楔
「今晩はここに泊まるぞ」
前を歩いていたシオンが唐突にそう言った。ラズは弾かれたように顔を上げる。
森の奥に、古い石造りの小屋があった。かつて神官たちが巡礼の途中で利用していた休憩所らしく、壁の大半は苔に覆われ、木製の扉も半分ほど壊れている。それでも屋根は残っており、雨風を避けて一晩を過ごすには十分そうだった。
シオンは中へ入ると、入口に近い壁際へ腰を下ろした。ラズも後に続いたが、いつものように隣へ座ることはせず、少し離れた場所を選んだ。その距離へ、シオンの視線が一瞬だけ向けられる。シオンの視線には、ラズも気づいていた。しかし、何も言えなかった。
礼拝堂を出てから、ずっと同じだった。いつもならシオンの隣を歩いていたはずなのに、今日は一歩後ろを歩き続けた。今も、手を伸ばせば届くような場所へ座ることができない。
ロイエの断末魔が、まだ耳の奥に残っていた。その声をかき消したかったが、小屋の中には沈黙が流れている。小屋の外もひどく静かで、風が木々を揺らす微かな音以外、獣や魔物の遠吠えすら聞こえなかった。
やがて、シオンが口を開いた。
「俺が怖いなら、離れればいい」
ラズが顔を上げる。シオンは彼女を見ず、壁にもたれたまま淡々と言葉を続けた。
「俺はどうせ、また復讐する相手を見つければ同じことをする。ただ殺すんじゃない。苦しませてから殺す」
その言葉で、先ほどの光景が鮮明に蘇った。白い床に広がる血。原形を失っていくロイエ。止めるように叫んでも、ロイエの身体を壊し続けたシオン。
怖くないと言えば、嘘になる。
「あんなふうに殺すのは、間違ってると思う」
ラズは膝の上に置いた記録板を抱え直し、ゆっくりと答えた。
「今も怖いよ。あなたがまた同じことをするって聞いたら、やっぱり怖い」
シオンの瞳が僅かに揺れた。
「でも、離れたいわけじゃない」
「なら、なぜ俺の後ろを歩く」
「……分からない」
それが、今のラズに言える一番正直な答えだった。
「ただ、今までみたいに何も考えず、すぐ隣に立っていいのか分からなくなった」
シオンは何も言わなかった。
ラズは記録板へ視線を落とす。
「あなたが何をされたのか、少しは知った。操られて、大切な人たちを自分の手で殺させられて、身体までそんなふうに変えられた。どうしてあなたがここまで壊れてしまったのかも、前よりは分かったつもり」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、あなたが今、自分の意思で何をしているのかも見た」
記録板を持つ指先が僅かに震えた。
ロイエを殺したときのシオンは、誰にも操られていなかった。より長く苦しませるために、自分の意思で拳を振るっていた。
「わたしは、あなたを救いたいと思ってる。でも、それがあなたのしたことを全部赦すってことなのか、罪を見なかったことにするってことなのか……まだ分からない」
シオンが忌々しそうに眉を寄せた。
「赦す必要などない」
「うん」
「救う必要もない」
「それは、わたしがそうしたいからするだけ」
「救う方法などない」
「探してみないと分からないよ」
シオンがちらりとラズを見る。ラズは目を逸らさなかった。
怖さはまだ消えていない。それでも、今ここで目を逸らしてしまえば、先ほど自分で考えたことまで嘘になるような気がした。
「あなたが救われたいと思っていないことは分かってる。だからって、あなたがどんどん壊れて、自分から死ぬ方へ進んでいくのを黙って見ていたいわけじゃない」
シオンは眉間に深い皺を刻んだまま黙り込む。拒絶の言葉が返ってくるかと思ったが、意外にも彼は何も言わなかった。
ラズは少しだけ息を吐く。
「ただ、今のわたしには分からないことが多すぎるんだと思う。あなたのことも、デウスのことも、ケイオスのことも、あなたを止める方法も、救う方法も」
そして、両手の中にある記録板を見る。
「……わたし自身のことも」
シオンもちらりと記録板へ目を向けた。
「だから、これを見る」
「自分の正体が、必ずしも知って嬉しいものとは限らないだろう」
低い声で警告するように告げる。
「それを見れば、知らなかった頃には戻れなくなるかもしれない」
「わたしには、戻れる場所なんてないよ」
ラズは悲しそうに小さく笑った。その笑い方が、一瞬だけリゼと重なったのだろう。シオンは僅かに目を細め、その顔を見続けることを避けるように視線を逸らした。ラズはそれに気づかなかったふりをした。
記録媒体へ手をかざす。以前、アルミナから持ち出した記録板へ触れた時と同じことが起きた。自分の身体の奥に、魔力とは明らかに違う何かがある。それへ意識を向けると、不思議な力が指先へ集まり、動かし方が分からないはずの記録板が反応した。
ロイエはこの記録板を神具と呼んでいたようだった。神具を動かした力。それが何なのか、ラズには分からない。ただ、今も同じものが身体の奥にある。
ラズは目を閉じ、感覚だけを頼りにその力を記録板へ流し込んだ。途端に、記録板が淡い光を放つ。ラズは僅かに息を呑んだ。やはり、自分はこれを動かせる。
やがて光が宙へ広がり、薄暗い小屋の中に過去の記録が映像となって浮かび上がった。
◇
最初に映し出されたのは、白い神殿の奥だった。
シオンが実験を受けていた施設とは違う。もっと静かで、清潔で、本来なら祈りのために使われていたのであろう場所。だが、そこに置かれているものは祈りとは程遠かった。
透明な棺のような容器。床一面に刻まれた複雑な術式。巨大な柱。そして、その周囲に並べられたいくつもの記録板。
映像の中には、デウスがいた。純白の翼を畳み、光のない黒い瞳で透明な容器を見下ろしている。その傍らには、高位神官らしき者たちが数人控えていた。
やがて、記録を読み上げる声が流れる。
「ケイオス器制御計画。被検体、シオン」
シオンの表情が僅かに強張った。
「現行の催眠術式は、被検体の憎悪の増大に伴い、出力の急激な上昇によって破断。以降、従来方式による完全な制御は困難と判断する」
あの村で起きた出来事を指しているのだと、ラズにはすぐに分かった。
「憎悪誘導そのものは成功。しかし、愛情対象の消失後、対象には著しい精神崩壊および自壊願望が生じた。現状のまま放置した場合、自死を試みる、あるいは精神崩壊の進行によって肉体の主導権をケイオスへ完全に奪われる危険性が高い」
シオンは何も言わなかった。ただ、冷たい目で記録を見つめている。
「よって、被検体の精神へ最も深く干渉可能な道具——楔を生成する」
——楔。
その言葉を聞いた瞬間、理由も分からないままラズの胸の奥がざわついた。
映像の中で、一人の高位神官がデウスへ尋ねる。
「本当に、この方法を採るのですか」
「他に手段はない」
「ですが……死者の魂を利用することになります」
「完全な魂ではない。残滓だ」
「それでも、被検体にとっては最愛の人物のものです」
デウスは僅かに沈黙し、やがて何の感情も感じさせない声で答えた。
「だからこそ、あれの心に届く。対象の精神へ最も深く根を張った人物を用いる。それが最も効率的だ」
ラズの指先が冷たくなった。
嫌な予感がする。知りたくない。そんな思いが頭を過ったが、映像は止まらない。
記録が切り替わる。そこへ映し出されたのは、一輪のツェルトリヒの花だった。シオンの記憶の中で何度も見た、リゼが好きだった花。
その傍らへ、文字が次々と浮かび上がる。
”リゼ。オラケル出身。薬師の娘。被検体シオンの幼馴染であり、最愛の人物”
”被検体の帰還願望、保護欲、罪悪感、自壊衝動、そのすべての中心に位置する”
「……」
ラズの呼吸が浅くなる。
”リゼ死亡地点より、現場に残留した魂の残滓を回収”
ラズの喉から、かひゅ、という細い音が漏れた。
隣にいるシオンも、僅かに息を呑んだ。
”被検体シオンに残された記憶を参照し、リゼの人格傾向、発話様式、表情、行動傾向を抽出。回収した魂の残滓、及び人格情報を基礎とし、デウス様の神力を核として疑似人格体を構成する”
そこで初めて聞いた言葉に、ラズは眉を寄せた。
——神力。
続く記録が、その意味を淡々と説明していく。
”神力。神の存在そのものに由来する力。人間が扱う魔力とは根本的に異なり、本来は神のみが有する。生成する疑似人格体には、核として与えられたデウス様の神力の一部を定着させる”
ラズの目が大きく見開かれた。
——神力。神だけが持つ力。
その瞬間、アルミナから持ち出した記録板を動かしたときの感覚と、つい先ほど記録板へ流し込んだ力が頭の中で繋がった。
「……これ」
ラズは自分の手を見る。
「わたしの中にあるのが……神力?」
本来、人間が持つはずのない力。それを自分はずっと身体の中に持っていた。だから神具である記録板を動かせた。何も知らなかっただけで、自分の中には最初から、人間とは異なるものが存在していた。
答えを得たはずなのに、胸の中へ落ちたものは安堵ではなかった。寧ろ、自分が何者なのかという疑問がさらに深くなる。
記録は続く。
”疑似人格体には、ケイオスによる侵食への干渉術式を組み込み、対象シオンの精神状態を安定させる楔として使用する”
ラズの身体から、少しずつ力が抜けていった。
映像の中、棺のような形をした透明な容器の中央に、小さな光が浮かんでいる。白い光。その奥へ、淡い碧色と薄紅色が溶け合っている。魂と呼ぶには弱く、ただの記憶と呼ぶには妙に温かな光。あれが、リゼの魂の残滓なのだと直感的に分かってしまった。
デウスがその光へ手をかざした。眩い力が注ぎ込まれ、床へ刻まれた術式が一斉に輝き始める。
光がゆっくりと形を変えていく。細い腕。華奢な身体。柔らかな桃色の髪。そして、閉じられた瞳を持つ、リゼと同じ顔。
ラズはそれを見ていた。見てしまった。透明な容器の中で作られている少女を。自分自身を。
「これが……わたし?」
声にならないほど小さな声だった。
シオンは何も答えなかった。だが、その呼吸が僅かに乱れたことに、ラズは気づいていた。
記録の中で、デウスが告げる。
「それは楔として用いる道具だ。現時点で固有の識別名を与える必要はない」
ラズの胸が大きく脈打った。
「被検体自身に名を与えさせろ。命名という行為を介することで、対象との心理的結合はより強固となり、楔は精神へ深く入り込みやすくなる」
ラズの脳裏へ、あの日の森が蘇った。名前も、自分が何者なのかも分からないまま目を覚ました自分。自分をリゼと呼び、それから偽物だと突き放したシオン。そして、自分は彼に頼んだ。
『わたしの名前、あなたが好きにつけて』
シオンは嫌そうな顔をしながら、それでも考えてくれた。
——ラズ。初めて得た、自分だけの音。
名前を呼ばれた時、嬉しかった。何もなかった自分の中へ、ようやく一つだけ自分のものができたような気がした。その名前をつけてもらうことすら、最初からデウスの計画に含まれていた。
”楔の基本機能。被検体シオンの精神安定。ケイオス侵食時の干渉。対象暴走時の制御補助。必要時には、デウス様による対象精神への干渉を補助する媒介として使用する”
ラズは記録板を取り落としそうになり、慌てて両手で抱え直した。
「……制御するための、道具」
喉が震える。
隣でシオンがゆっくりと立ち上がった。
映像はまだ続いている。デウスが透明な容器を見下ろしていた。その中では、後にラズと名付けられる少女が眠っている。
「貴様の憎悪は必要だ」
記録の中のデウスが言う。
「だが、その身体を完全にケイオスへ奪われては意味がない。楔を用いて精神を安定させ、シオンとして最低限の人格を維持させる。自壊を防ぎ、復讐を継続可能な状態へ留める」
シオンの拳が強く握られる。
「貴様は、この星を守るための兵器だ。異星の神を討つ力として運用する。勝手に壊れてもらっては困る」
シオンの視線は、記録の中のデウスへ釘付けになっている。握り締めた拳の指先から、赤黒い力が滲み出していた。
「シオン……」
ラズが呼びかけても、返事はない。
シオンは記録の中のデウスを睨みつけていた。いや、その奥に眠っている少女を見ていたのかもしれない。
デウスは、リゼを二度利用した。
一度目は、シオンの怒りと憎しみを引き出すために。最愛の少女をシオン自身の手で殺させ、その喪失を力へ変えるために利用した。
二度目は、その死後。残された魂の欠片まで回収し、シオンの記憶から人格や仕草を抜き出し、リゼと同じ顔を持つ存在を作り上げた。もう一度シオンを縛るために、死んだ後までリゼを支配に使った。リゼの命を死んだ後も愚弄した。
シオンの中で、抑えきれない怒りが燃え上がっていく。
その隣で、ラズの中にあった、自分自身を支えていたものが崩れ始めていた。
「わたしは……」
声が震えた。
「シオンに復讐を続けさせるために、作られたの?」
誰かに否定してほしかった。違うと言ってほしかった。けれど、誰に何を否定してほしいのか、自分でも分からない。
「リゼの残滓を使って……リゼのふりをするために……」
違う。自分はリゼではない。それだけは、出会ったときから分かっていたはずだった。
それなのに、リゼではない自分を作るための材料がリゼだった。顔も、声も、仕草も、シオンへ向かう感情さえ。どこまでがリゼから与えられたものなのか、分からなくなった。
やがて記録映像が途切れ、再び座標らしき文字を映し出したかと思えば、途端に淡い光が消えていく。古びた小屋へ、暗闇と沈黙が戻った。




