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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
3/79

面影の名

 二人は森の中を歩き続けた。

 長い夜は、すでに終わりへ近づいている。頭上を覆っていた闇は少しずつ薄くなり、空は白み始めた。


 シオンの背丈は高い。少女とは歩幅も大きく違う。だが、シオンは振り返りもせず、普段と同じ速度で進んでいく。

 少女は何度も木の根へ足を取られながら、小走りで追いかけていた。


「ねえ」


 返事はない。


「ねえってば」


「……何だ」


 シオンは振り返らない。


「あなたの名前は?」


 ほんの少しだけ間があった。


「……シオン」


 少女がその名を繰り返す。


「シオン」


 リゼと同じ声。だが、記憶の中の彼女とは、どこか違う響き。


 その名を呼ばれた瞬間、シオンの胸に鈍い痛みが走った。

 懐かしさではない。喜びでもない。寧ろ、聞いてはならないものを聞いたような苛立ちが込み上げる。

 シオン自身にも、その感情の正体は分からなかった。


 少女は自分の胸元を指差す。


「わたしは?」


「知らん」


「わたしの名前、分からないの?」


「お前自身が分からないと言っただろう」


 少女は困ったように眉を下げる。


「でも、さっきわたしをリゼって呼んでた」


 シオンの足が突如として止まった。

 少女も慌てて立ち止まる。


「それが、わたしの名前?」


「違う」


 低く、冷たい声だった。

 突如変わったシオンの雰囲気に、少女の肩が小さく震える。


「リゼは……」


 言葉が喉へ引っかかった。


 脳裏に、あの日のことが思い浮かぶ。

 壊れた身体。自分の拳。原型すら残さなかった一撃。いずれも、今でも鮮明に思い出せる。


 シオンは拳を握り、無理やり続きを絞り出した。


「俺が殺した人間の名前だ」


 少女の目が大きく見開かれる。


「殺した……?」


 その瞳に、再び恐怖が滲んだ。


 シオンは何も弁解しなかった。それは紛れもない事実だからだ。

 あの時の詳細など、素性も分からないこの少女に話すつもりはない。

 リゼを殺したのは、自分。それだけでいい。


 この少女が怯えて離れていくのなら、それでいい。寧ろ、そうなってほしいとすら思った。

 だが、少女は逃げなかった。

 しばらくシオンの横顔を見つめた後、恐る恐る尋ねる。


「どうして、わたしのことをリゼって呼んだの?」


 シオンは顔をしかめる。

 答えの代わりに、問いを返した。


「……なぜ、お前はリゼと同じ顔と声をしている」


 少女は自分の頬へ両手を当てる。輪郭を確かめるように、ぺたぺたと触れた。


「同じなの?」


「ああ」


「どれくらい?」


「……ほとんどだ」


 顔。声。瞬きの仕方。首を傾げる癖。だが、完全に同じではない。

 目の前の少女は、リゼよりも警戒心が薄い。状況に怯えながらも、見知らぬシオンへ次々と問いかけてくる。

 距離の詰め方も、言葉の選び方も。記憶の中のリゼとは、微妙に違っていた。


「喋り方も、仕草も……まるで」


 そこまで言い、シオンは口を閉ざした。


 リゼではない。分かっている。それでも、重なって見える。

 リゼと同一視しようとする心と、目の前の少女はまったくの別人だと切り捨てようとする心が、シオンの中でぶつかり合う。

 その混乱は、やがて鋭い言葉となって口から零れた。


 シオンは、睨みつけるように鋭い目つきで少女を見る。


「違う」


 少女が瞬きをする。


「お前はリゼじゃない」


「そうなんだ」


 少女は、ただ事実を受け止めるように頷いた。


 その無垢な碧の目で見つめられるのが苦しかった。自分へ何の記憶も持たない瞳。リゼと同じ色をしながら、リゼではない眼差し。

 シオンはそこから逃れるように、冷たく吐き捨てた。


「お前は、リゼの偽物だ」


 少女の表情が、微かに曇った。ほんの一瞬、眉が下がり、唇が結ばれる。


 その表情の変化を、シオンは見てしまった。

 胸の奥に、小さな棘が刺さったような気がした。自分で傷つけたくせに、少女が傷ついたことへ痛みを覚える。その矛盾が不快だった。


 それでも、言葉を取り消さなかった。

 傷つければ、離れていくと思った。冷たくすれば、これ以上ついてこないかもしれない。この少女が自分から離れてくれるのなら、その方がいい。そう自分へ言い聞かせる。


 少女は俯いた。しばらく何も言わない。

 森の中には、二人分の足音も消えた静寂だけが残る。


 やがて、少女はゆっくりと顔を上げた。

 その目にはまだ僅かな痛みが残っている。だが、シオンから視線を逸らさなかった。


「じゃあ——」


 少女が言う。


「わたしの名前、あなたが好きにつけて」

 

 シオンは眉をひそめる。


「……は?」


 予想だにしていなかった言葉に、思わず間の抜けた声が出た。

 困惑するシオンに、少女は構わず続ける。


「わたしはリゼっていう人と似てるけど、リゼじゃないんでしょう?」


「……ああ」


「でも、わたしの名前は分からない」


 少女は自分の胸へ手を当てた。


「じゃあ、わたしは誰?」


 シオンは言葉を失った。

 知らない。そんなものは自分で決めろ。自分には関係ない。そう答えればよかった。

 だが少女は、名前を呼ばれるのを待つように、真っ直ぐな瞳でシオンを見ている。


 シオンは深く息を吐いた。

 誰かへ名前を与えるなど、考えたこともない。名付けとは、本来なら命を生み出した者や、これからその命を守る者がする行為だ。命を奪うことしかできない自分に、そんなことをする資格はない。


『つけてやればよい』


 左胸の奥で、声が笑う。


『どうせ、すぐに死ぬかもしれんがな』


「黙れ」


 少女が不思議そうに見る。


「また誰かと話してる」


「お前には関係ない」


 シオンは少女から視線を外す。


 リゼと同じ顔。リゼと同じ声。だが、リゼではない。

 リゼという名を与えることだけは、絶対にできなかった。

 それは死者の名を奪うことになる。それと同時に、目の前の少女を、永遠にリゼの代わりへ押し込めることにもなる。

 少女はリゼとは別の存在だ。そう断じたのは、他ならぬシオン自身だった。


 ——ならば。

 似ていながら、違う名。過去の面影を持ちながら、それでも別人であることを示す音が良いのだろう。

 長い沈黙の末、シオンは口を開いた。


「……ラズ」


 少女が瞬きをする。


「ラズ? それが、わたしの名前?」


「ああ。お前の今までの名は知らん」


 シオンはぶっきらぼうに言う。


「使うのも、捨てるのも、好きにすればいい」


 少女はゆっくりと、自分の胸へ手を当てた。


「ラズ……」


 自分の存在を確かめるように。自分の内側へ、その音を馴染ませるように。ラズという名前を、何度か小さく繰り返す。

 やがて、その顔が明るく綻んだ。


「うん。わたしはラズ……ラズ!」


 花のようなその笑顔から、シオンは顔を逸らした。


「……何がそんなに嬉しいんだ」


「だって、名前ができたから」


「ただの音だろう」


「でも、わたしを呼ぶための音でしょう?」


「好きに使えと言っただけだ」


「シオンがつけてくれた」


「しつこくせがむからだ」


「それでも嬉しいの」


 ラズは嬉しそうに笑い続ける。その笑顔は、リゼによく似ていた。

 だが、やはりどこか違う。リゼならば、もっと静かに笑った。目の前の少女は、名前を得た喜びを隠そうともしない。何度も自分の名を口にし、確かめるようにシオンを見る。

 

 似ている。だが、同じではない。その違いに気づいたことは、シオンには、ひどく苦しいものだった。

 それと同時に、ほんの僅かだけ安堵している自分がいた。そのことが、シオンにとっては何よりも赦し難かった。

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