わたしはラズ
ラズは、血のように赤い空の下にいた。
——いや、立っているという表現は正しくない。両腕と両脚には赤黒い触手が絡みつき、胸元まで強く締め上げられている。その触手によって身体は宙へ吊り上げられ、足先は地面へ届いていなかった。身を捩って逃れようとするたびに、触手が肉体ではなく魂そのものへ食い込んでくるような激痛が走る。
「っ……!」
ラズは苦痛に顔を歪めながら、周囲を見回す。ここには見覚えがあった。シオンの精神世界。以前、アルミナで彼の精神へ入り込んだときに見た場所だった。
だが、あのときとは何もかもが違う。地面を覆っていた血溜まりはさらにかさを増し、底すら見えないほど暗く澱んでいる。血のように赤い空には巨大な亀裂が何本も走り、その隙間から赤黒い何かが脈打つように滲んでいた。
遠くには、壊れた村の影が見える。燃える家々。崩れた井戸。血に染まった道。そして、そのさらに向こうには、ツェルトリヒが咲く丘。すべてが濃い血の霧の向こうで歪み、シオンの記憶そのものが腐食しているように見えた。
「シオン!」
ラズは触手に吊られたまま叫ぶ。しかし返事はない。
もう一度呼ぼうとした、その時だった。
『呼んでも無駄だ』
背後から聞こえた声に、ラズは振り返った。
そこに立っていたのは、人の形をした何かだった。赤黒い何かが集まり、人の形を作っている。その形はシオンの影のようにも見えた。全身が血のように赤黒い。しかし、その中で両目だけが赤く輝いていた。
以前に精神世界で会った時とは姿が違う。しかし、間違いない。
「……ケイオス」
顔に赤い三日月のようなものが現れた。それはどうやら口のようで、愉快そうに口元を歪めているようだ。
片手からは赤黒い触手が伸びている。ラズの全身を拘束している触手は精神世界の奥まで伸び、そのすべてがケイオスの手元へ繋がっているようだった。
『今の此奴に、貴様の声を聞く余裕などない』
「シオンに何をしたの?」
『俺が何かをした?』
ケイオスは可笑しそうに笑った。
『随分と勝手な言い草だな。俺は何もしていない。貴様らが勝手に傷つき、疑い、壊れただけだ』
「……」
『実に愉快だったぞ』
ケイオスが触手を弄ぶように指へ巻きつける。
『貴様は自分自身を疑い、此奴はそんな貴様を拒んだ。デウスへの憎悪に、リゼへの未練、貴様への疑念、そして自分自身への嫌悪まで混ざり合った。怒りと憎悪だけでなく、あれほど様々なものが混ざった濃い感情は久しい』
ラズは唇を噛んだ。つい先ほど、現実でシオンから投げつけられた言葉が蘇る。リゼの偽物。デウスの手駒。自分を制御するために作られた楔。思い出すだけで胸が痛んだ。けれど、今はそれより先に確かめなければならないことがある。
「わたしをどうするつもり?」
『決まっている』
ケイオスが一歩ずつ近づいてくる。シオンと同じ形をしているはずなのに、その笑みにはシオンにはない、底知れない悪意だけがあった。
『貴様は最高の餌だ』
ラズの身体が強張った。
『貴様を壊せば、此奴はまた怒る。貴様を喰えば、さらに絶望する。貴様はリゼではないが、その魂の残滓を持っている上に、此奴自身が貴様へ執着し始めている。餌としては十分すぎる』
「……わたしは餌じゃない」
『本当にそうか?』
ケイオスが指を鳴らした。その瞬間、周囲の景色が大きく揺らぐ。
血に染まった地面が消え、代わりに一面の白が広がった。ツェルトリヒの花が咲く丘。ラズにとっては初めて見る場所だ。しかし、きっとここはリゼとシオンが二人で訪れた、彼にとって大切な記憶の場所なのだろうということはよく分かった。
ただし、ラズ自身は今も触手によって宙へ吊られたままだ。
そして、白い花の向こうに、一人の男がいた。
「シオン……!」
シオンは丘の上で膝をつき、俯いていた。銀白の髪は乱れ、呼吸も荒い。右の紫色の瞳は暗く濁り、左の赤い瞳は普段よりも強い光を宿している。顔には、怒りと苦痛と、何かから必死に耐えようとしているような歪みが浮かんでいた。
「ラズ……?」
シオンがゆっくりと顔を上げる。その左右色違いの瞳に、触手に囚われたラズの姿が映った。
「シオン、駄目! これはケイオスが——」
言葉が途中で途切れる。
「……っ?」
声が出ない。喉を押さえつけられたわけでもない。それなのに、どれほど叫ぼうとしても声にならなかった。
同時に、シオンの目に映る景色が歪んでいく。ケイオスが、シオンの中に残っている記憶を無理やり引きずり出していた。
ラズの姿へ、別の少女の影が重なる。元より顔も、声も、リゼと同じだった。そこへさらに、シオンの記憶にあるリゼが被せられていく。白い花を摘む手。薬草の微かな匂い。優しく細められる碧の瞳。困ったように笑う表情。そして、いつかシオンへ向けられた言葉。
——痛いって言っていいんだよ。
シオンの目が見開かれた。
「……リゼ」
その名を聞いた瞬間、ラズの胸が痛んだ。
——違う。わたしはリゼじゃない。
そう叫びたいのに、声が出ない。
つい先ほどまで感じていた苦しみが、再び胸の中へ押し寄せる。
自分はリゼの魂の残滓から作られた。姿も声も、シオンの記憶にあるリゼを参考にして作られた。シオンに名前をつけてもらうことさえ、最初からデウスの計画に含まれていた。
そして今も、シオンは自分ではなく、リゼを見ている。ケイオスにそう見せられているだけだと分かっていても、苦しかった。
『見ろ、シオン』
ケイオスの声が精神世界へ響く。
『貴様はまた失う』
赤黒い触手が一気に締まった。
「——っ!」
声にならない悲鳴が喉の奥で潰れる。腕が軋む。胸が押し潰されそうになる。触手が身体だけではなく、もっと内側、自分という存在そのものを締め上げている。
けれど、シオンの目には、それがリゼの姿として映っていた。
「やめろ……!」
シオンの顔が苦痛に歪む。
『何をやめる?』
嘲笑うケイオスの声は、甘くすら聞こえた。
『貴様はずっと、罰を望んでいたではないか』
「……」
『父も、母も、リゼも、貴様を責め続けていると思っている。貴様の死を願っていると信じ、それを自分自身へ言い聞かせ続けている。自らを罰するために』
シオンの肩が震えた。
『ならば、もう一度見せてやろう。貴様が守れなかったものを』
白い花の丘に、人影が現れる。父。母。村人たち。そして、リゼ。シオン自身が何度も見てきた死者の幻だった。
『また守れないのか』
父が言う。
『また誰かを殺すのね』
母が言う。
『あなたは誰かを救える人間じゃない』
リゼが言った。
シオンは頭を抱える。
「……黙れ」
しかし、幻は消えない。
『俺たちを殺した』
『それなのに、まだ生きている』
『次は、その子を殺すの?』
「黙れ……」
『お前は何も守れない』
「黙れ!」
『殺すことしかできない』
「黙れ黙れ黙れッ!!」
シオンの絶叫と同時に、胸へ埋め込まれた赤黒い石が激しく脈打った。赤黒い力が爆発するように全身から噴き上がる。怒り。憎悪。罪悪感。ラズを拒絶したことへの、本人すら認めようとしない僅かな後悔。そして、自分自身への殺意。すべてが絡み合い、ケイオスの力へ変わっていく。
『そうだ』
ケイオスが恍惚とした声で囁いた。
『もっと怒れ。もっと憎め。貴様という存在を、その感情の底へ沈めろ』
シオンの左目が、さらに強い赤を放つ。そして、右の紫色の瞳にも、血を垂らしたような赤が僅かに滲み始めた。
ラズの血の気が引いた。このままでは、シオンがケイオスに呑まれる。
「……シオン!」
今度は声が出た。ラズは夢中で叫ぶ。
「シオン、わたしを見て!」
シオンは顔を上げない。
『無駄だ』
ケイオスが笑う。
「無駄じゃない!」
ラズは触手から逃れようと、必死に身体を捩った。触手がさらに深く食い込み、激しい痛みが走る。
痛い。怖い。それでも、今は伝えなければならない。
自分の身体にはリゼの魂の残滓がある。デウスによって作られた。シオンを制御する楔として生まれた。それは、もう否定できない事実だった。
しかし。先ほどシオンにすべてを否定された時、どうしてあれほど悲しかったのか。どうしてあれほど悔しかったのか。自分の感情を偽物だと決めつけてほしくないと、どうして思ったのか。今なら少しだけ分かる。言葉にできる気がする。
「わたしは、リゼじゃない!」
ラズの声が精神世界へ響いた。
「リゼの偽物でも、代わりでもない!」
白い花々がざわめいた。シオンの肩が僅かに動く。
「確かに、わたしの中にはリゼの残滓があるのかもしれない。デウスに作られたのも本当で、あなたを制御するための楔として生まれたことだって、もう否定できない!」
言葉にするたび胸が痛んだ。それでもラズは続ける。
「でも、森で何も分からないまま目を覚まして、魔物に襲われて怖かったのはわたしだよ。あなたに助けてもらったのも、わたし」
あの日の森が脳裏に蘇る。血に濡れた拳。恐ろしいほど強いのに、ひどく暗い目をした青年。それでも自分を助けてくれた。
「あなたに名前をつけてもらって嬉しかったのも、わたしだよ」
——ラズ。
その名前をもらった瞬間の喜びを、今も覚えている。
「名前をつけてもらうことまでデウスが計画してたのかもしれない。でも、ラズって呼ばれて嬉しかった気持ちまでデウスが決めたなんて、わたしは思いたくない!」
シオンが僅かに顔を上げた。
「あなたについていくって決めたのも、あなたの隣を歩いたのも、あなたが傷ついているのを見て苦しいと思ったのも、全部わたし!」
涙が溢れる。
「ロイエを殺したあなたを怖いと思ったのだって、わたしだよ。それでも離れたくないって思ったのも、わたし!」
シオンの左右色違いの瞳が、ゆっくりとラズへ向けられる。その目にはまだ、リゼの影が重なっていた。それでも先ほどまでとは違う。自分を見ようとしている。ラズはそう感じた。
「あなたを救いたいって思ってるのも、わたしだよ」
ラズは泣きながら、それでも真っ直ぐにシオンを見る。
「リゼがどう思ってたのか、わたしには分からない。リゼだったらあなたを救いたいと思ったのかも、思わなかったのかも分からない」
その言葉はラズにとっても大切だった。リゼならどうしたのか、それを基準にはしない。そうしてしまったら、自分はリゼの代わりの存在になってしまうから。
「でも、わたしはそうしたい」
触手が、さらに強く身体を締め上げた。
「っ……!」
意識が飛びそうなほどの痛みに、視界が白く染まる。それでもラズは叫んだ。
「デウスが何のためにわたしを作ったかなんて、関係ない!」
息を吸う。痛い。苦しい。——それでも。
「これが……わたしの意思なんだ!」




