振り払わなかった手
小屋の中でラズは倒れていた。力なく投げ出された右手のすぐ傍には、すべての記録を再生し終えた記録板が転がっている。その横ではシオンが片膝をつき、目を閉じたまま動かなかった。
壊れた窓から冷たい夜風が吹き込み、床に積もった埃を僅かに巻き上げる。外はすでに深い夜へ沈み、森の中からは時折、遠くで枝が揺れる音だけが聞こえていた。
「……戻った?」
掠れた声が静かな小屋に響く。ラズはゆっくりと瞼を開けていた。
その声へ反応するように、シオンも瞼を開く。右目は紫色、左目は赤色。精神世界で赤へ侵食されかけていた右目は、既に元の色へ戻っていた。
「……ああ」
短い返事だった。それを聞いて、ラズは僅かに安堵したように息を吐く。身体を起こそうと腕へ力を込めた途端、全身に鈍い痛みが走った。
「っ……」
思わず顔をしかめる。
赤黒い触手に身体を締め上げられたのは、精神世界の中だけではなかった。意識を引きずり込まれる直前、現実でも足元からケイオスの力が伸び、自分の身体へ絡みついたのを覚えている。目立った傷は残っていなかったが、身体の芯から力を奪われたような倦怠感と、締めつけられた痛みの残滓がまだ消えていない。
その様子を見たシオンが、反射的に手を伸ばした。しかし、途中で止まる。宙へ伸びた大きな手が、行き場を失ったように僅かに揺れた。
ラズはその手を見つめた。
つい先ほどまで、シオンは自分へ「近づくな」と言っていた。リゼの偽物だと、デウスの手駒だと、自分を縛るための道具だと吐き捨てた。その言葉は、まだ胸の中に残っている。——それでも。
ラズは自分から手を伸ばした。指先が、シオンの手へ触れる。その瞬間、シオンの指が小さく跳ねた。咄嗟に引こうとしたのが分かった。けれど、シオンは手を引かなかった。ラズはその手を借り、ゆっくりと上体を起こす。
「……触るなって言う?」
少しだけ冗談めかして尋ねると、シオンは気まずそうに目を逸らした。
「……今は言わない」
「そっか」
ラズが小さく笑う。
身体を起こし終えると、二人の手は自然に離れた。
再び沈黙が落ちる。重く、苦しい沈黙だった。ロイエを殺した後のことも、記録を見て互いに傷つけ合ったことも、何一つ消えてはいない。
しかし、先ほどまでとは少し違っていた。完全に断絶してしまった者同士の沈黙ではない。何を言えばいいのか分からず、それでも相手の存在を意識し続けている者同士の沈黙だった。
「……わたし」
やがて、ラズが口を開いた。自分の胸へ手を当てる。
「何か、失くした気がする」
シオンの表情が僅かに強張った。ケイオスの言葉を、彼も覚えている。ラズの中に残っていたリゼの魂の残滓を、少し喰ったと。あの存在は確かにそう言った。
「記憶がなくなったわけじゃないの。今までのことは全部覚えてる。でも……」
ラズは自分の胸元へ置いた手を見つめた。
「今まで何も考えなくても自然に出てきた言葉とか、仕草とか。そういうものの一部が、少し遠くなったような気がする」
具体的に何を失ったのかは分からない。ラズ自身が経験した記憶ではない。リゼとして生きた過去を思い出せるわけでもない。
それでも、自分の中には確かにあった。理由も分からず知っていたこと。何も考えずに選んでいた言葉。自然と身体が覚えていた仕草。自分の一部でありながら、自分よりも前から存在していたような、柔らかな何か。それが少しだけ削り取られている。
怖かった。自分を形作っていたものの一部を、勝手に奪われたのだから。リゼではないと言ったからといって、リゼの残滓を失いたいと願ったわけではない。あれもまた、自分という存在を生み出したものの一つだった。
しかし、その喪失に怯える一方で、奇妙な感覚もあった。今までリゼから受け継いだものと、自分自身が生きる中で得たものは、あまりにも自然に混ざり合っていた。だからこそ、どこまでがリゼで、どこからがラズなのか分からなかった。その一部が薄れたことで、空いた場所の向こうに、自分自身の輪郭がほんの少しだけ見えたような気もする。
それを嬉しいと思っていいのかは分からない。ただ、少しだけ息がしやすくなった。そんな感覚だった。
「わたし、リゼから……」
ラズは一度言葉を止める。
「——リゼさんから、少し遠くなったのかな」
初めて、自然にそう呼んでいた。”リゼ”ではなく、”リゼさん”と。自分とは違う、過去に生きていた一人の少女を呼ぶように。
シオンは何も言わなかった。しかし、その表情には僅かな苦しさが浮かんでいる。ラズはそんな彼を真っ直ぐに見つめた。
「ねえ、シオン」
「……何だ」
「わたし、変わった?」
シオンは答えに詰まった。改めてラズを見る。顔は変わっていない。柔らかな桃色の髪も、碧い瞳も、リゼと同じ顔立ちも、そのままだ。声だって変わらない。
けれど、以前とは何かが違う。表情の作り方。物事を考えるときに僅かに眉を寄せる仕草。こちらを見つめる瞳の奥にある迷い。かつてのリゼと重なる部分は、今も確かに残っている。それでも、一緒に旅をしてきた時間の中で積み重なったラズ自身の癖や感情が、その面影の上へ少しずつ重なっていた。
いや、本当は以前からそうだったのかもしれない。シオン自身が見ようとしていなかっただけで。
「……分からない」
長い沈黙の末、シオンはそう答えた。
「……そっか」
ラズは少しだけ残念そうに笑い、両手の指を合わせながら視線を落とした。普段なら、シオンとの会話はそこで終わっていただろう。——しかし。
「だが……」
小さな声が続いた。ラズが顔を上げる。
シオンは一度ラズから目を逸らした。何かを言おうとして、それでも口に出すことを躊躇っているようだった。やがて、覚悟を決めたようにラズへ向き直る。
「お前は、リゼじゃない」
ラズが息を呑む。出会った頃にも、何度も言われた言葉だった。けれど今は、あの頃とはまったく違う意味を持っていた。
「お前はリゼの偽物でもない。本物のリゼでもない」
シオンは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「デウスがお前を何のために作ったのかも、お前の中に何を入れたのかも変わらない。……それでも」
一瞬だけ、声が止まる。
「俺はもう、お前をあいつの道具として見るつもりはない」
ラズの目が僅かに見開かれた。
「少なくとも……今、ここにいるお前は、ラズだ」
シオンは不器用に眉を寄せる。
「俺は、そう思うことにした」
その一言を聞いた瞬間、ラズの胸の奥がじんわりと温かくなった。精神世界でも、同じ名前を呼ばれた。しかし、現実へ戻った今ももう一度シオン自身の口から、リゼではなくラズと呼ばれた。呼んでくれた。
「……うん」
ラズは安堵したように目を細めた。シオンは、そんな顔を正面から見続けることができないように視線を逸らす。しかし、まだ言わなければならないことがあるらしい。
「さっきは……」
シオンの声がさらに低くなった。
「今までにも、お前を偽物だと言った」
「うん」
「デウスの手駒だとも言った」
「うん」
「お前が何を思っているかは関係ないとも」
「……うん」
一つずつ、自分がラズへ投げつけた言葉を確かめるように口にしていく。
「今更、言わなかったことにはできない」
ラズは静かに頷いた。
「わたし、傷ついたよ」
シオンの指がピクリと小さく動く。目も僅かに見開かれた。ラズはその反応を見ながら続ける。
「すごく悲しかった。自分が何なのか分からなくなってるときに、シオンまで全部偽物だって決めつけるから」
「……」
「今も、言われたことを思い出したら痛いよ」
シオンは何も返せなかった。責められている。そのはずだった。しかし、ラズの声に憎しみはなかった。
ラズは少しだけ小さく笑う。
「でも、今、シオンがそれは違うって思ったなら、それは嬉しい」
「……それで、いいのか」
思わず問い返していた。
「全部いいわけじゃないよ」
ラズは、そこだけははっきりと言った。
「傷ついたことがなくなるわけじゃないし、さっきのことも忘れない」
「……」
「でも、あなたがわたしをラズとして見ようとしてくれたことは、それとは別に嬉しいの」
シオンは目を見開いたまま、言葉を失った。
彼にとっては、責められる方が楽だったのかもしれない。酷いことを言った。傷つけた。ならば、嫌われて、恨まれて、罵られる。その方が、自分には相応しい。自分を責め続ける死者の幻と同じように。
しかし、ラズはそうしない。傷ついたと、はっきり伝えはした。それでも同時に、嬉しいことは嬉しいと言った。赦すでもなく、恨み続けるでもなく、ラズ自身の感情として。
そのことが、シオンにはひどく理解しづらかったと同時に、少しだけ苦しかった。
「わたしは、あなたの過去の代わりじゃなくて、今ここにいるわたしとしてあなたのそばにいたい」
シオンの表情が曇る。
「……俺のそばにいても、ろくなことにならない」
「もうなってるよ」
「……」
シオンが眉をひそめる。
「俺は、お前を殺すかもしれない」
「うん。でも、殺さないかもしれない」
「俺と一緒にいれば、また傷つく。怖い目にも遭う」
「もう傷ついたし、怖い思いもしたよ」
ラズはそう答え、小さく笑った。しかし、その笑顔は、先ほどまでのような柔らかなものではなかった。僅かに痛みが残っている。
ラズ自身、ロイエのことを忘れたわけではない。思い出せば、今でも身体が強張る。無抵抗になった人間を、苦しませるために少しずつ壊していったシオン。冷えきった瞳。血に濡れた拳。耳に焼きついた断末魔。
怖かった。今だって怖い。シオンのしたことを、正しいと思うこともできない。それでも、目を逸らしたくなかった。
「怖いよ」
ラズは、真っ直ぐにシオンを見る。
「シオンが怖い」
シオンの瞳が僅かに揺れる。
「またあんなふうに誰かを殺すかもしれないと思ったら、怖い。あなたがケイオスに呑まれるのも怖いし、いつか本当に自分から死んでしまうのも怖い」
そして一度、息を吸った。
「それでも、わたしはここにいる」
自分の胸へ手を当てた。
「ここにいることを、今はわたしが選んでる」
シオンは何も言えなかった。それ以上、離れろと言う言葉も出てこなかった。




