幕間─混沌の夢
シオンは眠らない。正確には、もう眠ることができない。身体は休息を必要とせず、瞼を閉じたところで意識が眠りへ落ちることもない。当然、夢など見るはずもなかった。そのはずだった。
小屋の中では、ラズが眠っている。
シオンは入口近くに腰を下ろし、暗い森へ意識を向けていた。壊れた窓から吹き込む風の音。遠くを歩く魔物の気配。背後から聞こえる、ラズの静かな寝息。何も変わらない夜だった。
ふと、そのすべてが遠ざかった。
「……?」
風の音が消える。森に潜む気配も、ラズの寝息も、一瞬にして聞こえなくなった。視界が暗転したわけではない。意識を失った感覚もなかった。それなのに、次の瞬間には、シオンは見知らぬ場所に立っていた。
足元には、赤黒い血の海が果てしなく広がっている。周囲には大きな地面の欠片のようなものが、赤黒い光を流しながら漂っており、悲鳴のような意味をなさない声が絶え間なく聞こえてくる。頭上にも、空と呼べるものは存在しなかった。遠くには巨大な骨のようなものが血の海に浮いており、何の生物の骨なのかは想像がつかなかった。ただ、骨の表面に、赤黒い影のようなものがまとわりついている。それは何かを探すように這い、やがて骨の亀裂へ染み込むように消えた。
『——神』
声がした。嫌になるほど聞き慣れた、ケイオスの声だ。だが、いつものように胸の中から聞こえているのとは違う。この空間そのものが、その声を発しているようだった。
『人間は、随分と便利な言葉を作ったものだ』
シオンは周囲を見回した。
「……どこだ、ここは」
返事はない。
『自分より強いもの。理解できぬもの。空から見下ろすもの。星を作ったとされるもの。人間は、そういうものを纏めて神と呼ぶ』
赤黒い海の向こうで闇が揺れた。何かがいる。
シオンは目を凝らす。最初は、ただ暗闇が濃くなっただけに見えた。けれど、よく見ると、僅かに輪郭がある。頭。肩。腕。脚。人間の形に似ているようだ。さらに見続ければ、それはどことなくシオン自身の体格や立ち姿を模しているようにも思えた。
だが、決して人ではない。皮膚も、髪も、衣服もない。ただ人の形を模しただけ。人の輪郭をした空洞へ、夜よりも暗い闇を詰め込んだような姿。形そのものも定まっていない。目を離した一瞬の間に肩幅が変わり、腕の長さが伸び、輪郭が煙のように揺らいでいる。その闇の中で、両目だけが鮮やかな赤に光っていた。
『あのデウスとやらも同じだ。自分に理解できないものへ、勝手に名前を与えた』
「……邪神、か」
『そう呼んでいたな』
ケイオスは可笑しそうに目を細める。
『実に滑稽だ。俺は神などではない』
赤黒い海が、足元で僅かに脈打つ。
シオンはケイオスを睨んだ。
「なら、何だ」
ケイオスの笑みが深くなる。
『飢えだ』
短い答えだった。それ以上の説明をするつもりなどないというように。
『名も要らん。祈りも、信仰も、崇拝も必要ない』
ケイオスは腕を広げる。
『喰らえば、それでいい』
赤黒い地面が、ゆっくりと脈打った。遠くから何かが軋む音が聞こえる。その音は次第にシオンに近づいてくる。
瞬間、景色が歪んだ。
「……ッ!?」
シオンの視界へ、あまりにも抽象的で意味の分からない光景が流れ込んでくる。
眩い光。次の瞬間、それが赤黒く染まる。光はたちまち呑み込まれ、赤黒い何かだけがその場に残った。
別の場所。空を覆い尽くすほどの光。無数の何かが飛び交っている。そのすべてが、突然消える。——喰われた。なぜかそう感じた。
次。足元がない。空もない。何もない。ただ何かを求めている。
足りない。足りない。足りない。もっと。もっと。もっと。その感覚だけが、シオンの頭の中へ直接流れ込んでくる。
「……何だ、これは」
胸の奥に不快感がつっかえた。恐ろしいからではない。あまりにも異質だった。これは人の記憶ではない。
何かを見る。何かを感じる。何かを欲しがる。その一つ一つの感覚が、人間のものとは根本から違っている。
次の瞬間、何かが砕ける音がした。激しい光。無数の声。互いにまったく違う響きを持つ声が、同時に何かを叫んでいる。怒り。恐怖。命令。祈り。それらが一瞬だけ押し寄せ、その直後、何かが引き裂かれた。
「……っ!」
シオンの身体に、存在そのものを二つに裂かれるような錯覚が走った。何が起きたのかは分からない。誰が、何を、どうしたのか。何一つ見えなかった。ただ、途方もなく大きな何かが、その瞬間に世界から無理やり切り離された。そんな感覚だけが残った。
そして、すべての映像が途切れる。シオンは荒く息を吐いた。
目の前には、赤黒い地面と、果てのない闇。そして、赤い瞳を持つ、形の定まらない影だけがいる。
「……今のは」
『何だと思う?』
「知るか。お前に興味などない」
『デウスを殺すこと以外はどうでもいい、か?』
考えていたことを言い当てられ、シオンは不快感に眉を寄せる。
沈黙を肯定だと見なしたのか、それともシオンの心の中などすべて見透かされているのか。ケイオスは、嘲笑うように続けた。
『まあ、それも良かろう。貴様があれを殺す頃には、貴様の身体は俺のための器としてほぼ仕上がっているだろう』
「俺はお前じゃない」
即座に否定すれば、ケイオスの笑みが深くなった。
『まだ、な』
シオンの拳が握られる。
「どういう意味だ」
『そのままの意味だ』
闇の塊が、一歩近づいた。足音はしない。それでも、距離だけがいつの間にか縮まっている。
『怒りは、俺を呼ぶ』
赤い瞳が、シオンを見る。
『憎しみは、俺を満たす』
さらに近づく。
『絶望は、貴様と俺の境目を曖昧にする』
シオンは動かない。
目の前まで来たケイオスは、輪郭すら定まらない闇のまま赤い瞳を細めた。
『そして愛もまた、悪くない』
シオンの表情が変わった。
同時に、足元の赤黒い表面へ、一つの光景が浮かび上がった。
現実の小屋。床へ横になり、静かな寝息を立てているラズ。桃色の髪には、先ほどシオンが留め直した青い星がある。
「……やめろ」
『何をだ』
「そいつを見るな」
『ほう、面白い』
ケイオスの声に、愉悦が滲む。
『つい先ほどまで、偽物だ、道具だと散々拒んでいた相手ではないか』
シオンは何も言わない。
『それでも守りたいか』
ラズの姿が、赤黒い水面の中で揺れる。
「黙れ」
『失いたくないか』
「黙れ」
『あれを失えば——』
ラズの映像へ、血を垂らすように赤黒い染みが広がる。
「やめろ」
『貴様は、また壊れるだろうなあ?』
「黙れッ!」
シオンは拳を振るった。足元の赤黒い海面が、轟音とともに割れる。ラズの姿が崩れ、無数の血飛沫となって闇へ消えていく。
それでも、ケイオスの笑い声は止まらない。
『ならば強くなれ』
「……」
『守りたいのなら、もっと喰らえ』
声が、空間全体から響く。
シオンは顔を歪めた。
『魔物を』
暗闇が揺れる。
『人間を』
赤黒い海が揺れる。
『神を』
そして、僅かな沈黙の後、ケイオスは口元を歪めて嗤う。
『——あの娘を』
「黙れッ!」
シオンが再び拳を振り抜いた。
次の瞬間、夜の森が戻ってきた。
「……っ」
シオンは目を見開く。自分は、小屋の入口近くへ座ったままだった。位置も、姿勢も、何一つ変わっていない。外では風が木々を揺らしている。遠くには魔物の気配。そして、背後からはラズの静かな寝息。
シオンはゆっくり振り返る。ラズは眠っていた。何も知らない穏やかな寝顔で、青い星を髪につけたまま。
しばらく、シオンはその姿を見つめていた。
夢。そう呼ぶしかない。だが、眠ってはいなかった。意識を失ってもいない。それでも、確かにあの場所へいた。
自分の精神世界ではない。もっと別の、自分とは何の関係もない、あまりにも古く、空虚で、底の見えない場所。
シオンは左胸へ手を当てた。衣服の下。胸へ埋め込まれた赤黒い石。その奥で、心臓の鼓動とは違う脈動が静かに続いている。
シオンは胸元を強く掴んだ。
「……俺は、お前じゃない」
その言葉を、再び小さく呟く。
返事はなかった。ただ、胸の奥で何かが愉快そうに笑った気配だけが、いつまでも消えずに残っていた。




