同じ火
村を出てから、しばらく経った頃だった。
空を覆っていた雲から、細い雨が落ち始めた。初めのうちは、頬に冷たいものが触れる程度だった。だが、山道を進むにつれて雨脚は強まり、日が沈む頃には、辺りの景色を白く霞ませるほどの大雨となっていた。風に煽られた雨が、斜めに木々を打ちつける。
道はぬかるみ、足を踏み出すたびに靴が泥へ沈んだ。髪も衣服もすでに濡れきっている。
しかし、シオンは歩みを止めようとしなかった。
ラズも黙って後を追っていたが、やがて身体の震えを隠せなくなった。腕を胸の前で組み、何度も濡れた髪を払っている。
「……寒い」
小さな呟きは、激しい雨音に紛れかけた。
シオンが僅かに顔を動かす。
街道から少し外れた場所に、朽ちかけた小屋が見えた。
壁の一部は傾き、屋根にも穴が開いている。かつて狩人が使っていたものだろう。長く放置されているらしく、周囲は伸びた草と蔓に覆われていた。
「入るぞ」
シオンが言う。
ラズは少し驚いたように顔を上げた。
「休むの?」
「このままでは、お前が動けなくなる」
「心配してくれた?」
「足手まといを背負いたくないだけだ」
シオンはラズの返事を待たず、小屋へ向かった。
◇
扉は半分外れかけていた。
シオンが手を掛けると、蝶番が鈍い音を立てる。力を加えすぎないよう慎重に押し開き、二人は中へ入った。
小屋の内部は薄暗かった。
屋根の一部が崩れ、その下には雨水が落ちている。床板もところどころ腐っていたが、壁際には濡れていない場所が残っていた。少なくとも、吹きさらしの外よりはましだった。
ラズは部屋の中央へしゃがみ込み、濡れた髪を両手で絞った。指の間から水が落ちる。
「寒い……」
歯の根が合わず、声が微かに震えていた。
シオンも全身を濡らしている。
銀白の髪は雨を吸い、普段よりも重たげに背へ張りついていた。毛皮付きの外套からも、水が滴り落ちている。
それでも、シオンは寒がる様子を見せなかった。窓枠だけが残った窓の前へ立ち、外の暗闇へ目を向けている。
「寒くないの?」
ラズが尋ねた。
「感じない」
「全然?」
「ああ」
「どうして?」
「お前に説明する必要はない」
突き放すような返事だった。
ラズは口を閉じる。
出会ってからまだ一日も経っていない。
何を聞けば答えてくれるのか。どの言葉が、シオンの触れられたくない部分へ届いてしまうのか。ラズには、まだよく分からなかった。
ただ、何を尋ねても拒絶されるわけではないことも、少しずつ分かり始めていた。
ラズは小屋の隅を探した。
湿っていない木片や、かつて薪として使われていたらしい枝を集める。部屋の中央へ積み、両手を翳した。淡い光が指先へ集まる。空中へ複雑な線が走り、小さな魔法陣を形作った。
——次の瞬間。薪の中心に、赤い炎が灯った。小屋の中へ温かな光が広がる。
その光景を見たシオンが、怪訝そうに眉を寄せた。
「……魔法が使えるのか」
「うん。そうみたい」
「そうみたい?」
ラズは炎へ手を翳しながら頷く。
「どうすれば使えるのか、何となく分かったの」
「誰に教わった」
「覚えてない」
「それでも術式を組めるのか」
「術式?」
ラズは自分の手元を光を見る。すでに魔法陣は消えていた。
「今のが?」
「……知らずに使ったのか」
「火をつけたいって思って、手を動かしたらできた」
シオンの眉間の皺が、さらに深くなる。
記憶はない。デウスも神殿も知らない。それなのに、魔法の扱い方だけは身体が覚えている。
少女の不自然さが、また一つ増えた。
「何?」
ラズが尋ねる。
「別に」
「怪しいって思ってる顔」
「実際、怪しいだろう」
「わたしも自分が怪しいと思う」
「自覚があるなら、少しは警戒しろ」
「誰を?」
「俺を含めて、全員だ」
シオンはそれだけ言い、再び外へ視線を向けた。
◇
村を通った際、ラズは先ほどの老人から豆と根菜を分けてもらっていた。雨に濡れないよう布で包み、小さな袋へ入れられている。
小屋の奥には、錆びた鍋が残されていた。
ラズは鍋の内側を何度か水の魔法で洗い、火の上へ置く。魔法で水を生み出し、豆と細かく切った根菜を放り込んだ。
刃物は持っていなかったため、根菜は硬い石の角へ押しつけて割った。大きさは揃っていない。一つは指先ほど、別の一つは拳ほどもある。
シオンはその様子を横目で見ていたが、何も言わなかった。
やがて鍋の中で水が沸き始める。
湯気とともに、煮えた野菜の匂いが小屋へ広がった。
シオンの顔が、僅かにそちらへ向く。ほんの一瞬の反応だった。だが、ラズは見逃さなかった。
「食べる?」
「要らん」
「でも今、匂いを嗅いでたでしょう」
「匂いはする」
「お腹は空いてないの?」
「人間の食事は食べられない」
ラズの手が止まった。
火の上で、鍋が小さく音を立てている。
「食べられない?」
「ああ」
「好き嫌いじゃなくて?」
「身体が受けつけない」
シオンの口調は淡々としていた。まるで、自分とは無関係な物事を説明しているようだった。
「口にしても、身体が拒む」
「全部?」
「人間が食べるものはな」
ラズはシオンを見る。
彼の顔には、悲しみも不満も浮かんでいない。既にすべてを諦めた者のように、事実だけを告げているようだった。
「じゃあ、普段は何を食べてるの?」
シオンの視線がラズへ向いた。
紫色の右目と、赤色の左目。二色の瞳に、明確な警告が浮かんでいる。
——それ以上聞くな。
言葉にされなくても伝わった。
ラズは視線を落とす。
「……ごめん」
シオンは何も答えなかった。
小屋に、雨音と鍋の煮える音だけが響く。
◇
しばらくして、ラズは煮込みを木の器へよそった。
小屋に残されていた器は縁が欠けていたが、洗えば使えないことはない。
火の前へ座り、匙で一口掬う。息を吹きかけ、口へ運んだ。
「……薄い」
思わず漏れた呟きに、壁際から声が返った。
「水を入れすぎだ」
ラズは驚いて顔を上げる。
「料理、分かるの?」
「見れば分かる」
「作ったことがあるの?」
シオンは答えなかった。
ラズはもう一度、鍋の中を覗き込む。
大量の汁の中に、豆と不揃いな根菜が沈んでいる。
「何を入れたらいいと思う?」
「知らん」
「さっき、水が多いって言ったのに」
「それくらいは誰でも分かる」
「わたしには分からなかったよ」
「見れば分かる」
「だから、見ても分からなかったの」
「……そうか」
シオンは僅かに呆れた顔をした。
ラズは荷物の中を探り、村で分けてもらった薬草を取り出す。細長い葉を持つ、濃い緑色の植物だった。
「これ、味付けに使えるかな?」
「やめておけ」
「どうして?」
「苦くなる」
「入れたことがあるの?」
何気なく尋ねた言葉だった。
だが、シオンは答えなかった。窓の外へ向けられていた視線が、ほんの僅かに下がる。
長い沈黙の後、シオンはゆっくりと口を開いた。
「……母は、煮込み料理にその薬草を入れていた」
ラズは目を瞬かせた。
シオンの口から、彼が殺したというリゼのことではなく、憎んでいる神のことでもない、母親の作っていた料理——ごく普通の、人間としての日常の話が出るのは初めてのことだった。
「美味しかった?」
ラズが尋ねる。
シオンは少し考えるように窓際を見つめる。雨音を聞きながら、遠い記憶を探しているように見えた。
「……子どもの頃は、嫌いだった」
その口調は、普段よりも僅かに穏やかだった。
「薬草を抜いてくれと頼んだ。だが、身体にいいからと言って、母さんは抜かなかった」
「ちゃんと食べたの?」
「残せば怒られた」
「怖いお母さんだった?」
「怒ると怖かった」
短い答え。だが、ラズには、シオンがほんの僅かに口元を緩めたように見えた。
「今は好き?」
緩んだように見えたシオンの表情は、すぐに暗いものへと塗り替えられてしまった。それ以外の表情を浮かべることなど、許されていないかのように。
「……もう、味は思い出せない」
ラズは何も言えなくなった。聞いてはいけないことを尋ねたのかもしれない。
だが、シオンは怒らなかった。火の向こうで、静かに瞼を伏せている。
「匂いは?」
ラズは慎重に尋ねた。
「覚えている」
少し間を置き、シオンは続ける。
「家の外まで届くような匂いだった」
煮えた豆。根菜。薬草。煙。夕暮れ時。畑から戻れば、家の中から湯気とともに漂ってきた匂い。それらの情景が、シオンの脳裏に浮かぶ。
「味は苦かったが、匂いだけは悪くなかった」
ラズは手元の薬草を見る。結局、鍋へは入れず、元の袋へ戻した。
そして、胸へ浮かんだ疑問を、そのまま口にする。
「リゼって人も、こういう料理を知ってた?」
シオンの表情から、僅かに残っていた穏やかさが消えた。小屋の空気が、急に冷え込んだように感じられる。
「その名前を口にするなと言ったはずだ」
「でも、わたしはその人に似てるんでしょう?」
ラズは自分の頬へ触れた。
「どうして似てるのか、知りたい」
「俺に聞くな」
「あなたしか手がかりがないの」
「俺も、お前がなぜ似ているのかは知らない」
「でも、その人を殺したんでしょう」
その言葉を言った直後、ラズは後悔した。
空気が揺れる。
窓際にいたはずのシオンが、一瞬で目の前へ立っていた。
首を掴まれたわけではない。拳を向けられたわけでもない。ただ、至近距離から見下ろされている。それだけだった。
それだけなのに、身体が動かなかった。
赤と紫の瞳が、炎の光を受けて妖しく揺れている。魔物を跡形もなく砕いた拳が、すぐ近くにある。
「何も知らない偽物が」
怒りに満ちた、低い声だった。
だが、それ以上に、深く傷ついた者が、傷口へ触れた相手を拒絶しているような声だった。
再び投げつけられた「偽物」という言葉が、ラズの胸へ刺さる。
怖かった。それでも、ラズは目を逸らさなかった。
「……知りたいから聞いてるの」
「知ってどうする」
「分からない」
声が震えた。それでも言葉を続ける。
「でも、何も知らないまま、あなたに憎まれるのは嫌」
シオンの瞳が揺れた。
「俺は、別にお前を憎んではいない」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするの?」
シオンは答えなかった。
しばらくラズを見下ろした後、ゆっくりと離れる。再び壁際へ戻り、窓の外へ顔を向けた。
「お前は、あいつじゃない」
独り言のような、小さな声だった。
ラズはその言葉を胸の内で繰り返した。
リゼではない。それは安心すべきことなのか、悲しむべきことなのか。
今のラズには、まだ分からなかった。
◇
しばらくして、ラズは冷めかけた煮込みを、もう一口食べた。
「……やっぱり美味しくない」
「薬草を入れるからだ」
「入れてないよ」
シオンが僅かに顔を動かす。
「なら、お前の作り方が悪い」
「ひどい」
ラズは頬を膨らませた。
シオンは窓の外を見続けている。
だが、先ほどまで張り詰めていた肩からは、ほんの僅かに力が抜けているように見えた。
「リゼは、料理が上手だった?」
もう一度、その名を口にする。
今度はシオンも怒鳴らなかった。長い沈黙の後、低い声が返る。
「下手だった」
ラズは目を瞬かせた。
「そうなの?」
「何でも鍋へ入れ、甘く味をつければ食えると思っていた」
「わたしと似てるかも」
「似ていない」
間を置かず、即座に否定された。それが何だか可笑しくて、ラズは小さく笑う。
「でも、料理は下手だったんでしょう?」
「お前よりはましだ」
「わたしの料理を食べてもいないのに、決めつけないでよ」
ラズは頬を膨らませる。
シオンは、最初から人間の食事がとれないわけではないのだろう。昔は食べられたのだ。母親の煮込みも、リゼが作った甘すぎる料理も。
食べられなくなった理由。それを聞けば、またシオンの中にある何かを傷つける気がした。
ラズは黙って匙を動かした。
◇
煮込みを食べ終える頃には、雨はさらに強くなっていた。屋根を叩く雨音が、小屋全体を震わせている。
ラズは火の近くへ移動し、両膝を抱えた。
「雨、止まないね」
「ああ」
「明日まで、ここかな」
「お前が歩けるなら、今からでも出発する」
「嫌」
ラズは即答した。
「だって、眠いから」
「なら寝ろ」
「シオンは?」
「俺は眠れない」
ラズの顔から、僅かに眠気が消えた。
「眠れない?」
「ああ」
「今日だけじゃなくて?」
「ずっとだ」
「一度も?」
シオンはラズを見る。
「ここ数年は、一度も眠っていない」
淡々とした声だった。
だが、その言葉の意味を理解するまで、ラズには少し時間がかかった。
「どうして眠れないの?」
「お前に話す必要はない」
「眠くならないの?」
「ならない」
「休まなくても平気?」
「問題ない」
「疲れないの?」
「ああ」
シオンは窓の外へ視線を戻す。これ以上の話はしないという意思表示だった。
ラズは火の向こうにいるシオンを見つめる。
同じ食事を取れない。寒さも感じない。眠ることさえできない。魔物を拳だけで粉々にし、巨大な岩盤を受け止める身体。
人間の姿をしているのに、人間ではない何かのように見えた。少し、怖かった。
それでも、シオンは母親の料理を覚えている。苦い薬草を嫌がった子どもの頃がある。リゼの料理が下手だったことを覚えている。
名前を呼ばれれば傷つき、思い出へ触れられれば怒る。
その記憶だけが、目の前にいる青年を、まだ人間の側へ繋ぎ止めているように思えた。
「じゃあ、見張っててくれる?」
ラズは膝へ頬を乗せたまま尋ねる。
「勝手についてきた奴を守る理由はない」
「でも、魔物が来たら倒すでしょう?」
シオンは答えなかった。否定もしない。
ラズはそれを、自分に都合よく受け取ることにした。
「おやすみ、シオン」
返事はなかった。
ラズは火の近くで身体を丸める。
濡れた服はまだ冷たい。炎へ近づいても、身体の芯に残った寒さはなかなか消えなかった。
窓へ打ちつける雨音を聞きながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
眠りへ落ちる直前、誰かが火へ薪を足す音がした。
◇
ラズが目を覚ました時、小屋の中には、雨上がりの白い光が差し込んでいた。火はほとんど消え、赤い熾火だけが残っている。
身体は、思っていたほど冷えていなかった。
代わりに、肩から足元までを何かが覆っている。
黒い布。毛皮のついた、大きな外套だった。ラズが両手を広げても、端へ届かない。小柄な彼女の身体なら、全身を包み込めるほど大きい。
顔を上げる。
シオンは外套を身につけず、小屋の入口に立っていた。雨の止んだ外を、何事もなかったような顔で見ている。
「シオン」
「起きたなら行くぞ」
ラズは外套を抱えたまま立ち上がった。
「これ」
「邪魔なら返せ」
「シオンがかけてくれたの?」
「知らん」
「ほかに誰もいないよ」
「寝ている間に自分で取ったんじゃないのか」
「シオンが着てたのを、力づくで剥ぎ取ったの?」
「覚えていない」
「眠ってないのに?」
シオンは黙った。
ラズは外套を綺麗に畳もうとしたが、大きすぎてうまく扱えない。結局、両腕で抱えたままシオンへ差し出す。
「ありがとう」
「……何のことだ」
素っ気ない返事だった。シオンは外套を受け取り、濡れの残る肩へ掛ける。
ラズは、それ以上追及しなかった。ただ、心底嬉しそうに笑う。
シオンはその笑顔から逃げるように顔を背け、小屋の外へ出た。
「置いていくぞ」
「待って」
ラズはすぐにその後を追う。
雨に洗われた道へ、二人分の足跡が並んだ。
同じものを食べられず、同じように眠ることもできない。同じ火を囲んでいても、二人の間には大きな隔たりがある。
それでも、夜の間だけ。シオンの黒い外套には、ラズが眠るための僅かな温かさが残されていた。




