神殿へ
夜明け前。ラズが浅い眠りから目を覚ますと、シオンは昨夜と変わらず、小屋の入口近くに座っていた。
眠っていないことは、聞かなくても分かる。シオンはいつもそうだった。瞼を閉じることはあっても、眠りへ落ちることはない。疲労で動けなくなることもなければ、身体が休息を求めることもない。かつては眠ることのできた人間が、今はそれさえ失っている。その事実を見るたび、ラズはシオンの身体が少しずつ人間から遠ざかっていることを思い知らされた。
壊れた窓から、夜明け前の薄い光が差し込んでいる。小屋の中には夜の冷たさがまだ残り、外では朝露に濡れた木々が風に揺れていた。
「シオン」
「起きたか」
「うん」
シオンはラズを一瞥しただけで、すぐに森へ視線を戻した。いつもと変わらない無愛想な返事だった。それでも、昨日までとは少し違う。
ロイエを殺した後に生まれた恐怖も、記録を見て互いに傷つけ合ったことも消えてはいない。ラズの正体。リゼの魂の残滓。デウスに作られた楔。そして、ケイオスに自分の一部を喰われた感覚。何一つ解決していない。
それでもラズは、昨日より少しだけ呼吸がしやすかった。
胸へ手を当てる。そこにはまだ、何かが欠け落ちたような空白がある。リゼから受け継いだものの一部が削られた感覚は、眠ったところで消えてはいなかった。
けれど、その奥には確かに自分がいる。
——ラズ。
シオンがつけた名前。
その名を与えさせることさえデウスの計画に含まれていた。それでも、今この名前を自分のものとして選んでいるのは、自分自身だ。ラズはそう確かめるように胸元から手を離し、床へ視線を移した。
昨夜のまま置かれている、板状の記録媒体。ロイエが遺した神具だった。
ラズの視線が止まる。
あの男の声を思い出そうとすると、それより先に断末魔が蘇った。血に濡れた床と、何度も振り下ろされるシオンの拳まで思い出し、指先が僅かに冷える。
それでも、この記録にはまだ続きがある。
「これ、もう少し見てもいい?」
シオンは答えなかった。
ラズは彼の横顔を見ながら続ける。
「主神殿へ向かうなら、まだ手がかりが必要だと思う」
その言葉に、シオンの視線が僅かに動いた。
主神殿。そこにデウスがいる。シオンが何年も探し続け、すべてを捨ててまで辿り着こうとしている場所。
ラズにとって、その場所へ近づくことは決して喜ばしいことではない。デウスと戦えば、シオンは限界までケイオスの力を引き出すだろう。そして、シオン自身は復讐を果たした先で死ぬつもりでいる。できることなら、行かせたくない。
けれど、ただ復讐を取り上げればシオンが救われるとも思えなかった。デウスがシオンにしたことも、今なお彼を兵器として利用しようとしていることも消えない。いつかは向き合わなければならない。ならばせめて、自分もそこへ行く。そのために知る必要があった。
「神殿の位置なら、昨日の記録にあっただろう」
シオンが言う。
「でも、あったのは座標だけだったでしょう?」
「ああ」
「あれだけで辿り着ける場所なら、シオンはもっと前に見つけてたと思う」
シオンは否定しなかった。
何年もデウスの居場所だけを探し続けてきた。それでも主神殿へ至る手掛かりすら掴めなかったのだから、単に山奥へ隠された建物という程度ではないのだろう。
「調べてみるね」
ラズは記録媒体へ手を伸ばした。
表面に嵌め込まれた小さな石へ触れ、昨夜初めて名前を知った力——神力へ意識を向ける。身体の奥から引き出された澄んだ力が、指先を通して神具へ流れ込んだ。
記録媒体の表面に薄い光が走る。だが、映し出されたのは昨日のような映像ではなかった。
「これは……」
幾何学的な線が組み上がり、宙へ巨大な球体が浮かび上がる。
「地図?」
シオンも立ち上がり、ラズの傍らからそれを覗き込んだ。
浮かび上がったのは、星の地図だった。山脈。海。都市。すでに廃墟となった神殿跡。その中を縫うように、見慣れない光の筋が地中へ張り巡らされている。
「この線は……?」
ラズが呟くと、光の傍らに文字が浮かび上がった。
——星脈。
そこにさらに簡単な注記が続く。
”星の内部を巡り、各地へ神力を運ぶ経路”
「神力が……地面の下を流れてるの?」
「俺も知らん」
シオンの声にも僅かな警戒が混じっていた。
デウスの信徒でもなければ知ることのない、この星そのものの仕組みなのだろう。
そして、複数の星脈が重なる場所に、一点だけ強い白光が浮かんでいた。
ラズは目を細める。
「ここが主神殿?」
「地図上には何もない」
「でも、記録はここを示してる」
白い点は都市にも山にも重なっていない。まるで、存在しない場所を指しているようだった。
ラズがさらに神力を流す。今度は、記録媒体から声が流れた。
『デウス様の御座す主神殿は、地上の道を辿って到達できる場所にはない』
ラズの肩が強張った。
その声は、ロイエのものだ。聞き違えるはずがない。
隣を見ると、シオンも記録媒体を見つめたまま、僅かに拳を握っていた。
ラズの頭には、またあの惨劇が浮かびかけた。それでも目を閉じなかった。ロイエが死ぬ前に残したものを、今度こそ最後まで聞かなければならない。
『主神殿は星脈の交差点へ重ねられた神域に存在する。地上に建物として存在しているのではない。デウス様の神力によって空間そのものが隔てられ、通常の手段では認識することも、侵入することもできない』
球状の地図が変化する。白い点を囲むように、三つの光が浮かび上がった。
一つは高い山。一つは湖。最後の一つは、荒れ果てた大地。それぞれに、小さな神殿の紋章が刻まれている。
『神域へ入るには、三つの祈祷門を順に通過しなければならない。第一の門、星見の山頂。第二の門、真実の鏡湖。第三の門、落神の戦場』
「三つの門……」
ラズが小さく呟く。
『本来、高位神官にはデウス様の加護印が与えられる。加護印を持つ者が正しい巡礼を行えば、三つの門はその者を認め、最後には星脈を介して主神殿へ送る』
そこで一度、声が途切れた。
『だが、シオン。おまえには不可能だ』
名を呼ばれ、シオンの眉が動く。
『おまえの中にはケイオスがいる。その力はすでに身体の深部まで根を張り、おまえ自身から完全に切り離せる状態ではない。どれほど力を抑え、気配を隠そうとしても、祈祷門はおまえを参拝者ではなく、神域へ侵入しようとする異物として判定するだろう』
シオンの手が、無意識に左胸へ触れた。衣服の下の皮膚。そのさらに下にある心臓。その奥で、ケイオスは今も息づいている。
『ただし、抜け道がある』
二人の視線が記録へ戻る。
『主神殿へ運ばれるものが、常に清浄とは限らない。異星の神々が残した遺物や残滓。呪われた神具。魔物の核。神殿内で解析、封印すべき危険物。そうしたものを搬入するため、巡礼とは別に「封印搬送」と呼ばれる手順が存在する』
空中へ新たな術式が浮かび上がった。
『封印搬送において、門は対象を侵入者とは見なさない。神官によって管理され、主神殿へ運び込まれる封印対象——すなわち物として扱う』
ラズの顔が僅かに曇った。
隣のシオンは無表情だった。
『通常、封印搬送にはデウス様から貸与された専用の神具を用いる。その神具へ神力を通し、危険物を術式で覆うことで、門の判定から除外する』
続く言葉を聞く前から、ラズには嫌な予感がした。
『だが、専用神具がなくとも、代用できる可能性が一つだけある』
一拍置いて、ロイエの声が続いた。
『——楔だ』
ラズの指が僅かに強張った。
『楔はデウス様の神力を核として作られている。封印搬送用の神具とは比較にならないほど高い純度の神力を持つ。理論上、その力を媒体として封印搬送の術式を展開することは可能なはずだ』
シオンがラズを見る。ラズもその視線に気づいていた。
昨日までなら、その言葉は自分がやはり道具なのだという証明にしか聞こえなかったかもしれない。けれど、今は違った。
記録は続く。
『ただし、楔だけでは不十分だ。三つの祈祷門は、それぞれ通過者へ異なる条件を課す』
最初の光が強まる。
『第一の門——星見の山頂。そこで搬送者は神力を示し、神へ祈りを捧げる必要がある』
ラズが僅かに眉を寄せる。
『ただし、祈りとは信仰そのものではない。神へ向けて、自らの意思を言葉にする行為だ。門は偽りを見抜く。封印対象を何のために主神殿へ運ぶのか、その問いに対して嘘をつけば通過できない』
シオンの目が細められた。
つまり、デウスを殺すために主神殿へ向かっていることを隠すことはできない。皮肉な話だった。神へ至る最初の門で、神を殺したいという意思を曝け出さなければならない。
次に、湖を示す光が強まる。
『第二の門——真実の鏡湖。湖は、封印対象の心に沈められたものを映す。罪、恐怖、憎悪、そして本人さえ認めたくない本音。神官は己の罪を告白することで通るが、おまえの場合は、それだけでは済まないだろう』
ラズはシオンを見る。彼は何も言わなかった。
『最後は、落神の戦場』
三つ目の光が脈打つ。
『かつて異星の神が討たれた場所であり、今なお強い残滓が残っている。通常の神官であれば加護印によって影響を抑えられるが、おまえたちにはない』
記録の声が僅かに低くなる。
『そして、ケイオスは恐らく、その残滓を喰らおうとする』
シオンの胸の奥で、何かが笑ったような気がした。シオンは不快そうに眉を寄せる。
『そこで必要なのは、ケイオスを抑えたまま封印搬送の術式を維持し、最後まで門を抜けることだ。術式が一度でも崩れれば、シオンは封印対象ではなく侵入者として認識される。その上で、デウス様への忠誠を誓う必要がある』
記録の地図に、三つの門から中央の白い点へ向かう光の道が現れる。
『三つすべてを通過すれば、星脈が主神殿への道を開く』
そこで、ロイエの声が一度途切れた。次に聞こえた声は、これまでの音声よりも僅かに弱々しいものだった。
『シオン』
シオンは目を逸らさなかった。
『この方法では、おまえは参拝者でも、神官でもない。人間として扱われることさえない』
ラズが息を呑む。
『ケイオスという封印対象。主神殿へ搬送される危険物として、三つの門を通ることになる』
シオンの表情は変わらない。
『屈辱だと思うかもしれない。だが、私の知る限り、これ以外に主神殿へ至る方法はない』
短い沈黙の後に、再びロイエの声が続く。
『私は、あの神を信じた』
ロイエの声が掠れる。
『信じて、従って、数え切れないものを見ないふりをした。その果てに、おまえたちのような者を生んだ』
ラズの胸が痛んだ。
『今更、私が何を言っても償いにはならない。それでも——』
最後の言葉が流れる。
『あのおぞましい神を。かつて私が愚かにも崇めた神を、どうか……止めてくれ』
そこで記録が途切れ、小屋の中に沈黙が落ちた。




