過去編─神に選ばれた日
穏やかな日々は、ある日突然終わりを迎えた。
その日、辺境の村オラケルに、デウスの使者を名乗る者たちが訪れた。白く煌びやかな法衣をまとった、高位の神官たちだった。
村の誰もが驚いた。オラケルは、山裾にある小さな村だ。貧しく、街道からも外れ、神殿の巡礼者が立ち寄ることさえ滅多にない。そんな村に、神殿の高位神官が訪れるなど、普通なら考えられないことだった。
神官たちは、村人たちを広場へ集めて告げた。デウス様の名のもとに、若者たちへ祝福の儀を行う、と。突然のことに戸惑う者もいた。だが、それ以上に村人たちは喜んだ。辺境の自分たちにも、神は目を向けてくださったのだ。慎ましく暮らし、祈りを捧げてきたことが、神へ届いたのだ。誰かがそう言うと、広場に集まった人々の間へ、静かな歓喜が広がっていった。
シオンもまた、父と母と並んでその話を聞いていた。
空には、いつもの白い帯が横たわっている。デウスの加護。星を守る神の光。幼い頃から見上げてきたその空の下で、シオンは神官たちを見ていた。
胸の奥に、少しだけ違和感があった。神の祝福を告げに来た者たちのはずなのに、その視線は妙に冷たかった。信心深い村人を見る目というより、何かを探す目。祈りを聞く者ではなく、品定めをし、何かを選別する者の目。
シオンはその違和感を言葉にできなかった。ただ、何となく落ち着かないと感じた。
◇
儀式は村の広場で行われた。未成年の若者たちが集められ、一人ずつ神官の前へ進む。
神官の手には、赤黒い石があった。それは宝石のようにも見える。だが、普通の宝石ではなかった。表面の奥で、何かが僅かに脈打っている。まるで、生き物の心臓のように。近くに立つだけで、胸の奥を撫でられるような不快感があった。
神の使者である神官が、なぜそんな禍々しいものを持っているのかとシオンは首を傾げた。
けれど、誰も疑問を口にしなかった。神官たちが、祝福のためだと言うのならそうなのだろう。村人たちはそう信じていた。
シオンより前に並んでいたリゼが、石の前へ進む。彼女は少し緊張した様子で手を組み、神官に促されるまま石の前へ立った。しかし、何も起こらなかった。神官は淡々と頷き、リゼを下がらせる。リゼは小さく会釈し、こちらへ戻ってきた。すれ違う時、シオンの方を見て、少しだけ不安そうに笑う。シオンも、何でもないと言うように頷いた。
そして、シオンの番が来た。赤黒い石の前に立つ。
——その瞬間、石が強く脈打った。
「……っ!」
胸の奥を掴まれるような感覚が走る。視界が一瞬歪んだ。地面が傾いたわけではない。空が揺れたわけでもない。ただ、自分の内側だけが、何者に覗き込まれた気がした。
頭の奥で、誰かが笑う。低く、遠く、それでいて耳元に張りつくような不快な声。
シオンは思わず後ずさりかけた。
だが、その前に神官たちの顔色が変わる。それまで淡々としていた目に、興奮が浮かんだ。隣の神官が、震えるような声で囁く。
「見つけたぞ」
シオンは、その言葉を確かに聞いた。
——何を。誰を。
そう尋ねようとしたが、喉がうまく動かなかった。
まるで夢だったかのように、赤黒い石はもう静かになっている。だが、胸の奥に残った感覚だけは消えなかった。まるで、見えない手で印を刻まれたようだった。
◇
その夜、シオンは主神殿へ連れていかれることになった。神に選ばれた少年として、特別な祝福を受けるためだと神官たちは説明した。
父も母も、不安そうだった。
父は何度も神官へ問いかけた。どれほどの期間なのか、危険はないのか、本当にシオンでなければならないのかと。
母はシオンの肩に手を置き、ずっと離そうとしなかった。
そんな両親に向けて、神官たちは穏やかに笑った。
「彼には特別な適性があります」
白い法衣を纏った神官が言う。
「デウス様の御加護を受ければ、星を守る力となるでしょう」
——星を守る力。その言葉を聞いて、村人たちは誇らしげにシオンを見た。自分たちの村から、神に選ばれた者が出たのだ。神のために、星のために、何か特別な役目を果たすのだ。そう思えば、喜ぶべきことなのだろう。
父も母も、不安を押し殺していたということは、シオンにも分かった。だから、自分も不安を押し殺し、大丈夫だと言わなければならない気がした。
本当は怖かった。なぜ自分なのか分からなかった。少し同年代の子と比べて力が強いだけの平凡な自分に、星を守る力などあるはずがないと思った。
けれど、その疑問を口にすることは、神を疑うことのように思えた。神官たちの前で、村人たちの前で、両親の前で、そんなことは口が裂けても言えなかった。
ただ一人。リゼだけが、最後までシオンの袖を離さなかった。
「行かないと駄目?」
声は弱々しく、小さかった。けれど、その手には力が入っている。
シオンは困ったように笑った。笑うしかなかったのだ。
「まあ、神様からのお告げだからな」
自分でも、少しわざとらしいと思うほど明るく言う。
「大丈夫だ。星を守るってことは、リゼのことも守れるってことだろ」
リゼは唇を噛んだ。
その表情を見て、シオンの胸が痛んだ。自分が怖い以上に、リゼを不安にさせていることが嫌だった。
「……うん」
リゼはようやく頷く。
「そうだね。シオン、わたしを守ってね」
「ああ」
「そして……絶対に帰ってきて」
シオンは胸元へ手をやった。そこには、革包みに入れた、白いツェルトリヒの押し花が入っている。あの日、丘でリゼからもらった約束の証だ。
リゼの視線もそちらに注がれていた。
「忘れないで」
「ああ」
シオンは頷く。
「絶対、忘れない」
リゼはまだ泣いていなかった。けれど、碧の瞳は澄んだ海のように潤み、今にも泣きそうな顔をしていた。
シオンはその顔を見て、必ず帰ろうと思った。
神殿で何をするのかは分からない。帰るまでにどれほど時間がかかるのかも分からない。
けれど、必ず帰る。この村へ。父と母のいる家へ。リゼのいる場所へ。
「約束しただろ」
シオンは安心させるように微笑む。
それがリゼへ向けた、最後の笑顔だった。
◇
主神殿の場所は秘されている。神官たちはそう言い、シオンに目隠しをした。
馬車の揺れ。車輪が石畳を叩く音。途中で何度か聞こえた鐘の音。長い階段を上らされた感覚。何も見えない中で感じ取れたのはそれだけだった。何も見えない時間が続くほど、不安は大きくなっていった。
何度か帰りたいと言いかけた。だが、そのたびに胸元の押し花を思い出した。
帰ってくると約束した。だから、大丈夫だ。怖くても、終われば帰れる。シオンはそう自分に言い聞かせ続けた。
やがて、目隠しが外される。
そこは神殿の広間だった。高い天井。白い石柱。壁に刻まれた祈りの文字。空気そのものが清められているように冷たく、澄んでいた。だが、その清らかさが、シオンには却って恐ろしく感じられた。
広間にある玉座の前に、一人の男が立っている。長く伸びた純白の髪。彫刻のように整った、美しい顔。背に広がる純白の大翼。
一目見た瞬間、分かった。あの男がデウスだ。この星を守る神であり、幼い頃から祈りを捧げてきた存在だ。だが、目の前の神は、村の伝承で聞いた慈悲深い救い主とは違って見えた。あまりにも美しい。美しすぎて、人の温度がなかった。
光のない黒い瞳が、シオンを見下ろす。その視線に触れた瞬間、背筋が凍った。神を前にした畏怖ではない。もっと生々しい恐怖だった。
——獲物として見られている。
そう感じた。
デウスは静かに言った。
「貴様が、器か」
——器。
その意味が分からなかった。シオンが尋ねようと口を開くより先に、デウスの黒い瞳と目が合う。
次の瞬間、意識が闇に落ちた。
◇
次に覚えているのは、冷たい鉄の感触だった。背中が冷たい。腕が動かない。脚も動かない。上半身の衣類は脱がされ、白い光の帯のような拘束が、手首と足首、首元を鉄の台へ縛りつけていた。
シオンは息を呑み、身体を捩った。しかし動かない。力を込めても、拘束はびくともしなかった。
周囲には、実験の際に纏う白衣のような服を着た男たちがいた。一見すると研究者のように見えたが、よく見ると白衣の下から神官が纏う法衣が覗いている。彼らはシオンの身体を覗き込み、何かを呟き、羊皮紙へ記録を取っている。
血の入った小瓶を持つ者。細い針を持つ者。術式を刻んだ金属具を調整する者。
さらに奥には、デウスが立っていた。黒い瞳で、ただこちらを見ている。助けるためではない。見守るためでもない。実験の経過を観察するために、そこにいる。
「何をするんだ」
シオンは唾を飲み込み、声を絞り出した。だが、誰も答えない。
「帰してくれ」
声が震える。
「俺は、祝福を受けるって……」
白い服の男たちは、反応しなかった。まるで、シオンの言葉が聞こえていないかのように。まるで、台の上にいるのが人間ではないかのように。
一人が、布に包まれた赤黒い石を持って近づいてくる。村の儀式で見た石だった。その石は、布の上からでも分かるほど激しく脈打っている。まるで心臓のようだ。
シオンの胸の奥が、冷たく掴まれる。
「何をするつもりだ!」
石の脈動が激しくなる。
「答えろ!」
男は止まらない。
「来るな!」
シオンの叫びは白い部屋に反響し、虚しく消えた。
赤黒い石が、シオンの左胸に触れる。次の瞬間、石は皮膚の内側へ沈み始めた。
ありえない感覚だった。刃で裂かれるのとは違う。押し込まれるのとも違う。生きた何かが、肉の中へ潜り込んでくる。皮膚を破り、筋肉を裂き、肋骨の奥へ入り、心臓を探し当てる。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!?」
激痛が全身を貫いた。シオンは血を吐き、背を反らせる。だが、拘束は外れない。逃げられない。
身体の内側へ何かが入り込んでくる。それはただの力ではない。確かな意志がある。こちらを見ている。苦しむ姿を愉しんでいる。胸の奥から、冷たい嗤いが広がっていく。
黒かった髪から、色が抜け始めた。根元から少しずつ夜の色が失われていき、銀白となった。毛先にはまだ黒が残っていた。だが、それも時間の問題のように見えた。
青かった瞳も変わっていく。夜空のような青が濁り、血が混ざったように暗い紫へ変質する。
左胸を中心に、赤黒い亀裂のような光が肌の下を走った。それは傷ではない。身体の内側から、何かが皮膚を食い破ろうとしているようだった。
骨が軋み、皮膚が裂けた。細かった身体には、先ほどまでは明らかになかった筋肉が浮かび上がり始めていた。何かを押し込めるかのように、内側から無理やり膨れ上がる筋肉が、骨を軋ませ、皮膚を裂き、内臓を押し潰し始める。
細身ではありながら、まるで鍛え上げられたかのような肉体へと変化していく。
痛みと熱と寒気が同時に襲い、シオンは自分の身体が自分のものではなくなっていく恐怖に呑まれた。
そして、胸の奥から声が響く。
『待ち望んでいたぞ』
低く、甘く、歪んだ声だった。
シオンは直感的に理解した。今、自分の中に入り込んだものが喋っていると。
これは神ではない。祝福でもない。呪いのような、もっとひどく飢えた何か。自分の内側に巣食った怪物なのだと。
痛みの中で、シオンの意識は途切れた。




