過去編─生きる意味
朝が来るまで、シオンは動けなかった。
村は壊滅していた。生き残った者はいない。自分が家々を壊した。逃げる者を追った。異変に気づかず家の中にいた者まで、壁ごと破壊して殺した。だからもう、誰もいない。
シオンは、リゼが消えた場所に膝をついたまま座り込んでいた。
夜が明けていく。黒かった空が白み始める。山の向こうから朝日が昇り、焼け焦げた村を無理やり明るく照らしていく。
しかし、シオンの瞳はそれらを映してなどいなかった。
目の前にあるのは、リゼがいた場所だけだった。抱きしめる身体すら残っていない。手を握ることもできない。顔に触れることもできない。謝る相手の形さえ、もう残っていなかった。
それが、何よりもシオンの心を蝕んだ。
自分はリゼを殺した。なのに、彼女を抱きしめて謝ることすらできない。最後の顔を見つめ、忘れないように覚えておくことすらできない。墓に入れる身体すら残せなかった。
父も、母も、同じだった。村のみんなも。みんな、自分が壊した。人だった形さえ残らないほどに。
「……」
何度名前を呼ぼうとしたか分からない。しかし、呼んだところで返事はない。それが分かっているが故に、シオンの口からは結局何の言葉も出なかった。
ただ、朝日が完全に昇りきるまで、シオンはそこに座り続けた。
やがて、何もない空間が僅かに歪んだ。そこから、白い法衣を纏った神官たちが、次々と姿を現した。
シオンは顔を上げなかった。
神官たちは村の惨状を見回した。しかし、誰一人として悲鳴を上げなかった。驚きもしなかった。顔を青ざめさせる者すらいない。ただ淡々と、焼けた家を、飛び散った血を、肉片を、そしてリゼが消えた場所に座り込んでいるシオンを観察した。
その様子を見て、シオンの頭の奥で、何かが静かに軋んだ。
覚えがあった。実験場で魔物を殺したときも、彼らは同じ顔をしていた。自分が魔物を砕くたびに、何かを書き留めていた。今も同じだった。
「出力は想定以上」
一人が言った。
「村人は全員死亡。ほぼすべて、一撃での殺害だと思われる」
「人体が出力に耐えきれず、原形を維持できなかったようだ」
「憎悪誘導後、大幅な力の増幅を確認」
「愛情対象消失後、精神崩壊反応あり」
「催眠術式はケイオスの干渉によって破断」
「被検体の左目および筋組織に顕著な変質あり」
その言葉を聞いて、初めてシオンが顔を上げた。
「……左目?」
掠れた声だった。
神官の一人が、シオンを見た。そして、一瞬だけ息を呑んだ。
その反応につられるように、シオンは近くに落ちていた割れた金属皿へ視線を落とした。血と煤で汚れた表面に、ぼんやりと自分の顔が映っている。
銀白の髪。右の瞳は、昨日までと同じ紫。だが、その横にある左は赤かった。血のような、濁りのない赤だ。
そして、身体も違っていた。昨日までよりも肩幅が広くなっている。腕は太く、胸板も厚い。衣服は張り詰め、以前なら余裕のあった部分が、筋肉に押し広げられている。鍛え上げた大人も顔負けするほどの肉体。十四歳の少年としては、明らかに異様だった。
昨夜、リゼを殺した直後。あの激痛と共に、身体そのものが変わったのだ。
「……」
シオンは、しばらく皿に映った自分を見ていた。だが、何の感情も湧かなかった。
左目が赤くなった。身体が大きくなった。力も増した。だから何だというのだ。父が戻るわけではない。母が戻るわけでもない。リゼが戻ってくるわけでもない。
自分の身体がどれほど人間から離れようと、今となってはどうでもよかった。
シオンは、皿から目を逸らした。そして、神官たちを見据える。
その瞳を正面から見た一人が、思わず一歩後ずさった。
そこにいるのは、確かに十四歳の少年だった。だが、その目はもう少年のものではなかった。
深く、暗い。この世のありとあらゆる絶望をすべて溶かしたような、暗い瞳。すべてを失った穴の底で、それでも消えずに燃えているものがある。——憎悪だった。
「……お前たちが」
シオンがゆらりと立ち上がる。
「見てたのか」
低い声だった。絶叫し続けた喉は、潰れたように掠れている。
神官たちが、僅かに身構えた。
「何を言っている」
「昨日の夜。お前たちは……見てたのか」
誰も答えない。しかし、その沈黙だけで十分だった。
見ていた。知っていた。最初から、父が殺されることも、母が殺されることも、村のみんなが、リゼが、自分の拳で消えることも、全部知っていた。それを、この者たちは実験の結果として眺めていた。
「……そうか」
口から漏れ出たのはその一言だけだった。
一人の神官が慌てて口を開いた。
「待て。これはデウス様の——」
その言葉を最後まで言わせなかった。
シオンの姿が消える。次の瞬間、神官の身体が弾けた。一撃だった。
それを見た神官たちは、初めて動揺した。
「な——」
もう一人消える。
「被検体が——」
さらに一人。
「抑えろ!」
もう遅かった。彼らに、シオンを止めることなどできなかった。
拳を振るう。人間が壊れる。昨夜と何も変わらない。違うのは、今度はシオン自身の意思で拳を振るっていることだけだった。
胸の奥で、声がする。
『そうだ。それでいい』
昨夜よりもずっと近い声が、心底愉しそうに笑っている。
『憎め』
拳を振るう。
『もっと壊せ』
骨も、肉も、纏めて砕く。
シオンは、内側から響くその声を聞いていた。しかし、何も思わなかった。うるさいとも、怖いとも思わない。
もう、何もかもどうでも良かった。
神官たちを殺し終えた後、村には本当の静寂が訪れた。もう誰もいない。人間も、神官も。ただシオンだけが立っていた。かつて自分が帰る場所だったものの、その中心に。
◇
その日の夕方。シオンは、死のうとした。
殺した者たちと同じところへ逝きたい、などとは思わなかった。逝けるはずがない。父も、母も、リゼも、村のみんなも。少なくとも、自分と同じ場所へ逝くような人間ではない。死後の世界がもし本当に存在するのなら、自分が逝き着くのはきっと、暗く苦しい地獄の底だ。
それで良かった。寧ろ、そうでなければならない。
ただ、もう生きていられなかった。
犯した罪に。殺したという、揺らがない事実に。身体の中に溢れている力に。父も、母も、リゼもいない、帰る場所のないこの世界に耐えられなかった。
死にたい。——いや、死ななければならない。そう思った。
シオンは、壊れた家の中に落ちていた包丁を拾った。刃を自分の首へ当てる。
「……死ね」
迷いはなかった。刃を一気に引いた。金属音と共に、折れた刃が地面へ落ちる。首には傷一つついていない。
今度は、村外れの崖へ向かった。下を覗くととてつもなく高い。普通なら、落ちれば間違いなく死ぬ。そう思った。
「……死ねよ」
そのまま身体を投げ出した。風を切り、地面へ激突する。轟音と土煙。しばらくして、シオンは身体を起こした。少し痛かった。それだけだった。骨一本折れていない。
今度は、自分の手を胸へ突き立てた。手で皮膚を裂き、心臓を貫こうとした。
「死ねってば……!」
しかし、皮膚が突き立てられた手を通さない。人間の肌とは思えないほどに硬いのだ。全力で、何度も何度も胸を貫こうとした。それでも、爪先すら皮膚の向こうへ届かなかった。
燃え残っている家へ向かった。炎の中へ、自ら入った。
「生きる資格なんて……ないだろ……!」
熱い。それだけだった。髪すらまともには燃えない。皮膚も焼けない。火が消えるまで、シオンは火の中にいた。それでも死ねなかった。
最後に、村の近くに生えていた、猛毒だと教わっていた茸を口にした。昔、絶対に食べるなと父に教えられたものだった。
「……死なせてくれ」
何本も噛んだ。飲み込んだ。待った。けれど、何も起きなかった。
——死ねなかった。
「……なんで」
シオンは、地面へ座り込んだ。
「どうして……まだ、生きてるんだよ」
声が震える。
「父さんも……母さんも……リゼも……みんな……俺が殺したのに」
血に濡れた自分の手を見る。指が震えていた。
「俺だけ、どうして……」
息を吸う。それだけでひどく苦しい。それでも、今この瞬間も身体は残酷にも生き続けている。
「どうして俺だけ……死ねないんだよ……」
答えるように、胸の奥で笑い声がした。
『貴様はもう、人間の死に方では死ねんぞ』
「……」
シオンは、地面へ拳を叩きつけた。
一撃目。轟音が響く。二撃目。地面が割れる。三撃目。土が大きく抉れる。
何度も何度も殴った。せめて、この拳が壊れればいいと思った。父を殺した拳。母を殺した拳。リゼを殺した拳。村のみんなを、人の形さえ残さず壊した拳。
砕けろ。壊れろ。なくなれ。
なのに、地面だけが壊れていく。拳は、傷一つつかなかった。肘まで地面へめり込むほど殴りつけても、痛みすらほとんど感じない。
『無駄だと言っているだろう』
左胸の奥から嘲笑う声が聞こえる。
『貴様は俺の器だ。その肉体は俺のためのもの。俺の完璧な器として完成するまで、朽ちることは許されぬ』
「……っ」
涙は出なかった。泣けなかった。泣いてはいけないと思った。悲しいなどと、自分が言っていいはずがない。
父を殺した。母を殺した。リゼを殺した。村人たちを殺した。自分を迎えてくれた場所を、丸ごと壊した。そんな自分には、悲しいと嘆く資格も、痛いと叫ぶ資格も、何も与えられてはいけないはずだ。
操られていた。だから何だ。自分の意思ではなかった。だから何だ。あの拳は、間違いなく自分の腕についていた。この身体で殺した。この手で殺した。この力で、全部壊した。
しかも、最後の言葉さえ残させなかった。謝ることもできない。罵られることもできない。赦されることも、拒絶されることも。彼らにはもう、何もできない。全部、一瞬で自分が奪った。
——彼らを殺したのは、誰だ。
最初に脳裏に浮かんだのは、デウスだった。自分を連れていった。身体を変えた。力を埋め込んだ。自分を操った。父を、母を、リゼを、自分に殺させた。
次に、神官たち。実験に関わった者たち。昨夜の惨劇を、ただ何もせず観察していた者たち。
そして最後に、自分。
「……全員」
シオンが呟いた。
「全員……殺さなきゃ」
そう口にした瞬間、不思議なほど思考が鮮明になった。デウスを殺す。実験に関わった者を殺す。そして、自分も殺す。それこそ自分が成すべきことだと心の底から思った。
だが、ただ殺すだけでは駄目だ。父たちが何を感じたのか。リゼが、最後にどれほど怖かったのか。それはシオンには分からない。分からないからこそ、自分が想像できる限りの痛みを、恐怖を、絶望を。全部、あいつらへ与えなければならない。最後に、自分にも同じものを与えなければならない。
それで、ようやく終われる。
しかし、それには問題があった。
果たしてデウスに勝てるのか。鮮明になった脳が思い出す。あの白い姿。巨大な翼。冷たい瞳。理屈ではなく、直感で理解していた。あれは自分より遥かに強い。神殺しなど、人間の身では到底不可能だろう。
そして、自分を殺すことすらたった今、失敗したばかりだった。
そこで、シオンは自分の拳を見た。魔物を砕いた拳。人間を、一撃で原形も残さず消した拳。怒りと憎しみに反応して、さらに膨れ上がった力。胸の中。そこにいる何か。神官たちは、それをケイオスと呼んでいた。この力の源がそれなのだと、シオン自身も直感的に理解していた。
「……あの時の力」
シオンは胸へ手を当てた。これまでは一方的に声を聞くだけだった。自分から話しかけたことなどない。
少しだけ躊躇った。怖かったからではない。これへ頼ろうとしている自分が、もう本当に後戻りできない場所へ足を踏み入れるように思えた。悪魔に魂を売るような行為だと思った。しかし、そもそも戻る場所などもうない。生きている資格などないのだから、復讐が終われば魂なんてくれてやる。
「……あれが、お前の全力なのか」
少しの沈黙。
そして、嘲笑うような声が返ってきた。
『いいや?』
愉快そうな声色だった。
『あの程度で全力などと。随分と見くびられたものだ』
「……もっと」
シオンは問う。
「もっと、力を出せるのか」
『いくらでも』
「……なら」
拳を握る。脳裏にデウスの顔が浮かんだ。
「お前の力を全部引き出せば……デウスを殺せるか?」
今度は、すぐに答えが返ってきた。
『ああ。造作もない』
迷いのない声だった。
シオンの瞳が、僅かに見開かれる。
『もっとも——』
声が愉しそうに続けた。
『貴様程度の器が、俺をどこまで受け止められるかは知らんがな』
「……どういう意味だ」
『力を求めれば求めるほど、貴様の肉体も魂も削られることになる。耐えられなくなった肉体は壊れ、俺へと近づく。貴様の魂もやがて消え、俺がその身体を貰い受けることになるだろう』
それは警告だったのかもしれない。だが、シオンにとっては違った。
「……そうか」
初めて、ほんの僅かに胸の奥の何かが動いた。それは希望などではない。もっと暗く、澱んだ冷たいものだった。
——死ねる。
通常の方法では自分は死ねない。しかし、この力を限界まで引き出せば、肉体も魂も耐えられない。なら、最後に自分も殺せる。
デウスを殺す。実験に関わった者たちを殺す。
父が、母が、リゼが、村のみんなが味わったであろう苦しみを、できる限り長く、深く、惨たらしく刻みつけてから殺す。
そして最後に、デウスを殺す時にこの力を自分が耐えられないところまで引き出す。この身体も、この魂も、何も残らないほどに。自分自身を殺す。それで、終わる。
それだけが、シオンに残った目的だった。復讐だった。そして、生きる理由だった。




