出逢い
再び森の奥から悲鳴が聞こえる。その切迫した短い叫びは、木々のざわめきと魔物の唸り声に呑み込まれ、すぐに途切れた。
シオンは足を止める。
悲鳴は、リゼの声とよく似ていた。しかし、リゼなわけがない。彼女は四年前にもう死んでいる。——シオンが殺したのだ。
リゼではない。ならば、助ける義理などない。声の主が誰であろうと、自分には関係のないことだ。関われば、余計な面倒を背負うだけだろう。そもそも、自分には誰かを助ける資格などない。人を救うふりをしてよい人間ではない。
『放っておけ』
左胸の奥から、声が囁く。
『じきに魔物の餌となる。貴様には関係ないだろう』
その通りだ。否定する言葉を、シオンは持ち合わせていない。
だが、次の瞬間には、シオンの身体は声のした方角へ向かっていた。自分で選んだというより、足が先に動いていた。
シオンは不快そうに眉をひそめる。
「……分かっている」
『分かっているようには見えんがな』
「黙れ」
低く吐き捨て、木々の間を駆け抜けた。
◇
木々を抜けると、小さな開けた場所に出た。
そこでは一人の少女が、数体の魔物に囲まれている。尻餅をつき、湿った地面へ手をつきながら後ずさっていた。衣服は泥と枯れ葉に汚れ、桃色の髪も乱れている。
逃げ道はない。正面には、犬に似た魔物。右手には、皮膚の剥がれた人型の魔物。背後の茂みからも、別の獣の唸り声が聞こえている。
少女を囲む魔物たちは、すぐには襲いかからなかった。怯える獲物を弄ぶように、ゆっくりと距離を詰めている。
その光景を目にしたシオンは、一歩を踏み出しかけた。
だが、少女が顔を上げた瞬間、シオンの身体はその場に縫い止められた。
桃色の柔らかな髪。澄んだ碧の瞳。細い眉。怯えに震える唇。その顔を、シオンは知っていた。知らないはずがなかった。
「リ、ゼ……」
掠れた声が、口から漏れた。
自らの手で殺した少女。恋心を抱き、誰よりも大切に思い、それでも守ることのできなかった少女——リゼが、そこにいた。
死者が戻るはずなどない。彼女はリゼではない。そんなことは分かっている。
あの日、シオンの拳を受けたリゼの身体は、原形すら残らなかった。生きているはずがない。蘇るはずもない。
それでも、目の前の少女は、記憶の中のリゼと同じ顔をしていた。
同じ色の髪。同じ瞳。声を出そうとして、僅かに唇を震わせる仕草まで、他人の空似という言葉では済ませられないほど同じだった。
胸の奥が軋んだ。そこにあるものを、見えない指で強く握り潰されたような痛みだった。
犬型の魔物が地面を蹴った。大きく開かれた口が、少女の喉元へ迫る。
呆然と立ち尽くしていたシオンは、魔物の唸り声で我に返る。その身体は、考えるよりも先に動いていた。
一瞬で魔物と少女との間へ割り込む。振り抜かれた拳が、魔物の胴体を正面から打ち抜いた。
衝撃を受けた魔物の身体は地面へ落ちることすらなかった。肉も、骨も、血も。爆ぜるように砕け、周囲へ飛び散る。
残りの魔物たちが怯んだ。
シオンは続けて、人型の魔物へ踏み込んだ。反応する暇さえ与えず、その頭部を拳で粉砕する。
倒れた身体を跨ぎ、最後の一体へ視線を向ける。彼の赤い左目と視線が合った瞬間、魔物は喉を鳴らして後ずさった。やがて恐怖に耐えられなくなったように背を向け、森の闇へ逃げていく。
逃げた魔物は追わなかった。今はそれよりも、確認しなければならないことがある。
血に濡れた拳を下ろすことも忘れ、地面へ座り込んだままの少女に向き合った。
「……リゼ」
再び呼ぶ。先ほどよりも弱い声だった。
少女は何が起きたのか理解できない様子で、シオンを見上げていた。澄んだ碧の瞳が、大きく見開かれている。
その目に映る自分が、素手で魔物を殺した血まみれの怪物であることさえ、今のシオンには考えることができなかった。
一歩、少女へ近づく。
今から口にしようとしている言葉が、ひどく愚かなものだとは分かっていた。死者へ縋りつこうとする、浅ましい願望にすぎない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「リゼ……俺のことが、分かるか?」
少女はしばらくシオンを見上げていた。その視線が、血まみれの拳から、彼の銀白の髪へ移り、そして左右で色の異なる瞳へ移る。
そして、首を僅かに傾げた。
「あなたは、誰?」
リゼと同じ声だった。だが、その声にシオンを知る響きはなかった。
当然の答えだった。死者が戻るはずなどない。壊れたものが元へ戻るはずもない。奪った事実は無かったことにならない。分かっていた。
それでも、ほんの一瞬だけ期待した。目の前の少女がリゼであれば良いと。失ったすべてのうち、彼女だけでも戻ってきたのではないかと。
自分の手ですべてを壊しておきながら、そんな都合のよい願いを抱いた自分が、ひどくおぞましく感じられた。
「……そうだな」
シオンは少女から目を逸らした。
「死んだ人間が、戻るわけがない」
少女の返事を待たず、背を向ける。
立ち去ればいい。これ以上、その顔を見てはいけない。この少女が誰であろうと、自分には関係がない。
「待って」
背後から声が飛んでくるが、シオンは止まらない。
「行くの?」
その声が背中へ突き刺さった。
行けばいい。置いていけばいい。リゼではないのなら、なおさら関わる理由はない。
——だが、茂みの奥で枝の折れる音がした。
シオンが振り返る。
少女の背後に、大きな影が立ち上がっていた。先ほど逃げた魔物とは別の個体。長い腕と、歪に裂けた口を持つ人型の魔物が、少女へ爪を振り下ろそうとしている。
シオンは地面を蹴った。魔物の爪が少女へ届くよりも早く、その頭部へ拳を叩き込む。
鈍い音。頭蓋が首の付け根まで陥没し、魔物の巨体が横倒しになる。
飛び散った血が、シオンの外套と少女の頬を濡らした。
少女は目を見開き、返り血を浴びたシオンを見つめる。
そこに浮かぶ表情は、恐怖と困惑。それでも、完全に怯えきっているわけではなかった。
「助けてくれたの?」
シオンは答えなかった。
自分が何をしたいのか、自分自身にも分からない。
見捨てればよかった。関わらなければよかった。そうすれば、リゼの顔をした別人なんて見ずに済んだ。胸を締めつける、この痛みも感じずに済んだ。
だが、この少女を見捨てれば、リゼをもう一度殺すことになるような気がした。
そんな考えが身勝手であることは分かっている。目の前にいる少女はリゼではない。リゼの代わりでもない。
それでも、その顔が苦痛に歪み、命を失う光景を、シオンは見過ごすことができなかった。
「……立て」
シオンが吐き捨てるように命じる。
少女は一度瞬きをした後、地面へ手をついて立ち上がろうとする。だが、腰が抜けてしまったのか、足に力が入らず、すぐによろめいた。
シオンの手が反射的に伸びる。腕を掴みかけて、途中で止まった。
血に濡れた黒い革手袋。魔物を容易く砕いた自身の手を見て、シオンは手を引く。
少女は自力でどうにか立ち上がった。
シオンは改めて彼女を観察する。
外傷はほとんどない。衣服にも、どこかの村や組織へ所属していると分かるような印は見当たらなかった。少し浮世離れした、不思議な雰囲気の白い衣服を着ている。庶民が着ているものとは大きく異なる。
そして何より、彼女の体内からは、異様なほど高い魔力が感じられた。ただの人間ではありえない密度。さらには、魔力とは別に、何か別の、もっと澄んだ力も存在しているように感じた。静かな水面の下に、底知れない何かが沈んでいる。
姿は人間であるように見える。だが、気配は人間とは少し違う。完全な人間とは思えない。
シオンは眉をひそめた。
「お前は何者だ」
少女は自分の胸へ手を当てた。
「……分からない」
「分からない?」
「うん」
少女は周囲を見回す。まるで、自分がなぜ森にいるのかを今初めて疑問に思ったかのようだった。
「何も覚えてないの」
「何も?」
「ここに来る前のことも、どこにいたのかも」
「名前は」
少女は答えようとして口を開く。だが、何も出てこない。
困ったように眉を下げ、首を横へ振った。
「分からない」
記憶喪失。人間とは思えないほど大きな力。そして、リゼと同じ顔と声。
嫌な予感が、シオンの胸の奥で絡み合う。
罠かもしれない。デウスが差し向けた何かである可能性もある。或いは、左胸の奥に潜む存在が、自分を弄ぶために見せている幻なのかもしれない。
『俺を疑うのか』
「黙れ」
少女が肩を揺らす。
「今、誰に言ったの?」
「お前には関係ない」
「でも、わたしたち以外に誰もいないよ」
「黙っていろ」
少女は口を閉じた。
だが、その目はシオンを怪しむというより、不思議なものを見るように向けられている。
何かを企んでいるようには見えない。演技である可能性は捨てきれない。それでも、今ここで判断できることではなかった。
「……行くぞ」
シオンは短く吐き捨てた。
少女が長い睫毛をぱちぱちと瞬かせる。
「どこへ?」
答えられなかった。
シオン自身にも、どこへ連れていくつもりなのか分からない。
最寄りの町へ置いていくのか、人のいる街道まで連れていくだけなのか。あるいは、彼女の正体を確かめるまで傍へ置くのか。何一つ決めていなかった。
ただ、このまま森へ残せば、少女は魔物に喰われる。それだけは確かだった。
「ここから出るぞ」
結局、それだけを告げた。
少女はシオンを見る。
血に濡れた拳。魔物を一撃で粉砕する力。鋭い目つきと、暗い表情。恐ろしくないはずがない。
それでも周囲からは、まだ魔物の遠吠えが響いている。
少女には、行く場所もなかった。自分の名前さえ分からない。
それに、目の前の青年は、自分を知っているようだった。自分を見てリゼと呼んだ。自分が何者なのか、その手掛かりを持っているかもしれない。
——それならば。
「うん」
少女は頷いた。
「どこに行くのか分からないけど、一緒に行く」
シオンは顔をしかめた。なぜついてくる、と言いかける。
だが、先に「行くぞ」と言ったのが自分であることを思い出し、口を噤んだ。
自分が何をしているのか。この少女をどうしたいのか。シオンにもさっぱり分からなかった。
絡まった思考を追いやるように、無言で歩き出す。
少女は少し遅れて、その後を追った。




