過去編─帰らぬ者
村を出る前に、シオンは皆の墓を作ろうとした。しかし、まともに埋められる遺体はほとんど残っていなかった。自分が残せなかったからだ。それでも、何も作らずここを去ることだけはできなかった。
村の外れに、大きな岩があった。大人が数人がかりでも動かすことなどできないほどの岩だった。シオンは、それを軽々と持ち上げた。以前の自分なら考えることすらできなかったが、今の身体ならできた。重さすらほとんど感じない。
太くなった腕。張り出した肩。昨日までとは、明らかに違う身体。それでも、シオンは自分の腕を一瞥しただけだった。
どうでもいい。どれほど強くなろうと、どれほど人間から遠ざかろうと、もう失うものは何もない。既にすべてを失ったのだから。
シオンは巨大な岩を抱えたまま、あの日リゼと訪れた丘へ向かった。丘の頂上へ岩を置く。そして、指で名前を刻んでいった。
岩の表面が、指先だけで簡単に削れていく。父の名。母の名。リゼの名。一人、また一人。覚えている村人たちの名を刻んでいく。
しかし、途中で手が止まった。顔は思い出せる。声も覚えている。けれど、名前が出てこない者がいた。
「……」
シオンは、その場所へ一つ印を刻んだ。次も、名前が出てこなければ印を刻んだ。
忘れたくて忘れたわけではない。けれど、知らないまま、関わらないまま、殺した人間もいる。その一人ひとりに名前があった。家族があった。人生があった。それを自分は、知らないまま消し去ってしまった。
すべてを刻み終え、シオンは最後に自分の名前を刻もうとした。指を岩へ当てる。最初の一文字を刻みかけて、手が止まった。
「……」
まだ死んでいない。自分の名を、死者の側へ置くことはできない。
それに、そもそもここに自分の名前を並べる資格があるのか。彼らは殺された側だ。自分は奪った側だ。同じ墓標に名を刻むなど、許されるはずがない。
シオンは、刻みかけた線を手で抉り取り、自分の名だけを跡形もなく消した。
シオンという人間はもう、ここにはいない。昨日まで、この村に帰ることを願っていた少年。リゼに会いたかった少年。父と母の元へ帰りたかった少年。それはもう、死んだ。
ここにいるのは、村を滅ぼし、神殺しのために生きる怪物だけだった。
大きな墓の前でシオンは、長い間立ち尽くしていた。
丘にはツェルトリヒの花が咲いている。風に揺れる、白くて小さな花。リゼが好きだった花だった。
『この花は、とても優しい花だから』
いつか、リゼが言っていた。
『見ていると、とても優しい気持ちになれるの』
あのとき自分は、何と答えただろう。思い出せなかった。思い出そうとすることすら苦しかった。
シオンは花を見る。けれど、何も感じない。綺麗だとも、優しいとも思えない。
この世界は、ただ空っぽだった。父がいない。母がいない。リゼがいない。帰る場所がない。それだけで、世界の色が全部なくなったように思えた。
自分はもう二度と、優しい気持ちなど抱くことはないのだろう。いや、抱いてはいけない。そう思った。笑うことも、安心することも、誰かを愛することも許されない。自分には、その資格がない。
シオンは、懐へ手を入れた。血で汚れた革の包みを取り出す。中には押し花が入っている。いつか、リゼからもらった花。帰ってくると約束した。守ると心の中で誓った。
それを、シオンは墓標の前へ置いた。
「……約束、守れなかった」
声はひどく掠れている。
風が吹いた。ツェルトリヒの花が揺れる。
「帰ってきたのに……お前を、守れなかった」
唇が震える。
返事はない。当然だった。
「もう、待っていなくていい」
誰に向けた言葉なのか、シオン自身にも分からなかった。リゼへなのか。父と母へなのか。それとも、帰ってくると信じていた、昨日までの自分へなのか。
シオンは墓標を見る。
「俺はもう、帰れない」
そして、足元の押し花へ視線を落とした。
「……これは、返す」
小さく息を吐く。
「この花が、好きだっただろ」
シオンはしばらくそこに立っていた。
やがて、墓へ背を向けた。数歩歩いた後、立ち止まった。振り返らないまま口を開く。
「お前たちを殺した奴らは、必ず俺が殺す」
低い声だった。
拳を握る。爪が手のひらに食い込むが、血は出ない。
「お前たちが受けた痛みを」
一人一人、殺した者の顔を思い浮かべる。
「苦しみを、恐怖を、絶望を」
父の顔。母の顔。リゼの顔。村のみんなの顔。
「全部刻みつけてから、殺す」
胸の奥で、何かが愉しそうに笑った。
シオンは構わず続ける。
「俺も……お前たちを殺した俺も」
ほんの一瞬、声が震えた。拳をさらに強く握る。
「最後に、必ず殺す」
——だから、安心してくれ。
そう言いかけて、シオンは口を閉じた。何を勝手なことを言っているのだと思った。
安心してくれ? 自分が彼らへそんな言葉を口にする資格など、あるはずがない。
だから代わりにただ、
「……必ずだ」
それだけを呟いた。
そして、シオンは歩き出した。もう振り返ることはなかった。
この瞬間から、シオンはオラケルで暮らすただの村の少年ではなくなった。
神を信じていた少年でもない。リゼと笑っていた少年でも、両親に愛されていた息子でも、いつかこの村へ帰ってくるはずだった人間でもない。その少年は、あの夜にこの村と一緒に死んだ。
残ったのは、神を殺すための身体。復讐を果たすための命。そして最後には、自分自身を終わらせるための存在だけだった。
胸の奥で、あの声が愉しそうに笑っている。シオンはもう、その声へ怯えなかった。
ただ歩いた。デウスを殺すために。実験に関わった者たちを殺すために。そして、最後に自分自身を殺すために。
帰る場所を失った少年は、復讐だけを行き先にして歩き始めた。




