偽物の証明
ラズはすぐには顔を上げられなかった。
自分の両手を見る。この中には、神力がある。本来なら神だけが持つ力。デウスによって与えられた、自分を作る核の一部。その事実まで、自分が人間ではないことを突きつけられているようだった。
やがて、ラズは恐る恐る顔を上げる。
「……シオン」
シオンが彼女を見る。冷えきった瞳だった。
しかし、その奥では激しい怒りが燃えている。デウスへの怒りなのか、死後までリゼを利用されたことへの怒りなのか、また自分を操ろうとしていたことへの怒りなのか。
——それとも、目の前にいるラズへ向けられたものなのか。
次にシオンが口にした言葉で、その答えの一つを知った。
「……やはりな」
ラズの胸が、じくりと痛む。
「お前は、リゼの残り滓から作られた、リゼの偽物だ」
息が止まった。
自分がリゼではないことなど、ずっと分かっていた。シオンにも何度も偽物と呼ばれた。けれど、今のその言葉は、これまでとはまるで違った。
以前は、シオンが自分とリゼを切り離すために吐いていた言葉だった。しかし、今は違う。記録によって、自分が何から作られたのかを知った上で、存在そのものを否定する言葉として突き刺さった。
「それだけじゃない」
シオンは続ける。
「お前はデウスの手駒だ」
「……」
その言葉に耐えきれず、ラズは反射的にシオンへ歩み寄ろうとした。
「シオン……」
「近づくな」
足が止まる。
声が、あまりにも冷たかった。
シオンの左目が、暗がりの中で赤く光っている。
「俺を制御するための道具。デウスが俺をもう一度兵器として縛るために作った楔。それがお前だ」
「違う……」
声が震える。
「違うよ……」
「何が違う?」
シオンは一歩も譲らなかった。
「記録にあっただろう。お前は確かにリゼじゃない。だが、リゼの魂の残り滓と、俺の記憶の中にあるリゼを材料に作られた。顔も、声も、仕草も、俺の心に届きやすいように作られている」
「……」
「俺がお前に名前をつけることすら、最初からデウスの計画だった」
ラズは思わず、自分の胸元を掴んだ。
——ラズ。
あれほど大切だった名前が、一瞬だけ遠く感じられた。
あの日、自分から名前を求めた。嬉しかった。シオンに名前をもらったことが、本当に嬉しかった。
けれど、その行動すら、最初からそうするように作られていたのだとしたら。
「出会ったとき、お前は俺に名前をつけろとせがんだな」
シオンの言葉が、容赦なく続く。
「あれも結局、そうするように設計されていたというだけだ。俺に名をつけさせ、俺との結びつきを強くして、心に入り込みやすくするために」
「……やめて」
「デウスの道具として役目を果たすために」
「シオン、やめて……」
ラズの膝から力が抜け、その場にへたり込んだ。
自分は何なのだろう。
森で目を覚ましたこと。シオンについていこうと思ったこと。彼を放っておけないと思ったこと。何度拒絶されても隣にいたこと。救いたいと思ったこと。ロイエを惨殺した姿を見て怖いと思いながら、それでも離れたくないと答えたこと。それらは、本当に自分で選んだことなのだろうか。
リゼの魂の残滓が、自分にそうさせているだけなのかもしれない。シオンの記憶から写し取られた人格が、同じような感情を抱かせているだけなのかもしれない。或いは、楔としてシオンの傍に居続けるよう、デウスによって最初から何かを組み込まれていたのかもしれない。
そして、自分の身体の中には神力まである。
顔も、声も、力も、生まれた理由も。すべてが誰かから与えられたものだった。
ならば、その中のどこに”ラズ”がいるのだろう。
「わたしは……」
言葉が詰まった。
自分の輪郭が、急速に曖昧になっていく。あれだけ大切だった自分の名前まで借り物のように思えてくる。ラズという存在が本当にここにいるのか、それともリゼとデウスとシオンの記憶を寄せ集めて作られた空っぽの器なのか、自分でも分からない。
そんなラズをさらに追い詰めるように、シオンが冷たい声で言った。
「お前は以前、俺の復讐も感情も、ケイオスに利用されていると言ったな」
ラズはゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、身体が凍りついた。
——シオンの瞳が、あの時ロイエへ向けられていたものに似ていたから。自分を壊した者を赦さない。自分の人生を弄んだ者を絶対に赦さない。そんな冷たい憎悪を宿した目が、今度は自分へ向けられている。
「それは、お前も同じじゃないのか」
「……え?」
「俺を兵器として縛りつけるために、お前は俺の中に残っているリゼとの記憶を利用した」
「違う!」
「リゼと同じ顔で俺の前に現れた」
「違う……」
「同じ声で俺の名前を呼んだ。俺に名前をつけさせて、俺のそばに居座った」
ラズは何度も首を振る。
「そんなつもりじゃない……!」
「何度も、俺にリゼを思い出させた」
「わたしは、そんなことをしようなんて一度も思ってない!」
ラズの声が、初めて強く小屋へ響いた。
「わたしは、あなたを苦しめたくて一緒にいたんじゃない! デウスのためにあなたのそばにいたわけでもない!」
シオンが一瞬だけ口を閉じる。しかし、次に返ってきた声は変わらず冷たかった。
「お前がどう思っているかなど関係ない」
ラズの表情が固まる。
「そう作られているのなら、同じことだ」
その言葉に、胸の奥で何かが軋んだ。
怖かった。悲しかった。苦しかった。
けれど、それ以上に悔しかった。自分自身が、自分のものではないと言われたことが。自分が感じてきたことまで、誰かに作られた機能に過ぎないと決めつけられたことが。ラズ自身、自分の感情が本当に自分から生まれたものなのか証明することができない。だからこそ、何よりも苦しかった。
「……じゃあ」
涙が一粒、頬を伝った。
「わたしが今、悲しいって思ってるのも……作られたものなの?」
シオンの眉が僅かに動く。
「あなたにそんなふうに言われて、苦しいって思ってるのも? さっきあなたがロイエを殺したのを怖いと思ったのも、それでも離れたくないって思ったのも……全部、わたしのものじゃないの?」
シオンは答えなかった。
ラズ自身にも答えは分からない。それでも、今胸の中にある痛みだけは、あまりにも鮮明だった。
「わたしだって……分からないよ」
声が震える。
「今まで何も覚えてなかったんだから。自分が何なのかも、どうしてあなたと一緒にいたいと思うのかも、本当にわたしがそう思ってるのかも……もう、分からない」
大粒の涙が、次々と零れ落ちる。碧色の瞳が、澄んだ海面のように揺らいだ。
「でも……だからって、全部偽物だって決めつけないでよ……」
その言葉に、シオンの表情がほんの僅かに揺らいだ。怒りの奥に、何か別の感情が浮かびかける。
しかし、それが形になるより早く、シオンの胸の奥から声が響いた。
『実に良い』
シオンの身体が強張る。そんなシオンの反応に気づき、ラズも顔を上げた。
空気が変わる。小屋の中へ、赤黒い力がゆっくりと滲み出していく。それは煙のようにシオンの身体を這い、床へ流れ落ちていた。
『怒り。憎しみ。懐疑。嫌悪。拒絶。罪悪感』
ケイオスは、心底愉しそうにシオンの中の感情を並べていく。
『俺好みの感情が、実に良い具合に混ざっている』
シオンは左胸を押さえた。
「お前は……黙っていろ……!」
『つれないではないか。こんなに美味いものを前にして、黙って見ていろと?』
ケイオスの声はいつもより近い。声そのものが、シオンの身体の奥から這い出してこようとしているようだった。
『その娘は餌だ』
シオンの顔から、僅かに血の気が引いた。
『貴様にとっても、俺にとってもな』
赤黒い力が床へ広がる。
ラズは涙を拭うことも忘れ、その異様な光景を見つめた。自分の足元へ、赤黒いものが這ってくる。
「……え?」
血溜まりのように集まり始めたそれを見た瞬間、シオンの表情が変わった。
「ラズ、離れろ!」
先ほどまでの冷たい声ではない。考えるよりも先に出たような、切迫した声だった。
——だが、遅かった。
ラズの足元に溜まった赤黒い力から、生き物の触手のようなものが勢いよく飛び出す。腕へ絡みつき、胴を締めつけ、脚を拘束した。
「な……っ」
身体が宙へ引き上げられる。首が仰け反り、その勢いで結っていた髪が解け、青い星型の髪飾りが外れる。青い星は完全には落ちず、一房の髪へ引っかかったまま小さく揺れた。
「シオ——」
名前を呼び終えるより早く、視界が大きく歪んだ。天井と床の境目が消え、小屋の景色が捻じれる。シオンがこちらへ伸ばした手さえ、急速に遠ざかっていく。
次の瞬間、世界が反転した。




