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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
6/79

同じ火

 村を出てから、しばらく経った頃だった。

 空を覆っていた雲から、細い雨が落ち始めた。初めのうちは、頬に冷たいものが触れる程度だった。だが、山道を進むにつれて雨脚は強まり、日が沈む頃には、辺りの景色を白く霞ませるほどの大雨となっていた。風に煽られた雨が、斜めに木々を打ちつける。


 道はぬかるみ、足を踏み出すたびに靴が泥へ沈んだ。髪も衣服もすでに濡れきっている。

 しかし、シオンは歩みを止めようとしなかった。

 ラズも黙って後を追っていたが、やがて身体の震えを隠せなくなった。腕を胸の前で組み、何度も濡れた髪を払っている。


「……寒い」


 小さな呟きは、激しい雨音に紛れかけた。

 シオンが僅かに顔を動かす。


 街道から少し外れた場所に、朽ちかけた小屋が見えた。

 壁の一部は傾き、屋根にも穴が開いている。かつて狩人が使っていたものだろう。長く放置されているらしく、周囲は伸びた草と蔓に覆われていた。


「入るぞ」


 シオンが言う。

 ラズは少し驚いたように顔を上げた。


「休むの?」


「このままでは、お前が動けなくなる」


「心配してくれた?」


「足手まといを背負いたくないだけだ」


 シオンはラズの返事を待たず、小屋へ向かった。



 扉は半分外れかけていた。

 シオンが手を掛けると、蝶番が鈍い音を立てる。力を加えすぎないよう慎重に押し開き、二人は中へ入った。


 小屋の内部は薄暗かった。

 屋根の一部が崩れ、その下には雨水が落ちている。床板もところどころ腐っていたが、壁際には濡れていない場所が残っていた。少なくとも、吹きさらしの外よりはましだった。


 ラズは部屋の中央へしゃがみ込み、濡れた髪を両手で絞った。指の間から水が落ちる。


「寒い……」


 歯の根が合わず、声が微かに震えていた。


 シオンも全身を濡らしている。

 銀白の髪は雨を吸い、普段よりも重たげに背へ張りついていた。毛皮付きの外套からも、水が滴り落ちている。

 それでも、シオンは寒がる様子を見せなかった。窓枠だけが残った窓の前へ立ち、外の暗闇へ目を向けている。


「寒くないの?」


 ラズが尋ねた。


「感じない」


「全然?」


「ああ」


「どうして?」


「お前に説明する必要はない」


 突き放すような返事だった。

 ラズは口を閉じる。


 出会ってからまだ一日も経っていない。

 何を聞けば答えてくれるのか。どの言葉が、シオンの触れられたくない部分へ届いてしまうのか。ラズには、まだよく分からなかった。

 ただ、何を尋ねても拒絶されるわけではないことも、少しずつ分かり始めていた。


 ラズは小屋の隅を探した。

 湿っていない木片や、かつて薪として使われていたらしい枝を集める。部屋の中央へ積み、両手を翳した。淡い光が指先へ集まる。空中へ複雑な線が走り、小さな魔法陣を形作った。

 ——次の瞬間。薪の中心に、赤い炎が灯った。小屋の中へ温かな光が広がる。

 その光景を見たシオンが、怪訝そうに眉を寄せた。


「……魔法が使えるのか」


「うん。そうみたい」


「そうみたい?」


 ラズは炎へ手を翳しながら頷く。


「どうすれば使えるのか、何となく分かったの」


「誰に教わった」


「覚えてない」


「それでも術式を組めるのか」


「術式?」


 ラズは自分の手元を光を見る。すでに魔法陣は消えていた。


「今のが?」


「……知らずに使ったのか」


「火をつけたいって思って、手を動かしたらできた」


 シオンの眉間の皺が、さらに深くなる。

 記憶はない。デウスも神殿も知らない。それなのに、魔法の扱い方だけは身体が覚えている。

 少女の不自然さが、また一つ増えた。


「何?」


 ラズが尋ねる。


「別に」


「怪しいって思ってる顔」


「実際、怪しいだろう」


「わたしも自分が怪しいと思う」


「自覚があるなら、少しは警戒しろ」


「誰を?」


「俺を含めて、全員だ」


 シオンはそれだけ言い、再び外へ視線を向けた。



 村を通った際、ラズは先ほどの老人から豆と根菜を分けてもらっていた。雨に濡れないよう布で包み、小さな袋へ入れられている。


 小屋の奥には、錆びた鍋が残されていた。

 ラズは鍋の内側を何度か水の魔法で洗い、火の上へ置く。魔法で水を生み出し、豆と細かく切った根菜を放り込んだ。

 刃物は持っていなかったため、根菜は硬い石の角へ押しつけて割った。大きさは揃っていない。一つは指先ほど、別の一つは拳ほどもある。

 シオンはその様子を横目で見ていたが、何も言わなかった。


 やがて鍋の中で水が沸き始める。

 湯気とともに、煮えた野菜の匂いが小屋へ広がった。


 シオンの顔が、僅かにそちらへ向く。ほんの一瞬の反応だった。だが、ラズは見逃さなかった。


「食べる?」


「要らん」


「でも今、匂いを嗅いでたでしょう」


「匂いはする」


「お腹は空いてないの?」


「人間の食事は食べられない」


 ラズの手が止まった。

 火の上で、鍋が小さく音を立てている。


「食べられない?」


「ああ」


「好き嫌いじゃなくて?」


「身体が受けつけない」


 シオンの口調は淡々としていた。まるで、自分とは無関係な物事を説明しているようだった。


「口にしても、身体が拒む」


「全部?」


「人間が食べるものはな」


 ラズはシオンを見る。

 彼の顔には、悲しみも不満も浮かんでいない。既にすべてを諦めた者のように、事実だけを告げているようだった。


「じゃあ、普段は何を食べてるの?」


 シオンの視線がラズへ向いた。

 紫色の右目と、赤色の左目。二色の瞳に、明確な警告が浮かんでいる。

 ——それ以上聞くな。

 言葉にされなくても伝わった。

 ラズは視線を落とす。


「……ごめん」


 シオンは何も答えなかった。


 小屋に、雨音と鍋の煮える音だけが響く。



 しばらくして、ラズは煮込みを木の器へよそった。

 小屋に残されていた器は縁が欠けていたが、洗えば使えないことはない。

 火の前へ座り、匙で一口掬う。息を吹きかけ、口へ運んだ。


「……薄い」


 思わず漏れた呟きに、壁際から声が返った。


「水を入れすぎだ」


 ラズは驚いて顔を上げる。


「料理、分かるの?」


「見れば分かる」


「作ったことがあるの?」


 シオンは答えなかった。


 ラズはもう一度、鍋の中を覗き込む。

 大量の汁の中に、豆と不揃いな根菜が沈んでいる。


「何を入れたらいいと思う?」


「知らん」


「さっき、水が多いって言ったのに」


「それくらいは誰でも分かる」


「わたしには分からなかったよ」


「見れば分かる」


「だから、見ても分からなかったの」


「……そうか」


 シオンは僅かに呆れた顔をした。


 ラズは荷物の中を探り、村で分けてもらった薬草を取り出す。細長い葉を持つ、濃い緑色の植物だった。


「これ、味付けに使えるかな?」


「やめておけ」


「どうして?」


「苦くなる」


「入れたことがあるの?」


 何気なく尋ねた言葉だった。

 だが、シオンは答えなかった。窓の外へ向けられていた視線が、ほんの僅かに下がる。

 長い沈黙の後、シオンはゆっくりと口を開いた。


「……母は、煮込み料理にその薬草を入れていた」


 ラズは目を瞬かせた。

 シオンの口から、彼が殺したというリゼのことではなく、憎んでいる神のことでもない、母親の作っていた料理——ごく普通の、人間としての日常の話が出るのは初めてのことだった。


「美味しかった?」


 ラズが尋ねる。

 シオンは少し考えるように窓際を見つめる。雨音を聞きながら、遠い記憶を探しているように見えた。


「……子どもの頃は、嫌いだった」


 その口調は、普段よりも僅かに穏やかだった。


「薬草を抜いてくれと頼んだ。だが、身体にいいからと言って、母さんは抜かなかった」


「ちゃんと食べたの?」


「残せば怒られた」


「怖いお母さんだった?」


「怒ると怖かった」


 短い答え。だが、ラズには、シオンがほんの僅かに口元を緩めたように見えた。


「今は好き?」


 緩んだように見えたシオンの表情は、すぐに暗いものへと塗り替えられてしまった。それ以外の表情を浮かべることなど、許されていないかのように。


「……もう、味は思い出せない」


 ラズは何も言えなくなった。聞いてはいけないことを尋ねたのかもしれない。

 だが、シオンは怒らなかった。火の向こうで、静かに瞼を伏せている。


「匂いは?」


 ラズは慎重に尋ねた。


「覚えている」


 少し間を置き、シオンは続ける。


「家の外まで届くような匂いだった」


 煮えた豆。根菜。薬草。煙。夕暮れ時。畑から戻れば、家の中から湯気とともに漂ってきた匂い。それらの情景が、シオンの脳裏に浮かぶ。


「味は苦かったが、匂いだけは悪くなかった」


 ラズは手元の薬草を見る。結局、鍋へは入れず、元の袋へ戻した。

 そして、胸へ浮かんだ疑問を、そのまま口にする。


「リゼって人も、こういう料理を知ってた?」


 シオンの表情から、僅かに残っていた穏やかさが消えた。小屋の空気が、急に冷え込んだように感じられる。


「その名前を口にするなと言ったはずだ」


「でも、わたしはその人に似てるんでしょう?」


 ラズは自分の頬へ触れた。


「どうして似てるのか、知りたい」


「俺に聞くな」


「あなたしか手がかりがないの」


「俺も、お前がなぜ似ているのかは知らない」


「でも、その人を殺したんでしょう」


 その言葉を言った直後、ラズは後悔した。


 空気が揺れる。

 窓際にいたはずのシオンが、一瞬で目の前へ立っていた。

 首を掴まれたわけではない。拳を向けられたわけでもない。ただ、至近距離から見下ろされている。それだけだった。

 それだけなのに、身体が動かなかった。

 赤と紫の瞳が、炎の光を受けて妖しく揺れている。魔物を跡形もなく砕いた拳が、すぐ近くにある。


「何も知らない偽物が」


 怒りに満ちた、低い声だった。

 だが、それ以上に、深く傷ついた者が、傷口へ触れた相手を拒絶しているような声だった。


 再び投げつけられた「偽物」という言葉が、ラズの胸へ刺さる。

 怖かった。それでも、ラズは目を逸らさなかった。


「……知りたいから聞いてるの」


「知ってどうする」


「分からない」


 声が震えた。それでも言葉を続ける。


「でも、何も知らないまま、あなたに憎まれるのは嫌」


 シオンの瞳が揺れた。


「俺は、別にお前を憎んではいない」


「じゃあ、どうしてそんな顔をするの?」


 シオンは答えなかった。

 しばらくラズを見下ろした後、ゆっくりと離れる。再び壁際へ戻り、窓の外へ顔を向けた。


「お前は、あいつじゃない」


 独り言のような、小さな声だった。


 ラズはその言葉を胸の内で繰り返した。

 リゼではない。それは安心すべきことなのか、悲しむべきことなのか。

 今のラズには、まだ分からなかった。



 しばらくして、ラズは冷めかけた煮込みを、もう一口食べた。


「……やっぱり美味しくない」


「薬草を入れるからだ」


「入れてないよ」


 シオンが僅かに顔を動かす。


「なら、お前の作り方が悪い」


「ひどい」


 ラズは頬を膨らませた。


 シオンは窓の外を見続けている。

 だが、先ほどまで張り詰めていた肩からは、ほんの僅かに力が抜けているように見えた。


「リゼは、料理が上手だった?」


 もう一度、その名を口にする。

 今度はシオンも怒鳴らなかった。長い沈黙の後、低い声が返る。


「下手だった」


 ラズは目を瞬かせた。


「そうなの?」


「何でも鍋へ入れ、甘く味をつければ食えると思っていた」


「わたしと似てるかも」


「似ていない」


 間を置かず、即座に否定された。それが何だか可笑しくて、ラズは小さく笑う。


「でも、料理は下手だったんでしょう?」


「お前よりはましだ」


「わたしの料理を食べてもいないのに、決めつけないでよ」


 ラズは頬を膨らませる。


 シオンは、最初から人間の食事がとれないわけではないのだろう。昔は食べられたのだ。母親の煮込みも、リゼが作った甘すぎる料理も。

 食べられなくなった理由。それを聞けば、またシオンの中にある何かを傷つける気がした。

 ラズは黙って匙を動かした。



 煮込みを食べ終える頃には、雨はさらに強くなっていた。屋根を叩く雨音が、小屋全体を震わせている。

 ラズは火の近くへ移動し、両膝を抱えた。


「雨、止まないね」


「ああ」


「明日まで、ここかな」


「お前が歩けるなら、今からでも出発する」


「嫌」


 ラズは即答した。


「だって、眠いから」


「なら寝ろ」


「シオンは?」


「俺は眠れない」


 ラズの顔から、僅かに眠気が消えた。


「眠れない?」


「ああ」


「今日だけじゃなくて?」


「ずっとだ」


「一度も?」


 シオンはラズを見る。


「ここ数年は、一度も眠っていない」


 淡々とした声だった。

 だが、その言葉の意味を理解するまで、ラズには少し時間がかかった。


「どうして眠れないの?」


「お前に話す必要はない」


「眠くならないの?」


「ならない」


「休まなくても平気?」


「問題ない」


「疲れないの?」


「ああ」


 シオンは窓の外へ視線を戻す。これ以上の話はしないという意思表示だった。


 ラズは火の向こうにいるシオンを見つめる。


 同じ食事を取れない。寒さも感じない。眠ることさえできない。魔物を拳だけで粉々にし、巨大な岩盤を受け止める身体。

 人間の姿をしているのに、人間ではない何かのように見えた。少し、怖かった。


 それでも、シオンは母親の料理を覚えている。苦い薬草を嫌がった子どもの頃がある。リゼの料理が下手だったことを覚えている。

 名前を呼ばれれば傷つき、思い出へ触れられれば怒る。

 その記憶だけが、目の前にいる青年を、まだ人間の側へ繋ぎ止めているように思えた。


「じゃあ、見張っててくれる?」


 ラズは膝へ頬を乗せたまま尋ねる。


「勝手についてきた奴を守る理由はない」


「でも、魔物が来たら倒すでしょう?」


 シオンは答えなかった。否定もしない。

 ラズはそれを、自分に都合よく受け取ることにした。


「おやすみ、シオン」


 返事はなかった。


 ラズは火の近くで身体を丸める。

 濡れた服はまだ冷たい。炎へ近づいても、身体の芯に残った寒さはなかなか消えなかった。


 窓へ打ちつける雨音を聞きながら、ゆっくりと瞼を閉じる。

 眠りへ落ちる直前、誰かが火へ薪を足す音がした。



 ラズが目を覚ました時、小屋の中には、雨上がりの白い光が差し込んでいた。火はほとんど消え、赤い熾火だけが残っている。

 身体は、思っていたほど冷えていなかった。


 代わりに、肩から足元までを何かが覆っている。

 黒い布。毛皮のついた、大きな外套だった。ラズが両手を広げても、端へ届かない。小柄な彼女の身体なら、全身を包み込めるほど大きい。


 顔を上げる。


 シオンは外套を身につけず、小屋の入口に立っていた。雨の止んだ外を、何事もなかったような顔で見ている。


「シオン」


「起きたなら行くぞ」


 ラズは外套を抱えたまま立ち上がった。


「これ」


「邪魔なら返せ」


「シオンがかけてくれたの?」


「知らん」


「ほかに誰もいないよ」


「寝ている間に自分で取ったんじゃないのか」


「シオンが着てたのを、力づくで剥ぎ取ったの?」


「覚えていない」


「眠ってないのに?」


 シオンは黙った。


 ラズは外套を綺麗に畳もうとしたが、大きすぎてうまく扱えない。結局、両腕で抱えたままシオンへ差し出す。


「ありがとう」


「……何のことだ」


 素っ気ない返事だった。シオンは外套を受け取り、濡れの残る肩へ掛ける。

 ラズは、それ以上追及しなかった。ただ、心底嬉しそうに笑う。

 シオンはその笑顔から逃げるように顔を背け、小屋の外へ出た。


「置いていくぞ」


「待って」


 ラズはすぐにその後を追う。


 雨に洗われた道へ、二人分の足跡が並んだ。

 同じものを食べられず、同じように眠ることもできない。同じ火を囲んでいても、二人の間には大きな隔たりがある。

 それでも、夜の間だけ。シオンの黒い外套には、ラズが眠るための僅かな温かさが残されていた。

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