被害者と加害者
「シオン!」
ラズが必死に叫ぶ。しかし、その声は届かなかった。
シオンの拳がロイエの身体へ叩き込まれる。ロイエの身体は大きく吹き飛び、壁へ深くめり込んだ。
一撃で終わらせることもできた。シオンなら、人間の身体など軽く触れるだけで簡単に壊せる。まして、目の前のロイエは抵抗する力すらほとんど残していない。
それでも、シオンは殺さなかった。少なくとも、すぐには。
壁に埋まったロイエの腕を掴み、引き千切る。絶叫が荒れ果てた礼拝堂に響き渡り、その声が途切れないうちに、今度はもう片方の腕へ手をかける。一本。また一本。ロイエから手足が失われていくたび、白い床へ血が広がっていく。
シオンは怒鳴らない。何かを問い質すこともしない。ただ、ひどく冷たい顔で、淡々とロイエを壊していく。
自分が見せつけられた地獄を。父や母やリゼたちが、死の瞬間に感じたに違いないとシオン自身が信じ込んでいる恐怖と苦痛を。ほんの一欠片でも返すように、少しでも長く味わわせるように。
四肢を失ったロイエの腹を、シオンの腕が貫く。ロイエの背中からシオンの腕が突き出た。そして、シオンは腕をロイエの腹から引き抜く。引き抜かれたシオンの手には、血に濡れて赤黒く染まった臓器のようなものが握られていた。内臓を引き抜かれたロイエが、潰れかけた喉から掠れた悲鳴を漏らした。
それでもシオンは手を止めない。苦痛に身を捩るその姿を見下ろし、今度は顎の下から拳を突き入れる。拳は頭蓋を貫き、脳へと到達する。ロイエの脳から、グチャという嫌な音がした。しかし、もうロイエにまともな声を出す力はなかった。身体が小刻みに痙攣する。
それでも、シオンは終わらせない。
「……やめて」
ラズの声が漏れた。止めなければならない。頭では分かっていた。けれど、足が動かなかった。
血の匂いがする。肉の潰れる嫌な音が耳へ残る。目を逸らしたかった。耳を塞ぎたかった。それでも、シオンから目を離してはいけないような気がして、ラズはその場から動くことができなかった。
アルミナで過去を知ってから、ラズはシオンを被害者として見ていた。実験台へ縛りつけられ、身体へケイオスを埋め込まれ、人間ではないものへと作り替えられた少年。自分の意思を奪われ、操られ、その手で家族も、恋人も、故郷も失わされた少年。だからこそ、シオンがこれほど壊れてしまったことにも理由があるのだと思っていた。
しかし。今、目の前でロイエを殺しているシオンは、誰にも操られていない。拳を振るっているのはシオン自身だ。もう抵抗できない人間を前に、一撃で終わらせることをせず、少しでも長く苦しませるために、自分の意思で身体を壊し続けている。
その事実を理解した瞬間、ラズの胸の奥に冷たいものが落ちた。
——怖い。強く、そう思った。
シオンの心の中で、ケイオスが心底愉しそうに笑っている。
『そうだ。その憎しみだ。もっと、もっと濃くなれ』
シオンは何も答えない。
既にほとんど原形を失っているロイエの頭部を掴み、そのまま床へ叩きつける。一度。もう一度。さらにもう一度。白い床が割れ、砕けた石と赤い飛沫が周囲へ散った。
「……シオン」
ラズは震える息を吐き、ようやく声を絞り出した。しかし、返事はない。
シオンはロイエの頭を床に叩きつけ続けている。壊れた魔導具のように、その動きだけをずっと反復し続けていた。ロイエの首から下はだらんと力を失っており、僅かにも動く気配はない。ただ、頭部が振り上げられ、床に叩きつけられるたびに、頭部に付随して身体も揺れているだけだ。
「もう、その人は……死んでるよ」
そこで初めてシオンの手が止まった。
シオンの獣のような荒い呼吸だけが、静まり返った礼拝堂に響く。
シオンは、ロイエだったものを数秒見下ろした後、興味を失ったように乱雑にそれを投げ捨てた。重い音を立てて、肉塊が床へ落ちる。
ラズは反射的に目を伏せた。吐き気が込み上げる。けれど、それ以上に胸を締めつけたのは、死体の酷さではなく、その隣に立っているシオンだった。
血に濡れた拳。荒い呼吸。冷えきった紫と赤の瞳。あれほど過去の中で苦しんでいた少年と、今ここにいる全身を真っ赤に染め上げた男が、どうしても一つに重ならない。けれど、どちらもシオンなのだ。
「……殺す必要が、あったの?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
シオンは答えない。ラズは震える手を握り締め、続けた。
「ロイエが罪を犯したことは分かってる。実験に関わって、それを記録して……逃げて、今になって罪を告白した。自分だけ助かろうとしていたところだって、あったと思う」
先ほど聞いたロイエの言葉を思い出す。赦せるとは思わなかった。彼がしたことを、仕方がなかったという一言で終わらせるつもりもない。
「でも……最後には、真実と向き合おうとしてた。自分がしたことを話そうとしてたよ」
ラズは床に転がる記録の束へ視線を落とした。
「それでも、あんな風に殺さなきゃいけなかったの?」
シオンが、ゆっくりと振り返った。その目に射抜かれた瞬間、ラズの呼吸が止まる。怒っているようには見えなかった。——寧ろ逆だった。
あまりにも冷たい。人間を惨殺した直後とは思えないほど、静かだった。
「必要?」
シオンが低い声で呟く。あまりの威圧感に気圧され、ラズは何も答えられなかった。
「復讐に、必要も不要もないだろう」
まるで当然のことを説明するような声だった。
ラズは、震えながら声を絞り出す。
「それでも……あんな殺し方をすることはなかったんじゃないの」
シオンの表情は変わらない。
「リゼたちの死に関わった者は、全員殺す」
淡々と告げる。
「実験に携わった者も、記録した者も、惨劇を見ていた者もだ。ただ殺すだけじゃない。あいつらが受けた苦痛を返してから殺す」
「シオン……」
「あいつらは、何が起こったのかも分からないまま、一方的に奪われた」
ラズの声を遮るように、シオンは続けた。
「最後の言葉すら残せなかった。俺を恨む時間も、罵る時間もなかった。抱き上げて墓に入れてやるための身体すら、俺は残せなかった」
声は平坦だった。それなのに、ラズには、その声の奥で何かが今も血を流し続けているように聞こえた。
「あいつらを殺した俺が、まだ生きている」
シオンが自分の胸へ手を置く。
「元凶であるデウスも生きている。実験に関わった奴らも、この世界のどこかで普通に飯を食って、眠って、生きている」
拳がゆっくりと握られる。
「あいつらにとって、それがどれだけ苦しいと思う」
——違う。ラズはそう思った。
しかし、口を開くより先に、シオンは続ける。
「あいつらは今も苦しんでる」
「……」
「ずっと俺に訴え続けている。早くデウスを殺せと。あの惨劇に関わった奴らを全員殺せと」
シオンの声が、ほんの少し低くなった。
「それが終わったら、お前も死ねと」
先ほどまで感じていた恐怖とは違う寒気が、ラズの背中を伝う。
シオンは信じている。——いや。信じたがっている。死者たちが復讐を望んでいるのだと。そうでなければ、復讐の理由が揺らぐから。復讐のためにすべてを捧げられないから。だから、死者の願いを理由にロイエを苦しめ、惨殺した。ラズにはそう思えた。
しかし、それが本当に死者の願いなのかどうかなど、誰にも分からない。父も、母も、リゼも、村人だって、もう何も言えないのだから。
それに、シオンが聞いている死者の声が本物の死者の声ではないことは、シオン自身も分かっているはずだった。だからこそ、ラズは言わずにはいられなかった。
「……それが本物の死者の声じゃないって、シオンも分かっているんでしょう?」
シオンの瞳が僅かに動いた。
「何が言いたい」
声の温度が、一段下がる。
——怖かった。それでもラズは、引かなかった。
「だったら、それを死者たちの願いみたいに言って、他の人を苦しめていい理由にするのは違うんじゃないの?」
「黙れ」
ラズは胸元で手を握る。
「リゼたちがロイエをあんなふうに殺してほしかったって、どうしてシオンが決められるの?」
「黙れ!!」
怒声が礼拝堂を震わせた。シオンの身体から赤黒い力が一瞬だけ漏れ出し、ラズの頬を掠めた。
ラズの肩が大きく跳ね、反射的に一歩退いた。その瞬間、自分がシオンから逃げるように距離を取ったことに、ラズ自身が気づいた。胸が痛んだ。けれど、戻れなかった。今のシオンへ近づくことが怖かった。
「これは俺の復讐だ。お前に口を出される筋合いはない」
シオンの声には、明確な怒りがあった。
ラズは唇を噛んだ。
これまで一緒に旅をしてきた中で、今ほど強く、シオンを怖いと思ったことはなかった。
素手で魔物を殺す姿を見た時も、魔物を食べると聞いた時も、人を食べるかもしれないと口にした時も、眠れないと聞いた時も、服の下にある身体を見た時も、恐ろしいとは感じた。しかし、彼がそのような身体になったのは、本人が選んだことではなかった。
アルミナで実験体を殺したシオンを見た時も、恐ろしくなかったわけではない。だが、あれは終わらせるためだった。実験体は苦しみ続けていた。他に方法があったのかは、今でも分からない。正しいことだったと簡単に言うつもりもない。それでも、シオンが苦しませることを目的に殺したわけではなかった。
神官や聖騎士を殺したときもそうだった。彼らはシオンへ魔法を向けた。武器を向けた。明確な敵意があり、シオンを捕獲、或いは殺害しようとしていた。命の奪い合いになった。そして、シオンは戦意を失い、逃げていく者まで追いかけて殺すことはしなかった。だから、心のどこかでラズはシオンの中に線を引いていた。この人は、必要以上には殺さない。人間から離れた力を持っていても、冷たい言葉を吐いても、その線だけは越えないのだと。
しかし今、その線をシオン自身が踏み越えた。
ロイエは赦されないことをした。実験へ関わり、記録し、逃げた。罪を告白しながらも、どこかで自分だけは生きようとしていた。ラズだって、シオンの立場なら赦すことなどできなかっただろう。それでも、敵意を失い抵抗する力もない人間を、より長く苦しませるためだけに、少しずつ壊した。その行為まで正しいとは、どうしても思えなかった。
ラズは震える手を、自分の胸元へ押しつける。
怖い。シオンが怖い。しかし、それと同時に、さっき彼が口にした言葉が耳から離れない。
——最後の言葉すら残させなかった。墓に入れる身体すら残せなかった。
その声は、今もずっと、あの夜に取り残されている少年の声でもあった。そこまで思うと、今度は胸が痛んだ。
——どうしたらいいの。
分からなかった。怖いから離れたい。でも、ここで離れたら、シオンは本当に一人になる。そう思う自分がいる。しかし、だからといって、今見たものをなかったことにもできない。
彼は被害者だ。それは変わらない。デウスによって、何もかもを奪われた。操られて、大切な人間を自分の手で殺させられた。けれど同時に、今のシオンは自分の意思で人を殺した。復讐のために、苦しませるために、加害者になった。
どちらか一方だけならきっと、簡単だった。可哀想な被害者なのだと思えば、今の行為を見ないふりができる。恐ろしい怪物なのだと思えば、過去に受けた痛みを切り捨てられる。でも、目の前にいる人間は、その両方だった。
ラズは、そのどちらからも目を逸らしたくなかった。怖い。赦せない。それでも、見捨てられない。矛盾した感情が胸の中でぶつかり合い、どれを選べばいいのか分からなくなる。
結局、ラズにできたのは、その場に立ち続けることだけだった。
しばらくして、ラズは床へ落ちていた記録の束に気づいた。ロイエが、彼女へ渡そうとしていたものだった。血で汚れたそれへ手を伸ばす。指先が震えている。うまく掴めず、一度落としかけた。
シオンは、その様子を黙って見ていた。
「どうするつもりだ」
ラズは記録の束を拾い上げ、胸へ抱えた。
「持っていく」
小さな声だった。
「まだ、知らなきゃいけないことがあるから」
「何をだ」
ラズは少し迷い、それでも答えた。
「……わたしが、何なのか」
シオンが僅かに眉を寄せる。
「お前が何なのか?」
「うん」
ラズは胸の奥へ手を当てた。
アルミナで、自分はシオンの精神の中へ入った。魔導具ではない記録板を、自分の中にある謎の力によって動かした。そして、先ほどロイエの記録板に触れた瞬間も、身体の奥で何かが反応した。記録の中に残る力と、自分の中にある何かが、僅かに呼応した。偶然とは思えなかった。
「わたしは、たぶん普通じゃない」
ラズはシオンを見る。
「あなたも、そう思ってるでしょう」
シオンは答えなかった。けれど、その沈黙だけで十分だった。
ラズは記録媒体を抱く手へ、少しだけ力を込める。
「だから、知る」
自分が誰なのか。どうしてリゼと同じ顔をしているのか。なぜ何も覚えていないのか。何が自分の中にあるのか。怖くても、知るしかない。
シオンはしばらくラズを見ていたが、やがて何も言わずに背を向けた。
血に染まった祭壇。白い床。ロイエだったもの。それらを残し、礼拝堂の出口へ歩いていく。
「好きにしろ」
ラズは、その背中を見つめる。
「……うん。好きにする」
ほんの少しだけ間を置いてそう答えた。




