闇の中の光
二人の間に沈黙が落ちる。しかし、先ほどよりほんの僅かに、二人の間の距離が近くなったような気がした。
精神世界で受けた傷そのものは、現実の身体にはほとんど残っていなかった。それでもラズは、まだ完全には力を取り戻せていない。乱れた桃色の髪が頬へ張りつき、後ろで結っていた髪も半ばほどけている。その髪の間で、青い星型の髪飾りが、不安定に揺れていた。髪に挿すための軸が細い髪へ辛うじて引っかかっている。このまま動けば床へ落ちるだろう。シオンの視線がそこへ止まった。
「動くな」
「え?」
ラズが顔を上げるより早く、シオンの手が伸びた。反射的にラズの肩が僅かに強張る。その小さな反応に、シオンの手も一瞬だけ止まった。
つい先ほど、自分が近づくなと言った。触れることを拒み、デウスの手駒だと、偽物だと、散々突き放した。そうでなくても、この手は多数の人を殺し、魔物を屠ってきた手だ。ラズが怯んだのは当然だった。シオンの表情が僅かに陰る。
しかし、ラズは逃げなかった。
「……髪飾り?」
「ああ」
シオンはそれだけ答え、もう一度ゆっくりと手を伸ばした。大きな指先で、外れかけている青い星を摘まむ。軸へ絡まった髪を一本ずつ避けながら、慎重に外していく。
魔物の骨を砕く手。人間の身体すら、大した力を込めずとも簡単に壊せる手。大切だった人々を殺した手。そして、つい先ほども命乞いをする年老いた元神官を、復讐のために惨たらしく壊した手。その指が今は、細い髪を一本も引っ張らないように、細く繊細な髪飾りを壊さないように、必要以上に慎重に動いている。
ラズは何も言わず、その手元を見ていた。
シオンは乱れた髪を軽く避け、青い星を元の位置へ留め直す。
「……これでいい」
言うなり、すぐに手を離した。
ラズは何度か瞬きをしたあと、髪飾りへそっと触れる。
「シオンがつけてくれるなんて」
「外れかけていたから直しただけだ」
「うん」
「それ以上の意味はない」
「別に何も言ってないよ」
「……」
シオンは答えず、顔を背けた。
ラズは指先で青い星の形を確かめる。これは、デウスに与えられたものではない。リゼの遺品でもない。何か特別な力が宿っているわけでもない。ただ、ラズが綺麗だと思ったもの。そして、ラズがそれを気に入っていたことを、シオンが覚えていた。それだけのものだった。
先ほど、シオンは言った。お前はリゼではない。偽物でもない。デウスの道具として見るつもりもないと。
ラズという存在が、シオンにとって何なのか。それはまだ、きっとシオン自身にも答えはない。
それでも、落ちかけた青い星を彼は捨てなかった。もう一度ラズの髪へ戻した。
「……ありがとう」
シオンの眉間へ皺が寄る。
「礼を言われるようなことじゃない」
「それでも言いたいの」
「……好きにしろ」
以前にも、何度も聞いた言葉だった。けれど今は、突き放すための言葉には聞こえなかった。
遠くで魔物の遠吠えが聞こえた。夜はまだ深い。
二人の間には、何もかもが残ったままだった。シオンの罪。ラズという存在がどこまでリゼから作られ、どこから自分自身なのかという疑問。ケイオスの侵食。そして、この先に待っている復讐。何一つ、解決してはいない。
シオンは今も、自分を赦すつもりなどなかった。生きたいとも思っていない。デウスを殺す。実験に関わった者たちを殺す。その果てで、自分自身も死ぬ。その目的は何一つ変わっていない。
ラズも、シオンのしたことを赦したわけではない。ロイエを惨殺した姿を思い出せば、今も身体が震える。自分の正体を知ったことで生まれた不安も、消えてはいない。
それでも、ほんの少しだけ変わったものがある。シオンは、ラズをリゼの偽物として見ることをやめようとした。ラズは、自分が何から作られたとしても、ラズとして生きることを自分自身で選ぼうとした。
それは、救いと呼べるほど大きなものではない。復讐を止めることもできない。ケイオスを追い出すことも、過去を消すことも、誰かを生き返らせることもできない。しかし、次にどちらかが壊れそうになったとき、あと一歩のところで互いを繋ぎ止めるものにはなるのかもしれない。
シオンが徐に立ち上がる。
「夜が明けたら出る」
ラズも顔を上げた。
「次は、記録に残っていた主神殿の座標へ向かう」
その言葉を聞いた瞬間、ラズの表情が引き締まった。
記録の中にあった場所。デウスへ繋がる場所。これまでずっと、シオンが歩き続けてきた目的の先。いよいよ、復讐の終わりが近づいている。ラズの胸の中へ、不安が重く沈んだ。
デウスと戦えば、シオンはきっと限界までケイオスの力を引き出そうとする。そして、彼はその力を以て死ぬつもりでいる。それはもう分かりきっていたことだった。
「……分かった」
それでも今は、そう答えるしかなかった。
シオンは入口へ向かおうとして、ふと足を止める。
「ラズ」
名前を呼ばれ、ラズは顔を上げた。
「なに?」
シオンは、なぜか一度視線を逸らした。それからぶっきらぼうに告げる。
「……もう寝ろ」
ラズはぱちぱちと瞬きをした。そして、小さく笑う。
「うん。おやすみ」
シオンは返事をしないまま、そのまま小屋の入口へ向かい、外の様子が見える壁際へ腰を下ろした。
ラズは床へ横になる。目を閉じる前に、自分の胸へそっと手を当てた。
リゼの魂の残滓は、少しだけ失われた。自分がデウスによって作られたことも、シオンを制御する楔として生み出されたことも、その材料として、リゼの魂の一部とシオンの記憶を使われたことも変わらない。
けれど、シオンがつけてくれた名前がある。
——ラズ。
今では、誰かに与えられただけの名前ではない。自分自身で、この名前で生きたいと思える名前だった。
そして、髪にはシオンが留め直してくれた青い星がある。
これらが生まれるきっかけまで、デウスの計画の一部だったのかもしれない。それでも今、自分がそれを大切にしたいと思うことまで、誰かに決められたものだとは思いたくなかった。
自分のものにすればいい。ラズはそう思った。与えられた身体でも、与えられた力でも、与えられたきっかけから生まれた名前でも。その先で何を選ぶかは、自分で決めたい。そんなことを考えながら、ラズはゆっくりと眠りへ落ちていった。
小屋の入口近くで、シオンは一人、暗い森を眺めていた。眠らない。もう眠ることはできない。遠くにある魔物の気配へ意識を向けながら、ただ夜明けを待つ。
胸の奥で、ケイオスが嗤った。
『少しは、自分を繋ぎ止めたつもりか?』
シオンは答えない。
『あの娘一人を守った程度で、何かが変わったとでも思っているのか』
「……」
『貴様の行き先は変わらない』
低い声が、頭蓋の内側へ響く。
『デウスを殺す時、貴様はさらに力を求める。その果てで貴様の自我が壊れれば、その身体は俺が貰う』
シオンは、暗闇を見つめたまま何も言わない。
『貴様は死ぬ』
それはシオン自身が望んでいることでもあった。デウスを殺し、すべてを終わらせ、自分も死ぬ。だから、本来なら恐れる理由などない。
しかし、シオンはほんの少しだけ、先ほどまでとは違う感覚を覚えていた。
——自分が死んだ後、ラズはどうなるのだろう。
その考えが浮かんだ瞬間、シオンは眉を寄せる。考える必要などない。自分には関係がない。そう切り捨てようとした。しかし、完全には消えてくれなかった。
瞼を閉じる。眠るためではない。聞こえてくる声を、ただ受け止めるために。死者の声は、今も消えない。
『早くデウスを殺せ』
『あなたも死んで』
『まだ生きているの?』
父。母。リゼ。自分自身が作り出した幻が、いつものようにシオンを責めている。ケイオスの嗤い声もその中へ混ざっている。
しかし、今夜はもう一つ、別の声が残っていた。
——わたしは、リゼじゃない!
——あなたを救いたいって思ってるのも、わたしだよ。
——ここにいることを、今はわたしが選んでる。
そして、自分自身が呼んだ一つの名前。
——ラズ。
シオンは、その声を振り払おうとはしなかった。肯定もしない。救われようとも思わない。復讐をやめるつもりもない。ただ、今までのように無理やり掻き消すことだけはせず、死者の声と、ケイオスの声と、その中へ新しく混ざったラズの声を聞きながら、一人夜明けを待った。
かなり短めでしたが、ここまでが第五章的な立ち位置となります。
幕間を一話だけ挟んだ後、次章ではいよいよデウスのいる主神殿を向けて動き始めます。お付き合いいただければ幸いです。
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