戻れない者たち
礼拝堂を出る頃には、夕暮れが近づいていた。空は赤く染まり、崩れた白い柱が長い影を地面へ落としている。
シオンは礼拝堂の外へ出ると、その場で立ち止まり、何も言わず遠くを見ていた。
大きな背中だった。ラズにとってはいつも見ているはずの背中なのに、今はひどく遠い場所にあるように思えた。
ラズは数歩離れたところで立ち止まる。シオンの隣へ行こうとして、足が止まった。今、シオンの隣に立っていいのか分からなかった。
——いや、本当は違う。立っていいかではない。自分が、今すぐ彼の隣へ立つことが怖かった。それを認めた瞬間、胸の奥が苦しくなる。
シオンの中で、あの存在が笑っているような気がした。
ロイエを殺したことで、シオンの怒りも、憎しみも、また一段と深くなった。それがケイオスの力を増幅させることを、ラズは知っている。
復讐を果たせば果たすほど、シオンはデウスを殺せる力へ近づいていく。それと同時に、その身体はケイオスを宿す器として、さらに人間から遠ざかっていく。そしてシオン自身の死へ近づく。シオン自身もそれを分かっている。それでも、止まるつもりはない。
デウスを殺す。実験に関わった人間を殺す。そして、最後には、自分自身も殺す。シオンの中ではもう、復讐の終わりが決まっている。今のラズには、それを壊す方法が分からなかった。
ラズは手の中にある記録板へ目を落とす。
まだロイエが読み上げなかった記録が残されている。その中に、自分が何者なのかを知るための何かがあることを、ラズ自身はまだ知らない。しかし、答えへ繋がるものは、既に彼女の手の中にあった。
「……行くぞ」
シオンの声に、ラズは顔を上げた。
「うん」
シオンは、一度だけラズを見た。その視線が一瞬、少し距離を開けて立っているラズの足元へ落ちたように見えた。しかし何も言わない。そのまま前を向き、歩き始める。ラズも少し遅れてその後を追った。
いつもなら、彼の隣へ行く。シオンがどれだけ冷たい言葉を投げても、偽物と呼んでも、リゼの面影を見るたびに顔を背けても、ラズはいつも隣を歩いていた。けれど、今日はそこまで行けなかった。シオンの一歩後ろで足が止まる。ほんの少し、手を伸ばせば届く程度の距離。それでも、今のラズにとってはそれが必要だった。
シオンは気づいていた。ラズがいつもの位置にいないことを。自分の隣から僅かに離れたことを。それでも、何も言わなかった。
ラズにはその理由が分からない。自分には何かを言う資格がないと思ったのかもしれない。近づけば、またラズを傷つけると考えたのかもしれない。或いは本当に、何も感じていないのかもしれない。分からなかった。それが少しだけ怖く感じられた。
森へ入る。
二人の間にはずっと沈黙が落ちていた。シオンは何も言わない。ラズも何も言えない。
夕暮れは少しずつ夜へ変わっていき、木々の間を通り抜ける風が冷たくなる。遠くで魔物の鳴き声が聞こえた。
振り返れば、先ほどまでいた礼拝堂はもう暗い影の中へ沈み始めている。そこには、デウスの罪を知る元神官だったものと、いくつもの名前が記された血に濡れた紙だけが取り残されている。
ラズは歩きながら、半歩先を行くシオンを見た。
銀白の長い髪。紫の瞳と赤い瞳。黒い衣服の下にある、人間離れした身体。それらは、生まれつき持っていたものではない。かつて、黒髪と青い瞳を持っていた少年が、デウスによって作り替えられた傷痕だ。シオンは、怪物として生まれたのではない。怪物へ作り替えられた。
あの村で起きた惨劇も、シオンが望んだことではなかった。身体を奪われ、大切な人々を自分の拳で殺させられた。そのことは分かっている。忘れてはいけないとも思う。
しかし、ロイエを惨殺したのは、今のシオンだった。操られてはいなかった。自分で選び、拳を振るった。
ラズの脳裏に、ロイエの絶叫が蘇る。肉が引き裂かれる音。頭部が床へ何度も叩きつけられる音。赤く濡れたシオンの全身。そして、殺す必要があったのかと問うた自分を見下ろした、あの冷たい瞳。
身体が小さく震える。やっぱり怖い。今すぐ隣へ行き、何事もなかったように話すことなどできない。それでも、ラズは歩くのをやめなかった。
被害者としてのシオン。加害者としてのシオン。どちらか一方だけを見ていられれば、きっと楽だった。可哀想な人だと思えば、彼が今犯している罪から目を逸らせる。恐ろしい怪物だと思えば、彼がここまで壊された理由を考えなくて済む。
でも、それでは駄目なのだとラズは思った。シオンの近くにいるのなら、両方を見なければならない。どれほど苦しくても、どれほど怖くても。彼がされたことも、彼がしていることも、そのどちらからも目を逸らしてはいけない。それでも、今すぐすべてを受け入れられるわけではなかった。赦せないものは赦せない。怖いものは怖い。
だから今日は、一歩だけ後ろを歩く。それでも、見捨てるために離れたわけではない。そのことを、ラズ自身はまだ上手く言葉にできなかった。
ラズは記録媒体を抱え直す。
自分自身についても、知らなければならないことがある。なぜ自分はリゼと同じ顔と声をしているのか。なぜシオンの精神へ入ることができたのか。なぜ。記録板を起動できたのか。そして、自分は本当は何なのか。答えはきっと、この中にある。
しかし、知るのが怖かった。理由は分からない。ただ、この記録にある答えが、自分を幸福にするものではないような気がした。そんな予感だけが、胸の奥へ重く沈んでいた。
それでも、シオンもラズも歩いている。そんな二人の間には、これまでなかった僅かな距離が生まれた。ほんの一歩。しかし、今の二人にとっては必要で、とても大きな一歩だった。
この旅はもう、何も知らなかった頃へは戻れないところまで進んでしまっていた。
ここまでが第四章のようなポジションとなります。
シオンの過去、そして惨劇に関わった者と対峙したシオンが選んでしまう決断を描いた章でした。かなり残酷な描写が多かったですが、それと同時にシオンの核心に触れる章でもあります。
次回から、クライマックスに向けて色々と動き始めます。引き続きお付き合いください!
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