過去編─変わりゆく身体
それからの日々は、シオンが想像していた神事とは程遠いものだった。
神殿での実験の後、シオンの身体はもう元の人間のものではなくなっていた。
刃物で切りつけられても、皮膚は裂けない。槍で突かれても、血は流れない。重い鉄の拘束具も、力を込めれば軋む。石壁を殴れば、拳ではなく石の方が砕けた。
だが、それは自由を意味しなかった。寧ろ実験は増え続ける一方だった。
ある時は、石壁を拳で砕けと言われた。ある時は、鉄の拘束具を引き千切れと言われた。ある時は、魔物の頭蓋を差し出され、それを素手で握り潰せと言われた。ある時は、剣や槍で切りつけられた。武器は折れた。シオンの身体には傷一つつかなかった。
白い服の男たちは、そのたびに歓声に近い声を上げ、記録を取った。
シオンには、そのすべてが恐ろしかった。
強くなった実感はあった。けれど、強さを得た喜びなどなかった。自分の身体が、自分の知らない何かへ作り替えられていく。その気持ち悪さだけがあった。
力を使うたび、身体の奥が軋む。骨が熱を持ち、筋肉が内側から引き裂かれるように痛む。それでも壊れきらない。壊れた部分が、赤黒い力によって無理やり繋ぎ直されていく。少しずつ、少しずつ。シオンの身体は、より強い力を放ち、それに耐えるための形へ歪められていった。
シオンは何度も抵抗した。拘束具を壊し、神官を突き飛ばし、白い部屋の扉へ走った。逃げようとした。帰ろうとした。父と母のいる家へ。リゼのいる村へ。
だが、そのたびにデウスが現れた。白い光の帯で、シオンの身体を縛る。
鉄なら壊せる。石なら砕ける。人なら殴り飛ばせる。しかし、そんな力を以てしても、デウスの光の前ではシオンの力は無力だった。
床に押さえつけられ、息もできないほどの圧力の中で、シオンは神を睨んだ。
「ふざけるな……!」
声は掠れていた。
「俺は、こんなこと望んでない!」
デウスは目を伏せた。一瞬だけ、その顔に痛みのようなものが浮かんだことにシオンは気づかなかった。気づく余裕などなかった。
「貴様のその苦しみは、星を救うためになる」
「俺には関係ない!」
シオンは叫ぶ。
「俺を帰せ! 父さんと母さんが待ってる。リゼだって……!」
デウスの黒い瞳が、わずかに揺れた。
「……望まなくとも、必要なことなのだ」
その声は僅かに震えていた。だが、言葉の意味は変わらない。必要。星のため。その二つで、自分の苦しみが片づけられる。
シオンは初めて、祈っていた神を憎いと思った。
◇
胸の中から聞こえる声は、日に日に大きくなっていった。
『もっと怒れ』
『憎め』
『壊せ』
『喰らえ』
『それが貴様の力になる』
シオンは耳を塞いだ。だが、声は耳から聞こえているのではない。胸の奥。心臓に食い込んだ赤黒い石の奥から響いてくる。塞げない。逃げられない。眠っていても、目覚めていても、その声はつきまとった。
それでも、シオンはまだ力の本質を知らなかった。
自分の身体が強くなったことは分かる。刃が通らないことも分かる。普通の人間では壊せないものを壊せることも分かる。けれど、その力が何を引き金に膨れ上がるのか。どこまで大きくなるのか。この時のシオンは、自らに植え付けられた力の本質というものをまだ何一つ理解していなかった。
その力の本質を知るために、神官はシオンを神殿地下の実験場へ連れて行った。
石造りの円形の広間。高い壁。鉄格子。血の染みついた床。そこは、魔物を閉じ込めるための闘技場だった。
奥の檻には、大型の魔物が鎖に繋がれていた。村の周辺に稀に出るような小型の魔物ではない。熟練の兵士が数人がかりで挑んで、ようやく討伐できるような個体だった。シオンの体躯とは比べものにならないほど巨大で、凶暴なものだ。
神官たちは、シオンを檻の中へ押し込む。鉄格子が閉じる音が、重く響いた。
「嫌だ!」
シオンは檻を掴む。
「あんなのに勝てるわけがない、出してくれ!」
声が震えた。目の奥が熱くなる。泣きそうだった。いや、もう涙は浮かんでいた。それを恥ずかしいと思う余裕すらなかった。
ただ怖かった。魔物が。神官たちが。デウスが。自分の身体が。何もかもが怖かった。
だが、神官たちは耳を貸さない。
重い音を立てて、魔物を繋いでいた檻が開いた。魔物が飛び出してくる。
シオンは恐怖で身を竦ませた。逃げなければならない。分かっているのに、足が動かない。
魔物の爪が肩へ振り下ろされる。衣服が裂けるが、皮膚は裂けなかった。だが、衝撃で身体は床へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。
「がっ……!」
痛みが全身へ走った。傷はなくても、痛みはある。死なないからといって、怖くないわけではない。
シオンは呻きながら、よろよろと立ち上がり、檻の扉へ向かった。戦う気などなかった。殺す気などなかった。ただ逃げたかった。生きて帰りたかった。
しかし、神官たちはそれを許さなかった。
何かの術式が発動する。シオンの身体の動きが、途中で止まった。地に伏せたまま指先が床を掻く。足は動かない。
さらに、耳元へ声が流れ込んできた。
『逃げるのか?』
父の声だった。
『あなたが逃げたら、私たちが死ぬのよ』
母の声だった。
『わたしたちを見捨てるの?』
リゼの声だった。
シオンの心臓が跳ねる。
「やめろ……」
震えた声が漏れた。
「その声を使うな」
檻の外から、神官が冷たく言う。
「シオン。ここでお前が逃げた場合、神に逆らった反逆者として、お前の家族とリゼに裁きを与える」
別の神官が続ける。
「お前の代わりに、お前の家族とリゼを連れてきて、この魔物の前に差し出す。」
「反逆者には、親類の死をもって償ってもらう」
拘束。幻聴。脅迫。そんな中でも、魔物は容赦なくシオンへ襲いかかる。爪は皮膚を裂かない。牙も肉へ届かない。それでも、衝撃は身体を打ちつけ、痛みは蓄積していく。
恐怖があった。だが、それとは別の感情が、胸の奥から湧き上がった。
なぜ、自分がこんな目に遭わなければならない。なぜ、誰も助けない。なぜ、神を名乗る存在が、聖職者であるはずの者たちが、こんなことをする。
こんな身体にしたのは、お前たちではないか。自分を村から連れてきたのは、お前たちではないか。リゼの声を、父さんと母さんの声を、そんな風に使うな。
理不尽への怒り。自分を実験台にした者たちへの憎しみ。
——その瞬間、左胸の石が強く脈打った。胸の奥で、声が笑う。まるで、待ち望んでいたとでも言うように。
『そうだ。俺が待っていたのは、それだ』
シオンの右拳が、反射的に動いた。同時に、腕へ赤黒い力が流れ込む。筋肉が内側から裂けるように痛んだ。骨が軋む。それでも拳は止まらない。
振り抜かれた拳が、魔物の胴へ触れた。
次の瞬間、巨大な体躯が弾け飛んだ。肉片が壁へ叩きつけられ、血が石壁を汚す。どさどさと、潰れた肉が床へ落ちる。
闘技場の中に静寂が満ちた。
シオンは呆然と立っていた。自分の拳を見ると、魔物の血がべっとりと付着している。拳だけではない。顔にも、服にも、髪にも。全身に返り血を浴びていた。神官から与えられた白い簡素な服が、赤く染まっている。
「今のは……俺が……?」
檻の外では、神官たちが興奮したように記録を取っていた。
「怒りと憎悪への反応が顕著です」
「敵意が一定値を超えた時、出力が急激に増大」
「破壊衝動への転化も確認しました」
シオンは、その言葉を聞いた。自分の中の力が、何に反応したのかを知った。
これは、人を守る力などではない。恐怖で生き延びようとした時にも、助かりたいと願った時にも、この力は応えなかった。怒った時。憎んだ時。壊したいと願った時。それに応えるように、力が膨れ上がった。
この力の本質。それはつまり、破壊のための力だ。
シオンは血に濡れた拳を見つめ、震えた。
怖かった。魔物よりも、神官たちよりも。自分の中にあるものが、何より恐ろしく感じられた。
◇
その後も、実験は続いた。来る日も来る日も、シオンは魔物と戦わされた。拒めば、デウスの白い光に縛られた。抵抗すれば、しばらく拘束されたまま魔物に襲わせられた。
身体は傷つかない。殺されることはない。だが、痛みはある。恐怖もある。心は削られていく。
神官たちは、シオンの力が怒りや憎しみで増すと分かるや否や、意図的にその感情を煽った。
彼を侮辱した。臆病者と呼んだ。役立たずと呼んだ。父と母の名を出した。リゼの名を出した。帰れないかもしれないと囁いた。彼女を連れてくることもできると言った。
そのたびに、シオンの心は乱れた。怒りが湧く。憎しみが生まれる。それと共に、赤黒い力は明らかに威力を増した。
拳は魔物を砕く。骨を潰す。肉を裂く。シオンの意思に関係なく、力は破壊へ向かっていく。
デウスは、光のない黒い瞳でずっと、それを見ていた。
——怒りと憎悪。それが鍵だ。
デウスはその結論へ至る。
シオンに埋め込んだ謎の存在——ケイオスの力は、彼の怒りと憎しみによって飛躍的に増す。ならば、彼を星を守る兵器として完成させるには。
——最も強い怒りを、最も深い憎悪を、生涯消えない絶望を刻み込めばいい。
デウスは、もう決めていた。星を守るためなら、一人の少年の心を壊しても良い。その犠牲で星が救えるなら、必要なことだと。
白い翼を持つ神は、闘技場に立つシオンを見下ろしていた。かつて人々を救うために振るわれたその力が、今は一人の少年を壊すために使われている。
シオンは、まだ知らない。この実験の本当の終着点を。自分の怒りと憎しみを完成させるために、デウスが何を選ぼうとしているのかを。
血に濡れた拳を握りしめ、震えながら思っていた。ただ、帰りたいと。父と母のいる家へ。リゼのいる丘へ。白い花の約束をした、あの場所へ。まだ、自分には帰る場所がある。この時の彼は、そう信じていた。




