面影の名
二人は森の中を歩き続けた。
長い夜は、すでに終わりへ近づいている。頭上を覆っていた闇は少しずつ薄くなり、空は白み始めた。
シオンの背丈は高い。少女とは歩幅も大きく違う。だが、シオンは振り返りもせず、普段と同じ速度で進んでいく。
少女は何度も木の根へ足を取られながら、小走りで追いかけていた。
「ねえ」
返事はない。
「ねえってば」
「……何だ」
シオンは振り返らない。
「あなたの名前は?」
ほんの少しだけ間があった。
「……シオン」
少女がその名を繰り返す。
「シオン」
リゼと同じ声。だが、記憶の中の彼女とは、どこか違う響き。
その名を呼ばれた瞬間、シオンの胸に鈍い痛みが走った。
懐かしさではない。喜びでもない。寧ろ、聞いてはならないものを聞いたような苛立ちが込み上げる。
シオン自身にも、その感情の正体は分からなかった。
少女は自分の胸元を指差す。
「わたしは?」
「知らん」
「わたしの名前、分からないの?」
「お前自身が分からないと言っただろう」
少女は困ったように眉を下げる。
「でも、さっきわたしをリゼって呼んでた」
シオンの足が突如として止まった。
少女も慌てて立ち止まる。
「それが、わたしの名前?」
「違う」
低く、冷たい声だった。
突如変わったシオンの雰囲気に、少女の肩が小さく震える。
「リゼは……」
言葉が喉へ引っかかった。
脳裏に、あの日のことが思い浮かぶ。
壊れた身体。自分の拳。原型すら残さなかった一撃。いずれも、今でも鮮明に思い出せる。
シオンは拳を握り、無理やり続きを絞り出した。
「俺が殺した人間の名前だ」
少女の目が大きく見開かれる。
「殺した……?」
その瞳に、再び恐怖が滲んだ。
シオンは何も弁解しなかった。それは紛れもない事実だからだ。
あの時の詳細など、素性も分からないこの少女に話すつもりはない。
リゼを殺したのは、自分。それだけでいい。
この少女が怯えて離れていくのなら、それでいい。寧ろ、そうなってほしいとすら思った。
だが、少女は逃げなかった。
しばらくシオンの横顔を見つめた後、恐る恐る尋ねる。
「どうして、わたしのことをリゼって呼んだの?」
シオンは顔をしかめる。
答えの代わりに、問いを返した。
「……なぜ、お前はリゼと同じ顔と声をしている」
少女は自分の頬へ両手を当てる。輪郭を確かめるように、ぺたぺたと触れた。
「同じなの?」
「ああ」
「どれくらい?」
「……ほとんどだ」
顔。声。瞬きの仕方。首を傾げる癖。だが、完全に同じではない。
目の前の少女は、リゼよりも警戒心が薄い。状況に怯えながらも、見知らぬシオンへ次々と問いかけてくる。
距離の詰め方も、言葉の選び方も。記憶の中のリゼとは、微妙に違っていた。
「喋り方も、仕草も……まるで」
そこまで言い、シオンは口を閉ざした。
リゼではない。分かっている。それでも、重なって見える。
リゼと同一視しようとする心と、目の前の少女はまったくの別人だと切り捨てようとする心が、シオンの中でぶつかり合う。
その混乱は、やがて鋭い言葉となって口から零れた。
シオンは、睨みつけるように鋭い目つきで少女を見る。
「違う」
少女が瞬きをする。
「お前はリゼじゃない」
「そうなんだ」
少女は、ただ事実を受け止めるように頷いた。
その無垢な碧の目で見つめられるのが苦しかった。自分へ何の記憶も持たない瞳。リゼと同じ色をしながら、リゼではない眼差し。
シオンはそこから逃れるように、冷たく吐き捨てた。
「お前は、リゼの偽物だ」
少女の表情が、微かに曇った。ほんの一瞬、眉が下がり、唇が結ばれる。
その表情の変化を、シオンは見てしまった。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような気がした。自分で傷つけたくせに、少女が傷ついたことへ痛みを覚える。その矛盾が不快だった。
それでも、言葉を取り消さなかった。
傷つければ、離れていくと思った。冷たくすれば、これ以上ついてこないかもしれない。この少女が自分から離れてくれるのなら、その方がいい。そう自分へ言い聞かせる。
少女は俯いた。しばらく何も言わない。
森の中には、二人分の足音も消えた静寂だけが残る。
やがて、少女はゆっくりと顔を上げた。
その目にはまだ僅かな痛みが残っている。だが、シオンから視線を逸らさなかった。
「じゃあ——」
少女が言う。
「わたしの名前、あなたが好きにつけて」
シオンは眉をひそめる。
「……は?」
予想だにしていなかった言葉に、思わず間の抜けた声が出た。
困惑するシオンに、少女は構わず続ける。
「わたしはリゼっていう人と似てるけど、リゼじゃないんでしょう?」
「……ああ」
「でも、わたしの名前は分からない」
少女は自分の胸へ手を当てた。
「じゃあ、わたしは誰?」
シオンは言葉を失った。
知らない。そんなものは自分で決めろ。自分には関係ない。そう答えればよかった。
だが少女は、名前を呼ばれるのを待つように、真っ直ぐな瞳でシオンを見ている。
シオンは深く息を吐いた。
誰かへ名前を与えるなど、考えたこともない。名付けとは、本来なら命を生み出した者や、これからその命を守る者がする行為だ。命を奪うことしかできない自分に、そんなことをする資格はない。
『つけてやればよい』
左胸の奥で、声が笑う。
『どうせ、すぐに死ぬかもしれんがな』
「黙れ」
少女が不思議そうに見る。
「また誰かと話してる」
「お前には関係ない」
シオンは少女から視線を外す。
リゼと同じ顔。リゼと同じ声。だが、リゼではない。
リゼという名を与えることだけは、絶対にできなかった。
それは死者の名を奪うことになる。それと同時に、目の前の少女を、永遠にリゼの代わりへ押し込めることにもなる。
少女はリゼとは別の存在だ。そう断じたのは、他ならぬシオン自身だった。
——ならば。
似ていながら、違う名。過去の面影を持ちながら、それでも別人であることを示す音が良いのだろう。
長い沈黙の末、シオンは口を開いた。
「……ラズ」
少女が瞬きをする。
「ラズ? それが、わたしの名前?」
「ああ。お前の今までの名は知らん」
シオンはぶっきらぼうに言う。
「使うのも、捨てるのも、好きにすればいい」
少女はゆっくりと、自分の胸へ手を当てた。
「ラズ……」
自分の存在を確かめるように。自分の内側へ、その音を馴染ませるように。ラズという名前を、何度か小さく繰り返す。
やがて、その顔が明るく綻んだ。
「うん。わたしはラズ……ラズ!」
花のようなその笑顔から、シオンは顔を逸らした。
「……何がそんなに嬉しいんだ」
「だって、名前ができたから」
「ただの音だろう」
「でも、わたしを呼ぶための音でしょう?」
「好きに使えと言っただけだ」
「シオンがつけてくれた」
「しつこくせがむからだ」
「それでも嬉しいの」
ラズは嬉しそうに笑い続ける。その笑顔は、リゼによく似ていた。
だが、やはりどこか違う。リゼならば、もっと静かに笑った。目の前の少女は、名前を得た喜びを隠そうともしない。何度も自分の名を口にし、確かめるようにシオンを見る。
似ている。だが、同じではない。その違いに気づいたことは、シオンには、ひどく苦しいものだった。
それと同時に、ほんの僅かだけ安堵している自分がいた。そのことが、シオンにとっては何よりも赦し難かった。




