神殺しの御業
「崖だ!」
村人の叫びが上がる。
直後、地面が大きく揺れた。村の背後から、岩の砕ける轟音が響く。
ラズが振り返ると、切り立った岩壁の上部から土煙が噴き上がっていた。細かな石が斜面を跳ねながら落ちてくる。その後を追うように、人の背丈を遥かに超える巨大な岩が、崖の斜面を転がり始めた。
「小神殿へ!」
「早く、デウス様の加護のそばへ!」
畑や家々にいた村人たちが、一斉に小神殿へ駆け寄った。
先ほどの老人がラズの腕を掴み、白い尖塔の前へ引き込む。
シオンだけはその場から動かず、落下してくる岩を見上げていた。
小神殿の屋根に掲げられた旗が、大きくはためく。旗に描かれた光輪と翼の紋章が、淡い白色に輝いた。光は小神殿を中心に広がり、村を覆う半球状の膜を形作る。
最初の大岩が斜面から飛び出した。家屋を押し潰すには十分な大きさだった。
岩が白い膜へ激突する。腹の底へ響くような轟音とともに、結界が大きくたわんだ。岩は砕け、大小の破片となって膜の外側へ落ちる。
だが、白い結界にも一本の亀裂が走った。
「デウス様!」
村人たちがその場へ跪く。
「どうか、我らをお守りください!」
祈りの声が重なる。しかし、結界に生じた亀裂は塞がらなかった。白い膜は不規則に明滅し、今にも消えそうに揺らいでいる。
崖から、二つ目の岩が落ちてきた。一つ目よりも遥かに大きい。斜面を転がるたびに周囲の岩を巻き込み、その大きさを増していく。
岩が結界へ衝突した。
甲高い破砕音が響く。白い膜は衝撃に耐えきれず、無数の光の欠片となって砕け散った。
遮るものを失った岩が、そのまま村へ落下する。
村人たちの悲鳴が上がった。
その瞬間、シオンが地面を蹴った。足元の土が爆ぜ、その姿が掻き消える。次の瞬間には、落下する岩の横へ回り込んでいた。
真正面から砕けば、無数の破片が村へ降り注ぐ。シオンは岩の中心ではなく、村とは反対側の側面へ拳を叩き込んだ。
轟音と共に、巨大な岩が、空中で横向きに弾かれる。表面が大きく割れながらも、岩塊の大部分は村の脇を通り過ぎ、その先にある無人の畑へ落下した。
地面が大きく抉れ、土煙が柱のように立ち上る。
だが、崩落は終わっていなかった。
崖の上部から、次々に岩が転がり落ちてくる。
シオンは地面へ降り立つより先に、近くの家の屋根を蹴った。
もう一度跳ぶ。落下してきた岩を殴り、村の右側へ逸らす。空中で身体を捻り、その背後から迫っていた別の岩を蹴り飛ばす。砕けた破片のうち、村へ向かうものだけを拳で打ち落とす。
一つ。二つ。三つ。シオンは落ちてくる岩の軌道を次々と変え、村の外へ弾き出していった。
黒い外套が、土煙の中で何度も翻る。
だが、崖から響く音は収まらない。
それどころか、先ほどまでとは比べものにならないほど低く、重い音が山全体から響き始めていた。
シオンが崖を見上げる。
岩壁の中央へ、縦に長い亀裂が走っていた。亀裂は見る間に左右へ広がり、崖の表面が村側へ僅かに傾く。
それはもはや、一つの岩ではなかった。崖の一部そのものが剥がれ、巨大な一枚岩となって滑り落ちようとしている。高さは小神殿の尖塔を遥かに超えていた。あれが落ちれば、村の半分が土砂の下へ消える。
「崖が落ちるぞ!」
誰かが叫んだ。
村人たちが逃げようとし始める。だが、斜面に沿って建つこの村には、岩壁から十分に離れる時間などなかった。
巨大な岩壁が、ゆっくりと崖から剥がれた。
一瞬の静寂。
次いで、岩壁が斜面を滑り始める。地面を削り、木々を根元から薙ぎ倒しながら、村へ向かって加速していく。
シオンは落下地点を見た。
岩壁の正面には、小神殿がある。その周囲には、逃げ遅れた村人たちが集まっていた。
『放っておけ』
左胸の奥で声がした。
『貴様だけなら避けられるだろう?』
シオンは返事をしなかった。確かに、シオンだけであれば、走れば難なく避けることができる。岩壁が滑り落ちる速度より速く走ることなど、シオンにとっては容易かった。
しかし、シオンは地面を蹴り、崖へ向かって走り出した。
「シオン!」
ラズの声が背後から聞こえた。
シオンは岩壁の正面へ回り込んだ。迫ってくるのは、家屋を何十軒もまとめて押し潰せるほどの岩の塊。立ち塞がろうとするシオンの姿は、その前ではあまりにも小さい。
だが、彼は退かなかった。
両脚を斜面へ踏み込む。足元の岩が砕け、靴が地面へ深く沈んだ。
シオンは両腕を伸ばし、滑り落ちてきた岩壁の先端を受け止めた。激突した瞬間、山全体が震えるような轟音が響いた。
シオンの身体が斜面を押し戻される。両足が地面を削り、長い溝を作る。岩壁は止まらない。そのままシオンごと村へ向かって進んでいく。
「止まれ……っ」
シオンの腕に力が籠もる。手袋に覆われた指が、硬い岩の表面へ食い込んだ。
さらに一歩、押し戻される。村までは、もう僅かな距離しかない。
左胸の奥が激しく脈打った。
『なぜ力を使わない?』
声が笑う。
『押し潰されたいのか』
「黙れ」
『力を使え、シオン』
赤黒い力が、シオンの両腕を覆った。
シオンは歯を食いしばり、さらに深く腰を落とす。
後退していた足が止まった。滑り落ちていた岩壁の動きも、ゆっくりと鈍くなる。やがて、完全に止まった。
村人たちは声も出せず、その光景を見つめていた。
シオンは巨大な岩壁を支えたまま、顔だけを横へ向ける。
村の左手には、誰も住んでいない深い谷があった。あそこへ落とせば、村には届かない。
シオンは、岩壁を掴んだ指にさらに力を込め、岩壁の先端を持ち上げた。それだけで、シオンの足元がさらに深く沈む。
持ち上げた岩壁を、身体ごと捻るように横へ押す。
一度傾くと、巨大な岩壁は自らの重みに引かれて向きを変え始めた。村へ向いていた先端が、少しずつ谷の方角へずれていく。
シオンは最後に、岩壁の側面へ拳を叩き込んだ。赤黒い力が弾けたかと思えば、巨大な岩壁は進路を完全に変え、村の脇を滑り落ちていき、やがて谷へ落下した。
地鳴りのような轟音が、山々の間を長く反響した。遅れて、崖に残っていた細かな石と土砂が落ちてくる。
だが、それらは村へ届く前に斜面の窪みへ溜まり、やがて動きを止めた。
しばらくの間、誰も動かなかった。
辺りを覆っていた土煙が、少しずつ薄れていく。
削られた斜面。村の外へ逸らされた岩。深い谷へ落ちた巨大な岩壁。
その中央に、シオンが立っていた。
黒い外套は土と埃に汚れ、毛皮を纏った肩から細かな石がぱらぱらと落ちている。
両足は地面へ深くめり込んでいた。それでも、シオン自身には傷一つないように見えた。
村人たちは呆然としていた。
神へ祈っていた者たちの視線が、今は一人の青年へ集まっている。
やがて、先ほどの老人が震える声を漏らした。
「まるで……神の御業だ」
その声に、シオンの顔が歪んだ。
「違う」
低く、感情を押し殺したような声だった。
左右で色の違う瞳が、老人を鋭く射抜く。
「俺を、あれと同じにするな」
老人は、何が彼を怒らせたのか分からず立ち尽くした。
シオンは村人たちを一瞥することもなく、村の出口へ歩き始める。
「シオン!」
ラズが老人の手を離れ、その後を追った。
◇
村を出て、しばらく歩いた後、ラズが口を開いた。
「昔の話が本当なら、あの人たちは、デウスに助けられたんだね」
返事はない。
「シオンは、デウスを殺すつもりなんでしょう?」
「ああ」
今度は短い答えが返ってきた。
「どうして?」
シオンの足が止まるが、振り返りはしない。
「聞いてどうする」
「分からない」
ラズは正直に答えた。
「わたしは、自分が誰なのかも分からない」
シオンの背中へ向かって、言葉を続ける。
「あなたがわたしを見て、どうしてそんな顔をするのかも分からない」
「……」
「わたしはリゼという人に似ていて、あなたはその人を殺した」
声が僅かに震えた。
恐怖が消えたわけではない。シオンが人を殺したと告げた時の冷たい目を、ラズは覚えている。
それでも、逃げずに問いかける。
「知ってるのは、それだけ」
何が起きたのか。なぜリゼを殺したのか。なぜ神を殺そうとしているのか。目の前の青年が、どうして時折、息をしていることさえ苦しそうな顔をするのか。
ラズは何も知らない。
「なのに、あなたは神を殺そうとしてる」
ラズは背後の村を振り返った。
陽の光を受けて輝く白い小神殿の尖塔が、遠くに見えている。
「でも、あの村の人たちは、その神に救われたって信じてる」
「だから何だ」
シオンの声から温度が失われていく。
「人を救った神なら、殺してはいけないのか」
「……分からない」
「なら黙っていろ」
シオンは再び歩き出した。
ラズはその背中へ、もう一つだけ問いかける。
「あなたは、あの村を助けたよね」
シオンは足を止めない。
「デウスが嫌いなのに」
「……」
「デウスを信じてる人たちなのに」
「俺の頭上にも岩が落ちてきていた」
「でも、シオンなら避けられたでしょう?」
シオンの足が再び止まった。
ゆっくりと振り返り、鋭い眼差しがラズへ向けられる。
「俺の行動へ、勝手に意味をつけるな」
「助けたわけじゃないの?」
「岩が邪魔だったから壊した。それだけだ」
「村の外へ飛ぶように壊してた」
「偶然だ」
「最後の大きい岩壁も、村じゃない方へ押してた」
「……」
「皆が潰れないようにしたんでしょう?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」
「うるさい」
シオンは不機嫌そうに顔を背ける。
その反応を見て、ラズはそれ以上問い詰めなかった。
シオンが人を殺したという話は、おそらく事実なのだろう。神を殺すという言葉も、冗談には思えない。
魔物を粉々にする拳も、人々から距離を置こうとする態度も、すべてが恐ろしい。
それでも。
村へ落ちる岩を砕く時、シオンは一度も人々の方へ破片を飛ばさなかった。結界が壊れた瞬間、迷うことなく動いた。感謝されても振り返らず、神と呼ばれれば激しく拒絶した。
目の前の青年には、まだ何かがある。自分で認めようとしない、何かが。ラズはそう感じていた。
二人は再び山道を歩き始めた。
背後から、村の鐘が聞こえてくる。崩落が収まったことを知らせる鐘。守護神デウスへ感謝を捧げる鐘。そして、神の加護が届かなかった場所で、村を救った名も知らぬ旅人へ向けられた鐘。
その旅人が、彼らの信じる神を殺すために歩いていることを、村人たちは誰も知らなかった。




