過去編─愛しの故郷
ある日の早朝、シオンは村へ帰された。あまりにも突然のことだった。
神殿で何をされたのか、記憶はひどく曖昧になっていた。それなりの時間を過ごしたはずなのに、思い返そうとすると、そこだけ濃い霧に覆われたように輪郭が崩れていく。
白い部屋。冷たい石床。身体を焼くような痛み。何かを砕いた感触。
断片だけは残っている。実験場で魔物を殴り、その身体を容易く破壊したことも、夢の中の出来事のようにぼやけながら記憶の底に沈んでいた。
しかし、身体は覚えていた。胸の奥にある異物感。自分の内側に、自分ではない何かが潜んでいるような不快な気配。そして何より、自分の身体に宿った、以前とは比べものにならない力。
何かを強く握るだけで怖かった。力を込めれば、触れたものは簡単に壊せる。そんな確信だけが、理由も分からないまま身体に刻み込まれている。シオンはそれが怖かった。自分の身体なのに、以前までの自分とは何かが違うのだ。
しかし、目隠しを外され、山間に点在する見慣れた家々が見えた時。朝露に濡れた草と土の匂いを嗅いだ時。胸を締めつけていた恐怖が、ほんの少しだけ緩んだ。
——帰ってきた。ようやく。
そう思えた。
神官たちから、事前に帰還の知らせが届いていたらしい。まだ朝も早いというのに、村の入口には多くの人々が集まっていた。
そして、シオンの姿を目にした途端、そこにいた者たちの表情が、一瞬だけ固まった。
無理もなかった。神殿へ向かう前まで黒かった髪は、毛先まで色素を失ったような銀白へ変わっている。夜空のような青だった瞳も、今では左右ともに深い紫色へ変貌していた。身体つきも、以前と比べると体格が良くなったように見える。姿だけを見れば、神殿へ送られたときとは別人だった。
戸惑いが村人たちの間に広がる。
しかし。
「シオン!」
そんなことなどどうでもいいと言わんばかりに、母が駆けてきた。遅れて父も歩み寄り、確かめるようにシオンの肩を掴む。
そして、その向こうから——
「シオン……!」
泣きながら彼の名を呼び、リゼが走ってきた。そのまま勢いよく、シオンの胸へ飛び込んでくる。
シオンは咄嗟に彼女を抱き返そうとして——腕を止めた。
怖かった。もし、この腕に力を込めたら。加減を間違えたら。目の前にいるリゼまで壊してしまうのではないか。ぼんやりとした記憶の中で、拳の先にいた魔物が砕け散るあの感触だけが、妙に生々しく蘇った。
だから、すぐには抱きしめられなかった。けれど、シオンに何が起きたのか知らないリゼは、そんな彼の胸へ顔を押しつけたまま離れなかった。
「おかえり」
震える声だった。
「ちゃんと……帰ってきたね」
その言葉を聞いた瞬間、シオンの胸の奥が、痛いほど締めつけられた。
——帰ってきた。本当に。自分はここへ帰ってきたのだ。
シオンは恐る恐る腕を持ち上げた。壊れ物に触れるように。ほんの少しの力すら込めないよう、慎重に。ゆっくりとリゼの背へ手を添える。
「……ただいま」
リゼは泣きながら笑った。その笑顔を見つめながら、シオンは自分の懐へ視線を落とす。
あの日、リゼから渡された花。押し花にして持っていたそれは、今も失われずに残っていた。
「約束、したからな」
「……うん」
リゼは何度も頷いた。心の底から嬉しそうに。その顔を見て、シオンもようやく少しだけ笑えた。
その夜。村では、ささやかな宴が開かれた。シオンの帰還を祝うためのものだった。
表向きには、シオンは神殿で神の祝福を授かり、特別な神事へ参加していたことになっている。だから村人たちは、入れ替わり立ち替わり彼のもとへやってきた。
「デウス様は、どんなお方だった?」
目を輝かせながらそう尋ねられて、シオンは言葉に詰まる。
思い出そうとした。けれど、やはり記憶には濃い靄がかかっている。白い髪。巨大な白い翼。そして、身体の芯まで凍りつくような、冷たい瞳。それだけが妙に鮮明に残っていた。思い出そうとするだけで、理由の分からない不快感が胸を這う。
けれど、この村の人々は皆デウスを信仰している。デウスに守られていると信じ、日々祈りを捧げながら暮らしている。自分でも説明できない不安で、その信仰に水を差すようなことは言えなかった。
「……彫刻みたいに、綺麗だったな」
結局、シオンはそんな当たり障りのない答えを返す。
「その髪と目はどうしたんだ?」
別の村人が尋ねてくる。
シオンは自分の銀白の髪を一房つまんだ。
視界の端には、以前とは違う紫色の瞳を持つ自分の姿が、果実の絞り汁が入ったグラスへぼんやりと映り込んでいる。
「さあ……」
本当に分からなかった。何かをされた、それだけは分かる。身体の中には以前までなかった異物感がある。
しかし、その理由を思い出そうとすると、思考そのものを拒むように頭が霞む。
心配そうにこちらを見る村人たちへ気づき、シオンは苦笑した。
「祝福の効果……だったりしてな」
「そんな祝福があるか?」
誰かが笑った。その言葉につられ、周囲から笑い声が上がる。
シオンも小さく笑った。少なくとも、自分では笑えていると思った。
卓上には、母や村人たちが用意した料理が並んでいた。肉。焼いた野菜。パン。祝いの日にしか出ない、少し甘い菓子。シオンの好物も多い。以前なら、何から手をつけようか迷っただろう。
だが、今はどうにも食欲が湧かなかった。何も食べられないわけではない。母に勧められ、パンを一口ちぎって口へ運ぶ。噛む。
「……?」
味はする。しかし、妙に薄い。以前ならもっと香ばしく感じたはずなのに、口の中へ入れても、どこか遠くに味があるような感覚しかない。
もう一口食べるが、やはり同じだった。
「どうしたの?」
隣に座っていたリゼが心配そうに覗き込んでくる。
「いや」
シオンは首を振った。
「なんか……神殿にいた間に、食が細くなったみたいだ」
「大丈夫?」
「ああ。食えないわけじゃないから」
そう答えて、無理にもう一口食べる。身体は受けつけている。吐き気もない。ただ、以前ほど食べたいと思えない。味も薄い。それだけだった。
だから、シオン自身も深く考えなかった。少し身体がおかしくなった。この時は、それくらいにしか思わなかった。
父も、母も、リゼも、村のみんなも。シオンが帰ってきたことを喜んでいる。その笑顔を眺めていると、自分も喜ばなければならないような気がした。
——いや。本当は、嬉しかった。
ようやくここへ戻れた。父がいる。母がいる。リゼがいる。それだけで、十分だった。
その時、左胸の奥がドクリと脈打った。心臓ではない。心臓と溶け合うように並ぶ、別の何かが。
『これが壊れた時、貴様はどんな顔をするだろうなあ?』
ぞっとするほど愉しそうな声が聞こえた。
「……ッ」
シオンの表情が強張る。反射的に胸へ手を当てた。
——何だ、今のは。
辺りを見回す。しかし、誰もこちらを気にしていない。父は村人と談笑している。母は料理を運んでいる。リゼはすぐ隣で、空になった器へ飲み物を注いでいる。誰も、今の声を聞いていない。聞こえたのは自分だけだ。
胸の奥に、嫌な感覚が残る。けれど、その正体を考えようとすると、また頭の中に霧が広がった。
シオンは考えるのをやめた。
きっと疲れているのだ。神殿で色々あった。それすらよく覚えていない。だから、幻聴くらい聞こえてもおかしくない。そう自分へ言い聞かせた。
そして、隣で笑うリゼを見て、シオンもまた曖昧な笑みを浮かべた。
◇
夜が更けた。宴を終えた村は、静けさを取り戻していた。
久しぶりの自分の部屋。久しぶりの自分の寝床。シオンは横になり、目を閉じていた。
けれど、なかなか眠れない。
神殿へ送られてから、眠りが浅くなっていた。眠れていないわけではない。しばらく目を閉じていれば、いつの間にか意識は沈む。しかし、ほんの小さな物音で目が覚める。何度も夢を見る。
夢の内容は覚えていない。ただ、目を覚ますたびに身体中が強張り、ひどく汗をかいていた。
今日もそうだった。ようやく眠りへ落ちたはずなのに、どれほど時間が経ったのか分からないうちに、シオンの意識は再び浮上した。
だが、何かがおかしい。
目は開いていた。身体も、すでに起き上がっている。なのに、自分で起き上がった覚えがない。
「……え?」
手が動く。指が開く。足が床へ下りる。だが、シオンは何ひとつ動かしていなかった。身体だけが、自分の意思とは無関係に動いている。
その瞬間、意識が遠のいた。
眠りに落ちるのとは違う。自分の身体から、自分だけを引き剥がされる。そんな感覚だった。
遠い。自分の腕が。自分の足が。自分の身体そのものが。まるで深い水底から、別の誰かの身体を見上げているように感じる。
胸の奥で、膨大な力が脈打った。
そして、記憶の底へ無理やり押し込められていた何かが、唐突に開いた。
『その力を引き出せ』
デウスの声だった。その声を聞いた瞬間、理由も分からないまま、全身に激しい恐怖が走った。
駄目だ。身体が知っている。この力を使ってはいけない。この力を使えば、人間など簡単に壊れてしまう。
——止まれ。動くな。誰にも触るな。
シオンは必死に抗った。しかし、身体は止まらない。
「ぁぐ……ッ!」
全身を、強烈な痛みが襲った。骨の内側へ何かを捩じ込まれているような痛み。筋肉が内側から引き裂かれそうになる。
叫びたかった。だが、声さえ自由にならなかった。痛みと共に身体へ力が満ちていく。
その物音に気づいたのだろう。最初に現れたのは、父だった。
「シオン?」
戸口に立ち、眠たげな顔でこちらを見ている。
シオンは叫んだ。意識の中で、声にならない声で。
——逃げろ。来るな。父さん。近づかないでくれ。
けれど、父には届かない。
父は眉を寄せ、心配そうな顔で近づいてくる。
「どうした? 眠れないのか?」
——来るな。違う。俺じゃない。逃げろ。頼む。父さん。
シオンの右腕が持ち上がった。拳が引き絞られる。
——止めろ。止まれ。止まってくれ。
次の瞬間、父が消えた。拳が触れた。ただ、それだけだった。人間の身体は、そのあまりにも過剰な威力の一撃へ耐えることができなかったのだ。
何が起きたのか理解する暇さえなかっただろう。父だったものが原形を失い、血と肉片となって部屋中へ飛び散った。
水底へ閉じ込められたシオンの意識が絶叫する。
——違う。俺じゃない。俺は、俺はこんなことをしたくない。
——どうして。止まれ。止まれ。止まれ。止まれよ。止まってくれ!
物音を聞きつけ、今度は母が駆け込んできた。
「あなた? シオン?」
そして、足を止める。
床。壁。天井。部屋のあらゆる場所に血が飛び散るその中心に、大量の血を浴びたシオンが立っている。
「……え」
母の顔から血の気が引いた。唇が震える。
次の瞬間、悲鳴が上がった。その声が、シオンの意識へ突き刺さる。
それでも、母は逃げなかった。震えながら、シオンへ手を伸ばした。目の前の惨状を引き起こしたのが、シオンだと理解できていなかったのかもしれない。或いは、分かっていても息子を信じたかったのかもしれない。
「シオン、何が——」
言葉は最後まで言わせてもらえなかった。
拳が動く。それだけで、母も消えた。言葉の続きを残す時間さえなかった。
シオンの心の奥で、音を立てながら何かにひびが入った。
だが、それでも終わらなかった。
外が騒がしくなった。異変に気づいた村人たちが、家の周囲へ集まり始めている。
誰かが父の名を呼んでいる。誰かが母を呼んでいる。誰かがシオンを呼ぶ。全部聞こえている。それなのに、何もできない。
『怒りと憎悪を、その身に刻むのだ』
再びデウスの声が響いた。




