消えない罪
シオンの瞼が開かれた。紫と赤。左右で色の違う瞳が、廃れた礼拝堂の薄暗がりを映す。
つい今しがたまで、彼の意識は過去の中に沈んでいた。
赤い夜。勝手に動く身体。届かない叫び。父の声。母の声。リゼの声。そして、故郷が壊れていく音。そのすべてが、瞼の裏にまだ焼きついている。
だが、目の前にあるのは過去ではない。ひび割れた白い床。崩れかけた祭壇。散らばった紙束。そして、震えながら立つ元神官の男・ロイエ。
ロイエは、シオンの故郷で起きた惨劇について語っていた。
「デウス様は、おまえに一生消えない憎悪と、激しい怒りを刻み込もうとした」
ロイエの声は掠れていた。語るたびに、自分の罪を自分の口で数え直しているようだった。
「そのために、おまえが大切にしていたものを利用した。両親。リゼという少女。故郷の村人。帰る場所。そのすべてを、おまえ自身の手で壊させた」
ラズの身体が強張る。
アルミナの地下施設で見た記憶。夜の村。勝手に動くシオンの身体。デウスの声。廊下に現れた誰か。そして、リゼの声。そこまでは、ラズも見ていた。
だが、シオンが殺したのは、両親とリゼだけだと思っていた。シオン自身が、その三人の名しか口にしなかったからだ。父を殺した。母を殺した。リゼを殺した。何度もそう言っていたから。
しかし、違った。ロイエの口から語られる真実は、ラズが想像していたものより遥かに重かった。
「おまえの脳に刻んだ術式で身体を支配し、ケイオスの力を引き出した」
ロイエは震えながら続ける。
「おまえは操られたまま、村そのものを壊した。そこにいた者たちの命を、一撃で奪った」
ラズは声を出せなかった。
村人全員。故郷そのもの。帰る場所。シオンが背負っていた罪は、彼が口にしていた三人分だけではなかった。名前を知っている者もいただろう。顔だけを知っている者もいただろう。ほとんど関わりのなかった者もいたかもしれない。それでも、同じ村に生きていた人々だった。シオンにとって、それはただの数ではなかったはずだ。
ラズはようやく理解する。シオンがこの事を語らなかったのは、忘れていたからではない。言葉にすれば、あまりにも重すぎるからだ。父と母とリゼ。その三人の名を口にするだけで、彼は自分を保つのが精一杯だったのだ。村人全員の死まで並べれば、シオンという人間はその場で潰れてしまいそうになる。
それでも彼は、忘れてなどいなかった。一秒たりとも。
ロイエは紙束を広げた。そこには、淡々とした文字が並んでいる。まるで、人の死をただの現象として記録したような文章だった。
”被験体の一撃を受けた者の遺体は、凄まじい破壊力により原形を保てず。回収困難”
”村内建築物にも広範囲に激しい破損を確認”
”被験体の愛情対象を殺害時、自己嫌悪、拒絶反応、怒り、術式負荷の複合により、出力が急激に増大”
”ケイオスの出力の過剰増幅により、催眠術式が内側から破断。以後、被験体は制御不能”
ラズは目の前が真っ暗になるような感覚に襲われ、文字を追えなくなった。
——愛情対象。その言葉が胸に刺さった。きっとリゼのことだ。
シオンにとって大切だった少女。名前を呼ばれるだけで、彼が今も傷口を抉られるほどの存在。かつては、その声だけでシオンの心を温めていたはずの人。それを記録は、ただの“愛情対象”と呼んでいた。
力を増幅させるための引き金。実験の条件。観察対象。そこには、リゼという少女の人生も、シオンの感情も、何一つ存在していなかった。かつて人々を救ったはずのデウスと、その配下である神官たちは、人の心さえ道具として扱っていた。
「催眠によって操られていたことで、おまえの憎悪はデウス様へ向かう」
ロイエは、苦しげに言った。
「同時に、直接手をかけたおまえ自身へも向かう」
シオンは黙ったままだ。その沈黙が、ひどく不気味に感じられた。
「行き場を失った怒りと自己嫌悪は、ケイオスの力を引き出す最高の苗床になる」
ロイエの唇が震えた。
「……デウス様は、そう考えていたようだった」
ラズは唇を噛む。
シオンの怒りは、復讐は、ケイオスに利用されているだけではなかった。
デウスにも、最初から利用されていた。復讐するように作られた。憎むように壊された。自分自身を赦せなくなるように設計された。シオンが自分を責め続けていることさえ、デウスの計画の一部だった。その事実に、ラズは吐き気を覚える。
だが、シオンはただ静かだった。静かすぎた。あまりにも静かで、ラズは却って怖くなる。彼の中で怒りが消えたわけではない。燃えすぎた怒りが、音を失っているだけだ。
「俺の故郷は」
シオンが口を開いた。声は低く、平坦だった。
「あの村は」
一度、言葉を切る。
「俺を怪物にするための装置だったというわけか」
ラズは息を呑む。
ロイエは顔を伏せ、震えながら頷いた。
「ああ……そうだ」
その肯定は、ひどく弱々しかった。だが、弱々しいからといって、罪が薄まるわけではない。
「デウス様は、あの村を丸ごと利用して、おまえという兵器を作ろうとした」
沈黙が落ちる。壊れた天井から差し込む光の中を、埃が漂っていた。
その静けさの中で、シオンが一歩前へ出た。
「——それでお前は」
ロイエの肩が跳ねる。
シオンの視線が、鋭くロイエを射抜く。
「そのおぞましい計画を知って」
また一歩。
「あいつらが俺に殺されていく様を見て」
さらに一歩。
「どうしたんだ」
その瞬間、これまでシオンの内側に押し込められていた怒りが、明確にロイエへ向いた。
ラズにも分かった。空気の温度が変わった事は。これは、怒鳴る前触れではない。泣き崩れる前触れでもない。——シオンが人を殺す時の静けさだった。
ロイエも本能で悟ったのだろう。シオンはまだ拳を構えてすらいない。それでも、自分は殺される。その確信が、痩せこけた老人の顔から血の気を奪った。
「私は……止めようとした」
ロイエは震える声で言った。その言葉に、シオンの瞳が僅かに動く。
ロイエはその反応を、希望と取り違えたのかもしれない。あるいは、恐怖で言葉の選び方を誤ったのかもしれない。自分の命を守りたい一心で、彼は決して口にしてはならない弁明を重ねてしまう。
「本当だ。あの計画はあまりにも非道だった。私は何度も進言した」
ロイエの言葉が速くなる。
「だが、デウス様には逆らえなかった。神の命令だったのだ。星を守るためだった。私もまた、従うしかなかった」
ラズは胸の奥が冷えるのを感じた。
その言葉は、シオンには届かない。届くはずがない。なぜなら、シオン自身がその言い訳を自分に赦していないからだ。操られていた。命令された。抗えなかった。それでも、シオンは自分を赦していない。ならば、同じように「従うしかなかった」と言うロイエを、どうして赦せるだろう。
「私はその罪に耐えきれず、こうして罪を告白し、真実を語った」
ロイエは必死に続ける。しかし、その弁明は最早、悪手以外の何物でもない。
「止めようとすらしなかった神官も大勢いた。だから、私だけを責めるのは間違いだ。私だけが悪いわけでは——」
シオンが一歩、ロイエに近づいた。ロイエの言葉が止まる。
ラズは喉の奥で息を詰めた。
シオンの周囲の空気が、冷えていく。凍てつくように。同時に、どす黒く濁っていく。
「私は止めようとした」
ロイエが、尚も言う。
「あの実験には反対だった。本当だ」
「止めようとした?」
シオンが繰り返す。その声には、不気味なほど感情が乗っていなかった。
「ああ、止めようとした。罪を告白しようと思った。真実を語ろうと思った。だから——」
「だから、何だ」
短い問いだった。だが、ロイエの顔が引き攣った。
ラズは思わず声を上げる。
「シオン」
シオンの瞳は、ラズを捉えなかった。ただロイエだけを見ている。怒りと憎悪で塗り潰された、暗い瞳で。
「止めようとした。だが、結局止めなかったんだろう」
言葉を失ったロイエに、シオンが一歩近づく。
「お前は実験を止めずに、何をしていた?」
さらに一歩。
「ただ見ていただけか」
また一歩。
「俺が父さんを殺すところを」
ロイエが後ずさる。
「母さんを殺すところを」
その背後には、白い壁があった。
「リゼを殺すところを」
ロイエの背が壁に当たる。もうこれ以上は後退できない。
「私は……ただの記録係で……」
「村が壊れていくところを、お前はただ記録していただけか」
シオンは目前まで迫る。
「楽しかったか」
声が低く落ちる。
「俺が怪物に変わり、家族を殺し、リゼを殺し、故郷を壊し尽くす様を書き留めるのは」
ロイエは首を横に振った。恐怖で涙が滲んでいる。
「違う。私は……償おうと……」
「誰にだ」
シオンの靴が、床に落ちていた紙を踏む。そこに書かれていた名前が、泥と埃に擦れて歪んだ。
「死んだ奴らにか」
シオンがまた一歩近づく。もう二人の間の距離はほとんどない。
「それとも、償うふりをして、自分が満足したかっただけか」
赤い左目が、妖しく光った。
ロイエの唇が震える。
「私は……殺していない」
シオンの目が細められた。
——その言葉だけは、決して言ってはならなかった。ラズはそう思った。しかし、もう遅い。シオンの中で、何かが決定的に切れた音がした気がした。
「俺もそう言えば良かったのか」
ロイエの表情が凍りつく。
「俺は操られていた。命令された。デウスが決めた。仕方なかった」
淡々と、一つずつロイエの言葉をなぞる。
「そう言えば、俺が殺したことは消えるのか」
ロイエは答えられない。
シオンは、完全に自分の間合いへ入っていた。指先一つ動かせば、老人の命など容易く終わる距離だった。
「頼む」
ロイエが崩れるように膝をついた。
「赦してくれ」
シオンは、怒りと憎しみに塗り潰された瞳で見下ろす。
「俺に言うな」
低い声だった。
「赦しを乞う相手なら、もういない」
シオンの左胸の奥が、ドクンと脈打った。赤黒い力が指先から漏れ出す。ひび割れのような光が、黒い袖の下を這い上がり、腕全体へ広がっていく。
礼拝堂の床に落ちた紙が、見えない圧力に押されて震えた。
胸の奥で、ケイオスが笑う。
『そうだ』
甘く、歪んだ声だった。
『憎いだろう、其奴が』
シオンは動かない。だが、赤い左目が不気味に燃え上がっていく。
『貴様が地獄を見せられていた時、其奴は記録していた』
ケイオスが囁く。
床に散らばった紙が、赤黒い力に煽られてめくれる。
『貴様の絶望も、死者の苦痛も、人が壊れていく様も、すべてただの文字にしていた』
シオンの拳が、ゆっくりと握られる。
『殺せ』
ケイオスの声がさらに低く沈み、甘さを増していく。
『あの日の惨劇に関わった者を、一人残らず殺すのだろう? 苦しめ、痛めつけ、絶望と恐怖の底に叩き落とすのだろう?』
そうだ。それだけが、自分にとっての生きる意味であり、この命の価値だ。
『死者もそれを望んでいる。違うか?』
ケイオスは、嘲笑うように囁き続ける。しかし、その囁きはシオンの核心を突いたものだった。数年にわたってシオンに巣食っているケイオスは、最早誰よりも彼の感情を理解している。
ラズはシオンの隣へ踏み出した。怖かった。今のシオンへ近づくことが。赤黒い力に触れてしまうことが。
それでも、足を止めなかった。
「シオン、やめて」
シオンはラズを見ない。
拳に赤黒い力が集まっていく。
「この人を殺しても、あなたは救われない」
ラズは必死に言葉を探した。届くかどうかは分からない。けれど、言わなければならないと思った。
「この人は罪を告白して、真実と向き合おうとしていた」
シオンは、ラズを見ないまま口を開いた。
「救われるために殺すんじゃない」
ひどく冷たい声に、ラズは息を止める。
「真実と向き合おうが、関係ない」
シオンはロイエだけを見下ろしている。
「あいつらを殺した側の人間が、のうのうと生きていることが間違いなんだ」
ラズは何も言えなくなる。
シオンは、理屈でロイエを殺そうとしているのではない。復讐の正当性を証明したいわけでもない。ただ、赦せない。その一点だけで立っている。そして、その感情をラズは否定しきれなかった。
ロイエがしたことは消えない。止められなかったのではなく、止めなかった。記録し、隠し、逃げ、今になって赦しを乞うている。
——それでも。それでも殺していいのか。ラズには答えが出せなかった。
ロイエは恐怖で床に崩れ落ちる。
「待ってくれ」
震える手で、紙束と記録板を差し出した。
「私が持っているものはすべて渡す。記録も、隠し持っていた神具も、デウス様の居場所に関する情報も」
その視線が、シオンではなくラズへ向く。
彼女なら止めてくれる。彼女なら話が通じる。そう思ったのだろう。必死で記録の束を差し出す。
受け取るべきか、ラズは手を伸ばせないまま逡巡していた。
「だから、殺さないでくれ」
ロイエの声は、もはや懺悔ではなかった。命乞いだった。
「頼む。私はもう十分苦しんだ」
涙で濡れた顔が歪む。
「罪を背負って生きてきた。毎晩、犠牲者の名前を書いた。彼らを忘れないようにした」
シオンはそれを黙って聞いていた。動かない。呼吸の音すらほとんど聞こえない。
「だから——」
「そうか」
シオンが短く呟いた。
ロイエが顔を上げる。その目に、一瞬だけ希望が浮かんだ。だが、彼が見たシオンの瞳は恐ろしいほど冷えきっていた。冷たい底で、激しい怒りだけが燃えている。
シオンは一歩踏み出す。赤黒い力がシオンの周囲を取り囲んだ。
「——死ね」




