過去編─ただいまの果て
ふらふらと糸で吊られた人形のように、シオンの脚が歩き始めた。父と母の血で身体を濡らしたまま、家の外へ出る。紫色の瞳はどこにも焦点が合っていない。
背後では、家の一角が異様な形に壊れている。そんなシオンを見て、村人たちは困惑した。
「シオン?」
一人の男が近づいてくる。
「どうしたんだ!」
——来るな。逃げろ。俺から離れろ。
水底からシオンは叫ぶ。しかし、声にはならない。
また拳が動いた。そして男が消えた。
そこから先は、虐殺だった。あまりにも一方的な、戦いとすら呼べないものだった。
拳が振るわれる。人が消える。悲鳴は途中で途切れる。逃げる者を追う。追いつき、砕く。止めようとする者を殴る。何も残さない。家屋まで壊して回る。騒ぎに気づかず、まだ眠っていた者もいた。その家ごと壊し、中にいる人間まで殺していく。
すべて一撃だった。誰一人として最後の言葉を残せない。痛いと叫ぶ時間さえない。それが、何よりもシオンを苦しめた。
自分は、彼らから命だけなく、最後の言葉まで奪っている。何が起きたのか理解する時間も、自分を恨む時間も、自分を責める言葉すら、何もかも。
いっそ、責めてほしかった。化け物だと罵ってほしかった。どうしてこんなことをしたのだと、憎んでほしかった。殺される前に、自分を睨みつけてほしかった。けれど、その時間さえ自分の拳が奪う。
かつて畑仕事を教えてくれた老人。井戸端で会うたび声をかけてくれた男。幼い頃、一緒に遊んだ友人。朝、自分の帰還を笑顔で迎えてくれた人々。名前を知らない人間もいた。ほとんど話したことがない人間もいた。それでも、全員がこの村で生きていた。
その一人ひとりが、自分の手で壊れていく。人の形すら残らない。ただの肉片と血溜まりに変わっていく。
水底へ沈められたような意識の中で、シオンはそのすべてを見せつけられていた。
——やめろ。やめてくれ。頼む。もうやめてくれ。なんで。どうして。
『憎め』
デウスの声が脳内に響く。
『怒れ』
その言葉を聞いた瞬間、シオンの内側で、恐怖とは違う感情が生まれた。
怒り。自分の身体を勝手に動かす何者かへの怒り。何もできない自分への怒り。
父を殺した。母を殺した。村のみんなを、自分の手で殺している。止めたい。なのに止められない。その現実への、どうしようもない憎悪。
それらが湧き上がるたび、胸に埋め込まれた赤黒い石が、ドクリ、ドクリと強く脈打つ。力が増していく。
恐怖に震えていたときとは違う。怒れば怒るほど、憎めば憎むほど、身体の奥に潜む何かが歓喜するように膨れ上がっていく。
——そういうことか。
シオンは、直感的に理解した。これは、ただ殺させられているのではない。見せつけられているのだ。
自分が何をしているのか。この力が何を壊すのか。そして、その結果生まれる、怒りと憎しみを。心の奥へ、二度と消えないほど深く刻み込むために。
村が壊れていく。家々が崩れる。井戸が砕ける。倉庫へ火が移り、炎が夜の闇を赤く染める。あれほど聞こえていた人々の声も、少しずつ、少しずつ減っていく。そして、やがてほとんど何も聞こえなくなった。
そして、最後に一人の少女がシオンへ歩み寄った。——リゼだ。
「シオン……?」
その声だけは、どれだけ深いところへ沈められていても分かった。
寝巻き姿のまま、靴すら履いていない。裸足で、燃え始めた村の中を走ってきたのだろう。足は泥で汚れ、ところどころに血まで付いている。
彼女は、途中で足を止めた。壊れた家々。道に飛び散った、人だったもの。炎。血。そして、その中心に立つシオン。
リゼの顔から、一瞬で血の気が引いた。
当然のことだ。今朝まで、この村はいつも通りだった。みんな笑っていた。シオンの帰還を喜んでいた。夜には宴まで開いた。それが、今では何ひとつ残っていない。
そして、その中心にいるのは、全身を血で染めたシオンだった。
——逃げろ。
水底のような意識の奥から、シオンは叫んだ。
——リゼ。逃げろ。お願いだから。俺を見るな。近づくな。俺を信じるな。今の俺は、お前まで。
「シオン」
シオンの叫びも虚しく、リゼは逃げなかった。一歩、こちらへ近づく。肩が震えている。唇も震えている。目には涙が溜まっている。怖いのだ。怖くないはずがない。それでも、リゼは泣きながらも口は笑みの形を浮かべる。
「聞こえる?」
もう一歩。
「わたしだよ」
もう一歩。
「リゼだよ」
——やめろ。来るな。お願いだ。逃げてくれ。
シオンは必死に叫び続けた。でも、声にはならない。指一本すら動かせない。
リゼは怖がっている。目の前に立っているシオンは、彼女の知っているシオンとは、あまりにも違う。人を殺し、家を壊し、村そのものを滅ぼした怪物だ。
それでもリゼは、そんな怪物へ手を伸ばした。止めようとしたのかもしれない。呼び戻そうとしたのかもしれない。或いは、目の前の惨状を見ても尚、自分の知るシオンがまだそこにいると、信じようとしただけなのかもしれない。
その手が、もう少しでシオンへ届く。
——その瞬間。
『良い』
胸の奥で、何者かが笑った。
『これは、良い餌になりそうだ』
胸の石が、激しく脈打った。莫大な力が、シオンの中を駆け巡る。
そして、それと同時に、デウスによって刻み込まれていた術式がシオンの身体を動かした。右腕が持ち上がる。拳が引かれる。
——嫌だ。やめろ。それだけは、それだけは駄目だ。
父も殺した。母も殺した。みんな殺した。もう、何も残っていない。だから、せめてリゼだけは。リゼだけは。
拳が放たれた。
リゼには、何が起きたのか理解する時間さえなかっただろう。一撃だった。父と同じ。母と同じ。村のみんなと同じ。人間の身体には到底耐えられない力が、その身体を一瞬で破壊した。
血が散る。土を赤く濡らす。そこにもう、リゼの姿はなかった。
何も言わなかったのではない。言えなかった。最期の言葉を残す時間そのものを、シオンが奪った。もう一度、彼の名を呼ぶ時間すらなかった。
最後に残ったものは、声ではない。自分へ伸ばされていた手。恐怖に震えながらも、最後まで逃げなかった姿。そして、それでも自分を信じようとしていた、碧の瞳だけだった。
その瞬間、シオンの中で何かが完全に砕けた。
悲しみ。絶望。自分への嫌悪。そして、それらすべてを呑み込むほどの激しい憎悪が濁流となって全身を包む。
父を奪った。母を奪った。村を奪った。リゼを奪った。自分の身体を使って、自分の手で、全部奪わせた。
——誰が。
その疑問と同時に、霞みがかっていたはずの記憶の奥から、あの冷たい声が蘇った。
『怒りと憎悪を、その身に刻むのだ』
——デウス。
その名を意識した瞬間、今までとは比べものにならない感情が、シオンの中で爆発した。
赦さない。
赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない。
殺す。殺す。絶対に殺してやる。それだけでは足りない。父が、母が、リゼが、みんなが味わったものを全部、全部あいつにも——
その憎悪を待ち望んでいたかのように、ドクンと左胸の石が激しく脈動した。それと同時に、凄まじいほど強力な赤黒い力がシオンの全身へ雪崩れ込んだ。
「っ……!?」
身体が跳ねる。直後、凄まじい激痛が襲った。
「あ゙っ……が、ああああああああっ!?」
今度こそ、シオン自身の声が上がった。
骨が軋む。筋肉が引き裂かれる。全身の内側へ、無理やり何かを詰め込まれているようだった。
腕が膨れ上がる。肩が大きく張り出す。胸板が厚みを増す。背中。腹。脚。全身の筋肉が、異常な速度で肥大していく。その上には赤黒い亀裂のような模様が這っている。
つい先ほどまでの少年の身体とは、明らかに違っていた。衣服が軋み、身体の輪郭そのものが一回り以上大きく変わっていく。
「がっ……あああああっ!」
そして、変わったのは肉体だけではなかった。
シオンの左目へ、焼けつくような熱が走った。紫色だった瞳の奥から、赤が滲む。まるで血を流し込まれたように、ゆっくりと、それでいて確実に、紫を侵食していく。
やがて、左の瞳は完全な赤へと染まった。右は紫。左は赤。かつて青かった瞳の面影は、もうどこにも残っていなかった。
同時に、膨れ上がった赤黒い力が、シオンの身体を縛っていた術式へ牙を剥いた。神殿で、デウスによって刻み込まれていた催眠術式。それへ、赤黒い力が食らいつく。侵食する。引き裂く。
シオンに怒りと憎しみを刻みつけることそのものは、左胸に宿るその力にとって都合が良かったのかもしれない。
だが、自らの力まで、デウスの意思によって支配されることだけは許さない。そう言わんばかりに、赤黒い力が神の術式を、内側から喰い破った。
——視界が戻った。
最初に見えたのは、炎だった。家が燃えている。見慣れた家々が壊れている。道には血が広がっている。
——音が戻る。
ぱちぱちと、木材の焼ける音。どこかで家の一部が崩れ落ちる音。それだけだった。人の声がしない。
——匂いが戻る。
血の臭い。焦げた木材の臭い。焼けた土の臭い。
——感触が戻った。
拳に、腕に、身体に。人を壊した感触だけが、はっきりと残っていた。
シオンは立ち尽くした。
身体が、さっきまでとは違う。腕が重い。肩が大きい。全身に、これまで以上の力が満ちている。左目が熱い。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
崩れた村。燃える家々。誰もいなくなった道。父がいた場所。母がいた場所。そして、リゼがいた場所。
何もない。もう、何もなかった。
シオンは、震える手を持ち上げる。真っ赤だった。誰の血なのか分からない。父か、母か、村の誰かか、リゼか。或いは、その全部なのか。
「……ぁ」
息が漏れる。
父の声はしない。母の声もしない。リゼの声もしない。誰も、何も言わない。
遺言はなかった。赦しの言葉もなかった。罵倒もなかった。恨み言一つ、残っていなかった。なぜなら、それを口にする時間ごと、自分が壊したからだ。自分を責める権利さえ。自分を憎むための時間さえ。全部、奪った。
残っているのはただ、シオンが自分の手で父を殺した。母を殺した。リゼを殺した。村のみんなを殺した。それだけだった。
「……あ」
呼吸とも呼べない音が、喉から漏れる。膝が震える。けれど、倒れることすらできなかった。
目を逸らしたい。見たくない。全部、夢だったことにしたい。けれど、目を逸らしてはいけない気がした。自分がやったのだから。全部、見なければならない。覚えていなければならない。忘れてはいけない。一生、決して。
「ぁ……あ……」
今朝には、確かにここに帰ってきた。母が駆け寄ってきた。父が肩を掴んでくれた。リゼが抱きしめてくれた。
——おかえり。
そう言ってくれた。
自分も、ただいまと、そう答えた。
なのに、今は。返事をしてくれる者が誰もいない。帰る場所だったはずの村は、自分の手でなくなった。その事実を、ようやくシオンの心が理解した。
そして、次の瞬間。焼け落ちていく故郷の中で、シオンは絶叫した。




