えない。やがて背後の山頂が白い光に飲み込まれ、足元の感覚まで一瞬消えた。


 次に地面を踏んだとき、二人の前には静かな湖が広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。