魔を喰らう夜
この星は、デウスという神に守られていると信じられていた。
空に浮かぶ白い光は、デウスの加護。大地へ降り注ぐ雨は、デウスの慈悲。魔物が人の領域へ踏み込みすぎないのも、デウスが境界を定めているからだと人々は語る。
神殿に仕える神官たちはその教えを広め、祈りを捧げることで恩恵を受けられると説いた。
実り豊かな土地。大きく乱れることのない安定した気候。長く保たれてきた平穏。人々が享受するもののすべてが、神の存在と慈愛を裏付ける証として扱われていた。
だが、その信仰の裏側を知る者は少ない。そして、その真実の中心に触れ、壊された者が一人いた。
神に選ばれたのではない。神によって、人ならざるものへ作り替えられた青年。
これは、神に壊された青年が、神を殺すまでの物語。
そして、神を殺した後にもなお続く、罪の物語——
◇
夜の森に、獣の断末魔が響き渡った。その断末魔に驚いた鳥たちが一斉に飛び立ち、木の枝を揺らす。
木々の間を逃げていた大型の魔物が、太い幹を巻き込みながら地面へ倒れた。巨体が大地を揺らし、湿った土と枯れ葉が舞い上がる。
その傍らに、一人の青年が立っていた。
地に伏した魔物の胸部には、向こう側まで見通せるほどの巨大な穴が空いている。厚い皮膚も、分厚い筋肉も、硬い肋骨も、すべてが纏めて抉り取られていた。
だが、魔物を仕留めた青年の手に武器はない。剣も、槍も、弓も、高価な魔導具さえ持っていない。彼は魔法も扱えない。
身につけているのは、血を吸った黒い革手袋だけ。その拳にこびりついた血と肉片だけが、彼が何をしたのかを物語っていた。
彼の銀白色の長い髪は、戦いの邪魔にならないよう低い位置で一つに束ねられている。右の瞳は、夜闇を溶かしたような紫。左の瞳は、血にも似た赤。左右で異なる色を宿した眼差しは鋭く、そこに浮かぶ表情は暗く沈んでいる。
よく見れば顔立ちは整っている方だが、それを美しいと感じるより先に、多くの者は彼の纏う異様な気配に足を止めるだろう。
全身を覆う黒い衣服。肩には、毛皮のついた黒い外套。ただでさえ背が高く、体格のよい青年だが、厚い毛皮のせいで実際よりも肩幅が広く見える。
そして、血に濡れた左の拳から立ち上る赤黒い力だけが、森の闇の中で生き物のように脈打っていた。
やがて、その力も皮膚の内側へ沈むように消えていく。
魔物はまだ死に切っていなかった。
熊に似た、二足歩行の怪物。人間の背丈を遥かに上回る巨体と、矢を弾くほど厚い皮膚を持ち、鋭い爪と牙で鎧ごと人間を引き裂く。
本来なら、全身を武装した屈強な兵士が、複数人で連携して討伐するような相手だった。だが、青年の前では敵にすらならなかった。
青年は痙攣する魔物の傍らへしゃがみ込む。手を傷口へ差し入れ、まだ温かい肉を掴んだ。筋繊維が引き千切れ、骨から剥がれる。
血の滴る肉塊を、躊躇うことなく口へ運んだ。
噛む。飲み込む。味は、ほとんどしない。血の生温かさも、肉の硬さも分かる。だが、それを美味いとも不味いとも感じることはできなかった。食事をしているという感覚さえ薄い。ただ、身体が求めるものを押し込むように、魔物の肉を喰らっていく。
魔物の肉は毒が含まれており、普通の人間であれば、口にしただけでも命に関わる。食べる者はまずいない。
それでも青年は、魔物の肉を食べながらも顔色一つ変えなかった。
肉を一口喰らうたび、左胸の奥が脈打つ。心臓の鼓動とは違う。もっと深い場所に潜む何かが、獲物を呑み込むたびに身じろぎしている。そして、そこから声がした。
『足りないな』
青年の声ではない。耳から聞こえたものでもない。頭蓋の内側へ直接染み込んでくるような、青年にしか聞こえない声だ。
青年はその声に答えなかった。ただ、不快そうに眉をひそめ、次の肉を引き千切る。
『魔物の肉では足りぬ。分かっているだろう、シオン』
声は心底愉快そうだった。彼が苦しむことも、飢えに耐えることも、何かを守ろうと足掻くことも、そのすべてを嘲笑っているようだった。
『人間を喰え』
肉を裂いていた、シオンと呼ばれた青年の手が止まった。
『人の肉の方が、遥かに力になる』
掴んでいた肉塊が、シオンの指の中で潰れた。血と脂が弾け、肉片が地面へ落ちる。
「黙れ」
『なぜ拒む』
「黙れと言った」
『力が必要なのだろう? デウスを殺すための力が』
耳障りな声は止まらない。
シオンの左右色違いの瞳が、僅かに細められた。
『すでに人を殺しておきながら、人間を喰わないことで人間を気取るつもりか?』
シオンは返事をしなかった。
『今さら何を守る。非力な人間のふりでもするつもりか』
自分がすでに怪物であることなど、誰よりも理解している。人間には有り得ない力を持ち、魔物を素手で引き裂き、その肉を喰らって生きている存在となった。
人間らしい生活など、とうに失った。帰る場所もない。帰りを待つ者もいない。それらはすべて、自分の手で壊してしまった。
それでも。人間を喰えば、本当に戻れなくなる。
何が残っているのかと問われても、シオンには答えられない。自分の中に、人間性と呼べるものがまだ存在するのかも分からない。
それでも、その一線だけは越えてはならないと思っていた。
人の命を奪うことと、奪った人間を、自らの力と生存の糧にすること。シオンにとって、その二つは同じではなかった。
どれほど身勝手で、無意味な区別であったとしても。それだけは、まだ捨てることができなかった。
『意地を張るな。貴様は、いつか必ず人間を喰う』
声は愉快そうに嗤う。
何も言わず、シオンは立ち上がった。
『貴様は、そういう存在だ』
胸の奥から聞こえる声を振り払うように、シオンは魔物の死骸へ背を向けた。
森の奥には、まだ何かが潜んでいる。
枝を踏む音。獣じみた息遣い。蠢く魔力の流れ。暗闇の中から向けられる、いくつもの気配。
狩ればいい。殺せばいい。喰えばいい。身体を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
だが、いくら歩いても、いくら魔物を殺しても、決して振り切れないものがあった。
前方の木々の間に、人影が立っている。
シオンの足が止まった。
そこにいたのは、父だった。村で畑を耕していた頃と同じ、土に汚れた服を着ている。
日に焼けた顔。節くれ立った大きな手。記憶の中では、よく豪快に笑っていた口元。
だが、今シオンの前に立つ父は笑っていなかった。冷え切った目で、シオンだけを見ている。
『俺たちをあんなふうに殺しておいて、まだ生きているのか』
淡々とした声だった。怒鳴られるよりも、責め立てられるよりも、深く突き刺さる声。
シオンは何も言わない。
別の木の陰から、もう一つの人影が現れる。それは母だった。
艶のある黒髪を後ろでまとめ、簡素なエプロンを身につけている。手には、台所仕事でできた細かな傷が残っていた。
その姿は、シオンの記憶にある母と何も変わらない。だが、その目に温かさはなかった。
『どうして、あなたはまだ息をしているの』
シオンの拳が固く握られる。手袋の革が軋んだ。
『まだデウスを殺せていないの?』
さらに、その奥から少女が現れる。リゼという少女だった。
どこにでも咲く白い花のように、可憐でありながら芯の強い少女。薬草の匂いを纏い、シオンが無茶をすれば本気で怒り、それでも最後には、仕方がないと笑っていた。
誰よりも大切だった。守りたかった。リゼさえいれば、幸せだった。そのすべてを、自分の手で壊した。
その小さく柔らかい唇がゆっくりと動く。
『早くデウスを殺して』
声に感情はない。
『それから、あなたも死んで』
シオンは彼らから目を逸らさなかった。
父がいる。母がいる。リゼがいる。誰も彼を赦さない。誰もシオンに生きてほしいとは言わない。当然のことだった。
『あなたが殺した』
リゼが言う。
『みんな、あなたが殺したの』
分かっている。何度も繰り返されずとも、忘れたことなど一度もない。
この声が、本物の死者たちの声ではないことも理解していた。死んだ者たちが、こんな森の中へ現れて言葉を投げかけるはずがない。
これは幻だ。シオンの自責が、死者の姿を借りているだけのもの。自分を赦してはならないという思いが、デウスを殺すまで生き、復讐を終えた後には死ななければならないという執念が、彼らを奪った自分自身への憎悪が、彼らの姿と声を作り出している。
理屈では分かっていた。それでも幻は消えない。シオン自身が、その言葉を望んでいるからだ。
赦されるはずがない。慰められる資格もない。罰され続けなければならない。復讐を果たすまで。そして、復讐を果たした後も。そうでなければ、復讐を遂げるまで歩いていられない。
『どうしてまだ生きているの?』
母が問う。
『俺たちを殺したくせに』
父が告げる。
『早くデウスを殺して、あなたも死んで』
リゼが繰り返す。
「……黙れ」
シオンは、喉の奥から声を絞り出した。
それでも幻は消えない。
『まだデウスを殺せていない』
「分かっている」
『なら、早く殺して』
「分かっている!」
怒声とともに、赤黒い力がシオンの身体から噴き出した。足元の地面が陥没する。周囲の木々が大きく揺れ、木の幹へ細かな亀裂が走った。
怒りに呼応するように、左胸の奥が激しく脈打つ。
胸の内側の声が笑った。
『そうだ』
幻とは異なる声。嫌になるほど聞いてきた、不愉快な声。
『もっと怒れ』
「黙れ」
『憎め』
「黙れ」
『その怒りこそが、貴様の力だ』
「黙れ!」
シオンは森の奥へ向かって駆け出した。
一歩目で地面が砕ける。黒い影となって木々の間を抜け、最も近くにいた魔物へ拳を振り抜く。魔物が反応するより早く、その頭部が消し飛んだ。
次の一体。腹部を貫く。
さらに一体。振り下ろした拳が背骨を砕き、巨体を地面へ叩き伏せる。
殺す。壊す。肉を裂く。喰らう。
幻の声を掻き消すために。自分の思考を止めるために。胸の内で燃え続ける怒りを、目の前の魔物へ叩きつけるために。
どれほど進んでも、夜の森は終わらない。
木々の隙間から見える空はまだ薄暗く、頭上には白い光の帯だけが、星空を静かに横切っていた。
人々が神の加護と呼ぶ光。この星を守っているとされている光。シオンは、それを見上げようともしなかった。
その夜、彼は森を歩き続け、何体もの魔物を殺した。拳で身体を砕き、素手で肉を引き裂き、生きるために喰らった。
だが、どれほど肉を腹へ詰め込んでも、飢えは満たされなかった。
身体が求める飢え。力を求める、胸の奥の飢え。大切な者を奪った神へ向ける、終わりのない憎悪。復讐を果たせない自分自身への怒り。
それらすべてが、消えることのない炎となって、シオンの内側で燃え続けていた。
シオンが何体目かの魔物を喰らい尽くした直後。
森のさらに奥から、何かが倒れる音がした。続いて、魔物の唸り声。そして、人間の声——悲鳴が響いた。
その悲鳴は、かつて自分の手で殺したはずの少女——リゼの声と酷似していた。
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