加護の村
それからも、ラズはシオンの後をついてきた。
止まれと言えば、一旦は足を止める。離れろと言えば、数歩分だけ距離を空ける。だが、シオンが再び歩き出せば、結局はその後を追ってくる。
シオンは歩調を合わせようとしなかった。
ラズとは背丈も違えば、歩幅も大きく異なる。木の根や岩が転がる森の道を、シオンは普段通りの速さで進んでいく。
ラズは置いていかれそうになるたび、小走りになって距離を詰めた。
『随分と懐かれているな』
左胸の奥から声がした。
「違う」
「何が?」
少し後ろから、ラズが尋ねる。
「お前には関係ない」
「また誰かと話してるの?」
「黙って歩け」
「誰もいないのに?」
「質問するな」
拒絶されても、ラズは大人しくならなかった。
しばらくは落ち葉を踏む二人分の足音だけが続いたが、やがて再び声が飛んでくる。
「シオンは、旅をしてるの?」
「……まあ、そんなところだ」
「何のために?」
シオンはすぐには答えなかった。
目的を言えば、この少女も離れていくかもしれない。神を殺すなどと口にする人間へ、自ら進んで同行しようとする者はいない。
たとえ記憶を失っていても、デウスの名くらいは知っているはずだった。この星に生きる者にとって、デウスは守護者であり、信仰の中心だ。その存在を殺そうとする者など、狂人か、冒涜者か、その両方にしか見えないだろう。
そうして離れてくれた方が好都合だ。そう考えたシオンは
足を止め、ラズを見下ろした。
「デウスを——神を、殺すためだ」
その言葉を聞いたラズは目を瞬かせた。
怯えるでもなく、非難するでもない。ただ、聞き慣れない言葉を与えられたように首を傾げる。
「デウス? 神?」
予想外の反応に、シオンの眉が寄る。
その反応は演技には見えなかった。だからこそ、余計に怪しい。
この星で、デウスを知らずに育つことなどありえるのか。
子どもは、毎晩眠る前にはデウスが大地へ光をもたらしたという伝承を聞かされる。朝には祈りを捧げ、祝祭の日には神殿へ供物を持っていく。町にも村にも、小神殿や祈りの場所があり、都市によっては広場へデウスを模した石像が建てられている。
そして空には、昼夜を問わず白い光の帯が浮かんでいる。デウスが星を守るために張ったとされる結界。人々にとって、平和と信仰の象徴である光だ。
それほど身近な存在を、ラズは初めて聞いた名のように口にした。
「この星を守っている、偉大な神とやらだ。知らないとでも言うつもりか?」
シオンの声には露骨な皮肉が混じっていた。
ラズは、そんなシオンの言葉にも特に動じることなく淡々と答える。
「そうなんだ」
ラズは空を見上げる。
木々の隙間から、白い光の帯が僅かに見えていた。
ラズはそれを指差す。
「あれも、その神様が作ったの?」
「そう言われている」
「知らなかった」
あまりにも素直な返答に、シオンは目を細める。
「本当に何も覚えていないのか」
「うん」
「デウスも、神殿も、この星のことも?」
「今のところは」
「今のところ?」
「見たら思い出すものがあるかもしれないでしょう?」
「都合のいい話だな」
吐き捨てるように言い、シオンは再び歩き出した。これ以上問い詰めても、同じ答えが返ってくるだけだろう。
ラズが嘘をついているのか、本当に記憶がないのか。今の段階では確かめようがなかった。
◇
長い夜が終わりに近づくにつれて、頭上の闇は少しずつ薄くなっていった。
木々の間へ青白い光が差し込み始めても、シオンは足を止めなかった。ラズは何度か疲れた様子で脚を擦っていたが、それでも休みたいとは言わずについてくる。
やがて、太陽が山の端から姿を現す頃、二人は森を抜けた。
森を抜けた先には、小さな村があった。緩やかな斜面に沿って、木造の家々が並んでいる。家屋の周囲には狭い畑が広がり、早朝から何人かの村人が農具を手に働いていた。背後には切り立った岩山がそびえている。
ただ、村の中央に建つ白い尖塔だけが、素朴な家並みから明らかに浮いていた。
その建物は小神殿と呼ばれるものだ。白く塗られた外壁に、細長い窓。屋根には、光輪と翼を組み合わせた紋章が描かれた旗が掲げられている。朝の風を受け、白い旗が静かにはためいていた。
その旗を目にした瞬間、シオンの足が止まった。
「わっ」
後ろを歩いていたラズが、止まりきれずにシオンの背中へぶつかった。厚い外套の毛皮へ顔を埋め、慌てて一歩下がる。
「急に止まらないでよ」
シオンは答えなかった。
紫色の右目と、赤色の左目。左右で色の異なる瞳が、神殿の紋章を睨んでいる。それまで暗く沈んでいた顔に、初めて明確な憎悪が浮かんでいた。
ラズがシオンの横から顔を覗かせる。
「……あれを知ってるの?」
「これも知らないのか」
「うん」
シオンは一瞬だけラズを見る。
彼女への疑いは消えない。寧ろ、知らないものが増えるほど、少女の不自然さも増していく。
「あれは神殿の紋章だ」
「神殿……」
「デウスへ仕える者たちの組織。あの紋章は、言ってみれば奴の象徴だ」
「シオンが殺そうとしている神様?」
「ああ」
それだけ答え、シオンは村へ向かって歩き出した。
ラズはもう一度白い尖塔を見上げてから、その後を追った。
◇
村へ入ると、畑仕事をしていた老人が二人に気づいた。
老人は、最初にラズを見る。次に、その前を歩くシオンへ目を向ける。
銀白色の長い髪。左右で色の違う瞳に、全身を覆う黒い衣服。腰に剣すら差していないにもかかわらず、血と魔物の臭いを纏っている。
老人の表情に、警戒が浮かんだ。
シオンはその視線に気づいていた。だが、足を緩めない。
老人の反応は、シオンにとっては珍しい反応ではなかった。町へ立ち寄れば、人々は彼の目を見て顔を強張らせる。銀白の髪を避けるように距離を取る。黒衣に残った血の跡を見れば、なおさらだった。
「旅の方かね」
老人が声をかけた。
シオンは立ち止まらなかったが、代わりにラズが足を止める。
「はい。たぶん」
「たぶん?」
老人が首を傾げる。
「わたしも、よく分からなくて」
「……そうかね」
不思議そうな顔をしたものの、老人はそれ以上追及しなかった。記憶を失っているとまで説明しても、余計な混乱を招くだけだろう。
老人は村の背後にある山を見上げた。
「これから山を越えるつもりなら、急がん方がいい。日が落ちるまでには向こう側へ着けんだろう」
「そうなんですか?」
「ああ。何もない村だが、泊まるなら小神殿の隣に旅人用の小屋がある。神官様へ言えば使わせてもらえるはずだ」
「ありがとうございます」
ラズはぺこりと頭を下げた。
顔を上げた時には、シオンはすでに村の中央近くまで進んでいた。
「待って」
ラズは慌ててその後を追った。隣へ並ぼうとしても、シオンは歩く速度を落とさない。
「ついてくるなと、何度も言ったはずだ」
「でも、あなたしか手掛かりがないから」
シオンの足が止まる。
振り返った顔には、強い拒絶の色があった。
「俺は、お前のことなど何も知らない」
「でも、リゼって人のことは知ってる」
「その名前を口にするな」
鋭い声だった。近くにいた村人まで振り返るほど低く、凄みを帯びている。
ラズは思わず口を閉じた。
シオンもそれ以上は何も言わず、小神殿の前を通り過ぎようとする。
老人が教えた旅人用の小屋は、小神殿のすぐ隣にあった。簡素だが、雨風を凌ぐには十分な造りだ。
だが、シオンは見向きもせずに、素通りしようとする。
「泊まらないの?」
「必要ない」
「でも、ずっと歩きっぱなしでしょう?」
「だから何だ」
「山を越えるのにも時間がかかるって言ってたし、少し休んだ方がいいよ」
「ここで休む理由はない」
「じゃあ、どこで?」
「日が暮れたら、その時に決める」
「それまでは歩くの?」
「ああ」
「疲れないの?」
シオンは答えなかった。その横顔は、暗く澱んだ表情に見える。
その反応を疑問に思ったラズが、シオンを呼んだ。
「シオン?」
「……行くぞ」
シオンは会話を打ち切るように歩き出す。
その背中は、目的地へ急いでいるというより、立ち止まることそのものを拒んでいるように見えた。
シオンを追ってラズも歩き出そうとしたその時、小神殿の前庭に立つ一枚の石碑が目に留まった。
人の背丈を越える大きな白い石。表面には翼を広げた人の姿と、その周囲を埋めるように文字が刻まれている。
「これは?」
ラズが石碑へ近づく。
文字を読もうと顔を寄せたが、今の星で一般的に使われているものとは形が異なっていた。長い年月で表面が削れていることもあり、意味を読み取れない。
近くにいた老人が答えた。
「この村が、デウス様に救われた時のことが記されているんだ」
デウス。
その名に、シオンの肩が僅かに動いた。村の出口へ向かいかけていた足が止まる。
「デウス……神様……」
ラズが石碑を見ながら呟くのを見て、老人は嬉しそうに頷いた。
「百年以上も昔のことだ。山から巨大な魔物が現れて、村を呑み込もうとしたと伝わっている」
老人は村の背後にそびえる崖を指差した。
切り立った岩壁に、白く変色した巨大な筋が走っている。まるで、途方もなく大きな刃で、山肌を斜めに削ったような痕跡だった。
「そこへデウス様が降り立ち、光の剣で魔物を斬った。あの白い跡は、その時についたものだそうだ」
「本当に、神様が来たの?」
「わしが生まれるより、ずっと前の話だがね」
老人は胸元に下げた木彫りの首飾りを握る。神殿の紋章が掘られた、素朴な品だった。
「曽祖父が、その父親から聞いたと言っていた。村に伝わる話では、空から白い翼が降りてきたそうだ」
この老人自身が目撃したわけではない、何世代にもわたって語り継がれてきた伝承だ。それでも、その声には疑いがなかった。
「デウス様がいなければ、ここに村はない。わしも、父も、祖父も、生まれてはいなかっただろう」
その言葉に、ラズは小神殿を見上げた。
白い壁。光輪と翼の紋章。神殿の前で頭を垂れ、朝の祈りを捧げる村人たち。
胸の奥で、何かがざわついた気がした。ラズは自分の胸へ手を添える。
「……わたし、この紋章を知ってる気がする」
その呟きを聞いたシオンの視線が鋭くなる。
「やはり、記憶があるのか」
「分からない」
「知らないと言ったばかりだろう」
「本当に分からないの。ただ、見てると……前にも見たことがある気がして」
「都合がいいな」
冷たく吐き捨てる。
ラズは傷ついたように眉を下げた。
「嘘じゃないよ」
「それを俺が信じると思うか」
「……分からない」
老人は二人の間に流れる険悪な空気へ戸惑い、口を挟むべきか迷っている様子だった。
——その時、村の奥から、甲高い鐘の音が響き渡った。
朝の祈りを知らせる鐘ではない。短く、何度も打ち鳴らされる、非常事態を告げる警鐘だった。




