与えた名前
その声が響いた瞬間、精神世界が大きく揺れた。花が舞い上がる。血のような空に走っていた亀裂が、不安定に明滅した。
そして、シオンの瞳が揺れた。そこに重なっていたリゼの影が一瞬だけ薄くなる。
リゼではない。目の前にいるのは、森で出会った少女。名前がないと言った少女。自分が何度冷たく突き放しても、勝手についてきた少女。偽物と呼べば傷つき、それでも自分の隣を歩き続けた。
——ラズ。
シオンの中で、その名前と、目の前の少女の姿が重なった。
ケイオスの笑みが、初めて僅かに歪む。
『余計なことを』
ケイオスがラズへ手を向けた。その瞬間、全身へ絡みついていた触手が一気に締まる。
「あ゛あああっ……ぐ、うううっ!」
ラズの絶叫が響いた。身体が軋む。だが、それだけではない。自分の内側にある何かが、触手を通じて無理やり引きずり出されようとしていた。
記憶ではない。意識でもない。もっと古いもの。自分が生まれるより前から存在していたもの。温かな光。——リゼの魂の残滓。それが、自分の中から少しずつ引き剥がされていく。
『ならば、先に喰ってやろう』
ケイオスの赤い瞳が細められる。
『リゼの残滓ごと、貴様を此奴の中から消してやる。そうすれば此奴は、また一つ失う』
赤黒い力が、鎖を伝ってラズの中へ侵入していく。
『そして、その喪失は極上の怒りと憎悪へ変わる』
「ぁ……ああああっ!」
悲鳴が止まらない。苦しい。身体の一部ではない何かを、生きたまま剥ぎ取られているような感覚だった。
その光景を見ていたシオンが、ゆっくりと立ち上がった。
「……やめろ」
ケイオスが愉快そうに笑う。
『そうだ。怒れ』
シオンの身体から、赤黒い力が立ち上る。
『憎め。その娘を奪われる怒りを、もっと力に変えろ』
シオンが一歩踏み出した。
間違いなく怒っていた。ケイオスへの怒りがある。デウスへの憎悪も消えていない。自分自身を赦すこともできていない。それでも、先ほどまでとは、一つだけ違っていた。
怒りに目を塞がれてはいない。赤黒い力を纏いながらも、その視線は真っ直ぐに一人の少女へ向けられている。リゼではなく、リゼの代用品でもない少女に。
「そいつに触るな」
シオンの低い声が響いた。
ケイオスが嗤う。
『何を言う。貴様はつい先ほど、その娘を拒んだばかりではないか』
「……」
『偽物だと。デウスの道具だと。自分へ近づくなと』
「……そうだ。俺はそう言った」
ラズの瞳が揺れる。
シオンは拳を強く握る。
自分が言ったことは消えない。ラズを傷つけたことも。あの言葉をなかったことにはできない。ラズがリゼの魂の残滓を使って作られたことも、デウスが自分を縛る楔として彼女を生み出したことも、すべて事実だ。
「お前が、何から作られたのかは変わらない」
シオンはラズに向けて言葉を投げた。その言葉に、ラズの胸が僅かに痛む。けれど、続いた言葉は先ほどとは違った。
「だが——」
シオンがケイオスを見る。
「だからといって、今ここにいるこいつまでデウスのものになるわけじゃない」
ケイオスの笑みが薄れる。
「楔というデウスの道具として生まれたとしても、今こいつが何を考え、何を選ぶかまで、あいつが決めるものじゃない」
赤黒い力が、シオンの拳へ集まっていく。
「俺が今見ているのは、リゼじゃない」
シオンは一歩踏み込む。
「リゼの偽物でもない」
ラズの目から、また涙が零れた。しかし、今後のそれは悲しみや苦痛の涙ではない。
そしてシオンは、はっきりとその名を呼んだ。
「——ラズだ」
風が吹いた。精神世界にあるはずのない、穏やかな風。丘一面の白いツェルトリヒが、一斉に揺れる。
ラズの胸の奥に、何か小さな熱が灯った。
——ラズ。
デウスから与えられた識別名ではない。リゼの名前でもない。シオンがつけた名前。そして今、自分自身が選び直した名前だ。
シオンが地面を蹴った。その拳に纏われているのはケイオスの力だ。皮肉なことに、ケイオスへ抗うために、シオンはケイオスの力を使っている。しかし、その力を引き出している感情は、いつものような怒りや憎しみだけではなかった。
——奪わせたくない。
父も、母も、リゼも、村のみんなも、何も守れなかった。守ろうとしたものを、すべて失った。だからいつの間にか、誰かを守ろうとすることそのものをシオンは諦めていた。自分には、人を守る資格などない。守れるはずもない。そう思っていた。
しかし今、目の前でラズが奪われようとしている。それだけは嫌だった。資格があるかどうかではない。赦されるかどうかでもない。ただ、奪わせたくなかった。それだけだった。
シオンの拳が、ラズを拘束する赤黒い触手へ叩き込まれた。
轟音と共に、一本の触手が弾け飛ぶ。続けて二本目、三本目と拳が振るわれるたびに触手は形を失って飛び散っていき、ケイオスの表情が険しくなっていく。
『貴様……』
初めて、ケイオスの声から愉悦が薄れた。
『俺の力で、俺に逆らうか』
「黙れ」
シオンは最後に残った触手を掴んだ。触手が音を立てて軋む。
『忘れたか。その力は俺のものだ』
「そうだ。だが、これは俺の身体だ」
シオンは歯を食いしばる。触手に亀裂が走った。
「ここは俺の心だ」
さらに力を込める。
「俺が、誰を憎むかも、誰を守るかも」
亀裂が広がる。
シオンは、ケイオスを睨みつけた。
「お前に決めさせるつもりはない」
触手を、力任せに握り潰した。拘束を失ったラズの身体が落下する。
「……っ」
地面へ倒れ込む寸前、シオンの腕が伸びた。咄嗟にラズの身体を受け止める。
ラズは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。
「シオン……」
シオンは、ラズのその瞳から目を逸らさなかった。
右は紫。左は赤。先ほど右目へ混ざり始めていた赤は薄れ、元の色へ戻りつつある。
身体の中にケイオスが存在することは変わらない。侵食が消えたわけでもない。それでも今、そこにいるのは間違いなくシオンだった。
そして、その左右色違いの瞳には、リゼではなくラズという一人の少女が映っていた。
砕けた触手の向こうで、ケイオスが笑った。
『……いいだろう』
今度の笑みには、先ほどまでとは少し違う苛立ちと、それ以上の興味が混ざっていた。
『今回は譲ってやる』
シオンがケイオスを睨む。
『だが、勘違いするな』
両目の赤い光が、暗闇の中で強く輝く。
『貴様は今、俺の力を使った』
「……」
『憎しみだけではない。守りたいなどという、くだらぬ感情でも俺の力を引き出せるらしい』
ケイオスは愉快そうに笑った。
『これは面白い』
シオンの表情が僅かに強張る。
今まで、ケイオスの力は怒りと憎しみによって膨れ上がるものだと思っていた。事実としてそうだった。しかし、今回最後にシオンを動かしたものは、それだけではなかった。
『それと』
ケイオスの赤い瞳が、シオンの腕の中にいるラズへ向けられた。
『その娘の中にあるリゼは、少し喰わせてもらったぞ』
ラズの身体が小さく震えた。
『魂の残滓は、先ほどまでより減った』
ラズは無意識に、自分の胸元へ手を当てる。確かに、何かが違う。具体的に何が失われたのかは分からない。記憶が消えたわけではない。自分が自分でなくなったわけでもない。けれど、身体の奥にあった温かな何かが、ほんの少しだけ遠くなったような感覚がある。
『喜べばいい』
ケイオスが嗤う。
『貴様はリゼとして見られることを嫌がっていたのだろう?』
「……」
『ならば、あの女の残滓が減るのは、望んだことではないのか』
ラズは答えられなかった。
リゼではない。ラズはそう言った。そうありたいと思った。しかし、だからといって、自分の中に残されていたリゼの一部を勝手に奪われて、嬉しいとは思えなかった。
自分とは違う。けれど、自分を生み出す一部でもあったもの。それを失ったことへの感情を、今のラズはまだ言葉にできなかった。
『まあいい』
ケイオスの姿が、少しずつ暗闇へ溶けていく。
『貴様らは、いずれまた壊れる。そのときには——』
愉悦を含んだ低い笑い声だけが響く。
『今よりも、もっと良い味になっているだろう』
ケイオスの姿が完全に消えた。
同時に、精神世界が激しく揺れ始める。血の色をしていた空へ無数の亀裂が走り、遠くに見えていた燃える村が崩れていく。足元の白い花の丘にも亀裂が入り、地面が大きな音を立てて割れ始めた。
「……シオン」
ラズが不安そうに周囲を見る。
シオンは答えなかった。ただ、腕の中にいるラズを、先ほどよりも少し強く抱き寄せた。
崩れ落ちる地面。降り注ぐ赤黒い破片。精神世界のあらゆるものが崩れていく中で、シオンはラズを庇うようにその身体を抱え続けた。今度こそ、自分の腕の中にいるものを奪わせないように。




